人魚⑲
「ほらね。誰も来ないでしょう?」
昨日とは打って変わって穏やかな波を寄せる小さな浜辺に二人は立っていた。
かつて海を自在に泳ぐことのできた魚の下半身はそこになく、アウラは白いワンピースを着て人間の足を大地につけている。
アウラは履いていたサンダルを脱ぐと、寄せる波の中に素足をわずかにつけた。
「懐かしい感覚ね。ふふ、そういえば人間の足ってこういうものだったわ。人魚の時とはまるで違う。なんだかくすぐったい」
子供の様に足の指で寄せる波をかき分け、舞い散る砂浜をすくう。
そんなアウラを不和はじっと黙って見つめていたが、彼女がこのまま海に消え行ってしまわないということに安堵したのか、少し硬さのある表情が柔らかく変化していった。
「昔はこうしてよく海に行ったな。あの時はお前が人魚だなんて知りもしなかったが」
「隠していたもの。でも、私はあのまま人間としてあなたと一緒になるつもりだったわ」
あの日、大嵐が突如として止んで戻ってきたのは累とフィズ、そして人間の足を手に入れたアウラの姿だった。
そんな彼女を見た時に、不思議と不和にはかつての記憶が戻ったのだ。
霧が晴れるようにして蘇った昔の記憶は不和にとてつもない喜びと幸福を与えたが、同時にその記憶を忘れていたということに深い悲しみと後悔も押し寄せた。
今でもなぜ長い間思い出せなかったのか、そしてなぜあの時になって思い出せたのか、それがわからない。
もっと早くに思い出していれば、彼女とこうしてもっと早くに再開できただろうにと後悔があふれる。
「気にしないでいいわ」
「な、何がだ?」
「顔を見ればわかるわ。もっと早く思い出していればって思っているのでしょう?」
「それは……まぁ、そうだ。半年前からそばにいたというのに気づかなかった。その前にはミュージアムで会っていたというのにその時にさえ気づかなかった。いやもっと早く気づけていれば、探しに行けたというのに。海の写真を撮り続けるだけで肝心のお前を忘れていたなど、本当にひどい男だ」
アウラが笑みを浮かべたまま不和の顔をじっと見つめた。
そこに不和を責める感情など一欠けらも見られない。
海の光が反射し、彼女の笑顔を輝かせているようだった。
「気づけないのも無理ないわ。魔女の呪いだもの。普通の人間ではどうしようもない。それでもあなたは私のいる海をずっと訪れてくれたし、奇跡的な再開もできた。魔女に記憶を消されて、魔女に捕まってあなたと再会して、魔女のおかげでまたあなたは私を思い出してくれた。不思議な縁もあるものね」
可笑しいわと小さく声を出してアウラは笑った。
自分が最もひどい目にあっていただろうに、そんなことなど微塵も感じさせずに声を出して笑う。
不和はそんなアウラを見て改めて愛おしいと心の底から感じた。
「ん? まて。魔女のおかげ、ということはあの彼女が私を?」
「ええ、フィズにお願いしたの。魔女の呪いを解けるのは魔女だけだから」
「そうなのか。今にして思えば記憶が戻ったりアウラが無事戻ってきたことに意識が集中していて、彼女たちにきちんと礼をできなかったな」
「今度はこちらから会いに行けばいいわ。前に名刺をもらったんでしょう?」
「そうだな。まだ私が歩けるうちに会いに行かなければな」
あまり時間が残されていないと暗に告げる不和に対して、アウラの笑い声が響いた。
何がおかしいのだろうと不和はアウラの顔を見るが、たまたま逆光になっているせいで表情がよく見えない。
もう少し近づこうかと思ったところでアウラが先に声を上げた。
「大丈夫よ。カイセイは必ず長生きするわ。そんなに急がなくても大丈夫。そうね。まずは今日の食事からすべて私が用意するわ。健康に気を使った食事を用意しないとね」
「そういえば若いころに食べたアウラの料理はどれも美味かったな。美味い食事を食べれば寿命も延びるだろう」
「ええ、その通りよ。まずはそうね。今日はお刺身にしましょう。珍しい魚で体にとてもいいのよ」
「それは楽しみだ」
アウラは海辺から上がって不和に近づくと、愛おしそうに優しくその体を抱きしめた。
「ん? 腕を怪我しているのか?」
「気にしないで。まだ人間の足に慣れていなくて少し転んだだけだから」
ワンピースの袖から覗いたのは二の腕にまかれた包帯だ。
転んでそんなところを怪我するだろうかと不思議には思ったものの、アウラが気にするなと繰り返すものだから不和はそれ以上何も言えない。
「そんなことよりも今日の食事を楽しみにしていて」
「ああそうだな。そうしよう。久々の手料理だものな」
「ええ、楽しみにしていて。ずっと、ずっと、長生きするのだから」
***
「不思議ですね。たった数日空けてただけなのに、なんだか妙に懐かしく感じますよ」
「うん。あんまり長く留守にしたことがなかったからね」
数日ぶりに帰宅した我が家は以前と何も変わらないものの、累たちのほうが変わったのか妙に懐かしく居心地が良い。
そして安心できる場所だと理解しているからか、旅行では感じていなかった疲れというものもどっと押し寄せてきた。
「ふぁ、だめだこりゃ。アタシは先に寝るぜ」
「自分も寝るっす。なんか疲れが急に来ちゃって」
「うん。おやすみ。明日も店は休むからゆっくり寝ていいよ」
「どうもっす。おやすみなさい」
大あくびをしながらハクとルシアンが荷物をもって地下へと降りていく。
