刑と燎⑨
巨大な客船は何の問題もなく静かに大海を進み続けている。
だが東京の港を出た時と異なるのは空や海が血のように赤いことだ。
ハクと部屋でゆっくりしていると気づけば周囲の雰囲気が変わっており、とはいえまだマスカレードナイトの会場についたというわけでもないようで、どうしたものかと思案した結果少し船内を見て回ろうという話になった。
というのも体感時間ではすでに半日以上この船に乗っており、さすがに空腹に耐えきれなくなってきたからだ。
「前菜は口当たり鮮やかな十七歳少女の血を混ぜ込んだ鮮魚のタルタルになります。ペアリングには同じく十七歳少年の血をご用意いたしました。思春期の少年少女の血のマリアージュをお楽しみください」
給仕係の男がにっこりと笑みを見せて去っていく。
対して眼前に座ったハクの表情はヴェール越しでも分かるくらいに困っている。
お楽しみくださいと言われても、ということなのだろうが、その気持ちが累には痛いほど理解できた。
「確かに考えてみればマスカレードナイトだから料理もこうなるわけね」
「驚きですわ……お腹が減っていてもこれはちょっと……」
「血を飲みたいという欲求はないの?」
私と違って一応ちゃんとした吸血鬼でしょう、という意味合いを含めて累が質問をしてみると、ハクは少し考えたのちに自分でも不思議なのか首をひねって見せた。
「それがそういう欲求が全然ないんですのよ。血の匂いはいい香りだなと思うことはあるんですけれど、普段は血を吸いたいとかこの料理を食べたいとかそんな気にはなりませんわ」
「吸血鬼なのに?」
「吸血鬼なのにですわ。自分でも不思議だなぁと思うんですの」
周りを見渡せば吸血鬼たちは用意された食事に舌鼓を打ち、グラスへ注がれた血液に恍惚とした笑みを浮かべている。
あれが普通の吸血鬼の姿なのだろうが、ハクはそういった気にはならないらしい。
累もハクのオドを利用しているせいか血を味わいたいという気にはならないのだが、これが上位吸血鬼と中位吸血鬼の差なのだろうか。
「ひとまずお姉さまがこの料理にがっつかなくて少し安心したわ。とはいえ吸血鬼なら血を吸うことは生きていくのに必要なことでしょう? 血を吸いたいと思ったことは一度もないの?」
「どう、だったかしら。言われてみればぼんやり血を吸いたいと思ったことがあったような気が……」
「ぼんやりするくらい記憶にないのね」
「そうみたいですわ。血よりもルシアンの料理のほうが好みですもの。うう、話していたらルシアンの料理が恋しくなってきましたわ」
ぎゅるるっとハクの腹が悲しく鳴き出した。
せっかくレストランにいるというのに何も口にできないというのは拷問に近い。
いつまでも口にできない料理を眺めていても辛いだけなので、残念なことだがここは料理をそのままにしてさっさと部屋に戻るしかないだろう。
そう思って累が席を立とうとするとハクが質問を投げかけてきた。
「てん、ヴァイオレットは血を吸いたいとか無いんですの? じぶ、私はその、もとは人間ですから、こういう料理には抵抗があるんですの。でもヴァイオレットはもとは人間? あまりそのあたりのことを聞いたことがなかったので……」
「なるほど」
ハクのような元人間ならともかく純粋なグリムなら気にせずこの料理も口にできるのでは、ということが気になったのだろう。
ただ累からすると自分と似たような姿かたちの人間を食すというのは嫌悪感のあるものだ。
試したことはないので食べようと思えば普通に食べられるかもしれないが、それは人間が人間を食すようなことと一緒でやれるだろうけれどそもそもやろうという選択肢に入らないと言っていい。
「過去の記憶はないの。気づいたときにはこの体だったから。でもこの料理を食べようとは思わない。かといって人間に情があるというのとは違うけれどね」
フィズ、ハク、ルシアン、そしてあの店が今の累にとって重要なものであって、別に人間を守ろうと思って狩人をしているとかそういうことはない。
カザリなどの親交ある人間が死んでしまえば残念に思うだろうが、ほかの見知らぬ人間が死んでしまっても特に思う所はないのだ。
ハクは気づいていないだろうが、おそらくこの料理の材料が船のどこかに監禁されていると予想できてもそれを言葉にしないのはそういうことが理由である。
「料理人には悪いけれど、これはこのままにして部屋に戻りましょうか」
「そうで——」
ハクの言葉を遮るように周囲がざわめいた。
視線を巡らせれば外の甲板で吸血鬼たちが歓声を上げているようだ。
累はハクを連れて甲板へと出ると、吸血鬼たちは赤い海に視線を固定し誰も彼もが歓喜の声を上げて騒いでいる。
いったい何が、と人込みの隙間を縫ってようやく血のような深紅の大海を眼下に収めてみれば、そこには巨大な島が浮かんでいた。
島そのものが一つの城のようになっており、港にはすでに多くの船が停泊している。
そしてここからでもわかるほどに城内では熱のある宴が催されているようだった。
「あれがマスカレードナイト」
ハクが気圧されたように声を漏らした。
港に泊まる大小様々な船の数々。
その船から降りて城へと向かっていく無数の列。
そしてここからでも聞こえる城内の歓声。
いったいどれほどの吸血鬼がここに集まっているのか考えるだけでも恐ろしいほどだった。
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