ハクなどは空港からここまで帰ってくるときも意識が飛びそうになっていたので、かなり疲れているに違いない。
実際旅行で楽しむだけでなく、予想外に狩りを行うことになったのだから疲れがたまるのも当然だろう。
「フィズは?」
「私は大丈夫です」
「じゃあ何か一杯作ろうか」
「わー! ありがとうございます!」
職業病というわけではないがカウンターに入るとうずくものがあり、累は久々にカクテルを作る用意を始めた。
フィズに声をかけた時から何を作るかは決めているので材料を手早く出していく。
「そういえば人魚の逸話で話してないのがまだあってさ」
「どんな話ですか?」
カウンターに座りながらフィズが問いかけ、累はシェイカーに材料を入れながら話を続けた。
「昔とある娘が誤って人魚の肉を食べたんだって。ただの魚の肉だと思ったのか、騙されたのかは知らないけど、とにかく人魚の肉を食べてしまってそれ以来彼女は歳を取らなくなった。両親が死に、夫が死に、友人知り合いもみんな死んで、たった一人残された彼女は自分が不老不死になったことを理解した。そうして八百歳を超えたあたりで生き続けることに絶望して、最後はひっそりと洞窟の中で死んでしまったってお話」
「不老不死なのに死ぬんですか?」
フィズの言葉に累はかぶりを振って答えた。
累が降るシェイカーからは気持ちのいい音が静かな店内に響く。
「日本では八百比丘尼と呼ばれて死んだことになってるけど、不老不死ってそんな簡単に死ねるものじゃないでしょう? きっと今もどこかの洞窟で生きてるよ。断食して死のうとしたらしいから、ミイラみたいになってるかもしれないけどね」
グリムのことをよく知る累やフィズからすると不老不死は死のうと思って死ねるものじゃない。
だからこそ不老不死と呼ばれるのだから、断食したところで死ねるのならば不死者もそれを狩ろうとする狩人も苦労しないだろう。
「つまり人魚の肉を食べると不老不死になるって話なんだけど、別の言い伝えもあってさ」
「どんな話です?」
「人魚の肉を食べると狂うって話」
「狂う?」
累はいつもの無機質な瞳をフィズに向け、今度はこくりと頷いた。
「人間が食べると正気を失って姿かたちが魚に似てしまうんだって。ほかにも鯨が人魚の肉を食べれば禍々しく凶暴に、イカが食べれば巨大になったりね」
「不思議と見覚えがありますね。でも人間が食べてそうなっちゃうとすると、八百比丘尼の話はおかしくないですか?」
「そうなんだよね。そこがずっと不思議だったんだけど、アウラを見てたらなんとなくわかったかも」
フィズが「それは?」と問いかけると、累はわずかに口の端を釣り上げた。
長く累と接していないとわからないであろう微々たる変化だが、これは累が得意げな顔をしているときの変化だ。
累はシェイカーからグラスにカクテルを注ぎ、フィズに差し出す。
南国を思わせるピンク色の可愛らしい色合いのカクテルだ。
「シーブリーズ。どうぞ」
「南国帰りにはぴったりなお酒ですね」
フィズが口に含めば口内にグレープフルーツとクランベリーの甘酸っぱさが広がった。
シーブリーズという名の通り海風を感じさせる味わいで、海で泳いできたからなのか不思議と海の塩味さえ感じる。
脳裏に広がるのは沖縄の海とあの小さな入り江にいた人魚のこと。
「あの二人を見てたらなんとなくこれが作りたくなってさ」
「名前的にはぴったりですもんね」
しばらくそうして静かにフィズが酒を飲んでいるのを累はじっと見つめていた。
そして小さな口を開く。
「多分、愛しているかどうかなんだよ」
「愛?」
「八百比丘尼は人魚に愛されていたんだと思う。人魚が八百比丘尼を愛していたから、彼女にずっと生きていてほしくて自分の肉を食べさせたんだ。不老不死になって、永遠に私と生きてってね」
「狂わないのも姿形が変わらないのも愛していたからってことですか?」
「多分ね」
「でも確かにその考えなら言い伝えが二つあるのも理解できますね。人魚に愛されたものは不老不死に、愛されていないものはグリムになって人魚のしもべになるってことですから」
累の表情から先ほどまでの笑みが消えた。
最初と変わらぬ無表情に近いが、今度は眉がほんの少し下がっている。
「自分の体の一部を食べさせるってのはさ、愛情表現としては究極に近いのかもね。人魚からしたらプロポーズみたいなものだったのかも」
「累さんは私のこと食べたいですか?」
「食べたくない」
「えー何でですかぁ……」
フィズの残念そうな顔に累は小さく笑った。
「でもこうして考えると、愛されるってのは本当に呪いのようなものだね。人魚が八百比丘尼を愛したせいで、彼女は八百年以上生き続けて今もどこかの洞窟で絶望しているんだから」
「でももし八百比丘尼のそばにその愛した人魚がいたら、彼女も不老不死に絶望しなかったかもしれませんよ」
「確かに。そういう考えもあるね」
「そう! 私と累さんみたいに!」
瞳を煌めかせるフィズに向かって累が向けたのは、今度は誰でも理解ができる優しいな笑みだ。
「マイナス同士をかけたらプラスになるみたいに、呪いも双方向なら幸せになるってことかな」
「はい!」
累の答えに満足したフィズは満面の笑みのままカクテルを口に含む。
あの二人は果たしてどちらなのだろうなと思いながら。
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