人魚⑯
「おや?」
フィズが後ろを振り向けば追ってきていたはずの魚人たちの姿がなかった。
諦めたというのも不思議だが、もしかしたら累のほうへ戻ったのかもしれない。
一瞬累の応援に向かうべきか悩んだものの、そんな考えは馬鹿らしいなとフィズは歩み――今は泳ぎだろうか――を止めることはなかった。
愛する累が魚人程度に苦戦するはずもないし、むしろここで戻ってしまえば累を侮ることにもなってしまうと思ったからだ。
「まぁそれでもさっさと累さんの所には戻りたいんですけど」
人魚の女王とやらを討伐しないと戻れないし、嵐を呼んでいるということならさっさと始末しないと明日の旅行の日程にも差しさわりが出る。
累が思いのほかこの旅行を楽しみ、そして昨日今日と天気が崩れたことにがっかりしていたようなので、ここで手早く女王を狩って明日は心から楽しんでほしいところだ。
そんな思いからか先ほどよりも速い泳ぎで先へ進むフィズの前に、海底に深く開いた崖から巨大な影が飛び出した。
大きさは三メートル程度であり、下半身は魚で上半身は女性。
つまりは人魚である。
「貴様もあの気狂いのしもべか。妾を追ってきたのだな」
「追って?」
妙だなと思う。
この人魚は見るからに女王という雰囲気だが、であるならばアウラを追う立場ではないだろうか。
「侮るなよ。妾は三百年もの間、女王として君臨し続けてきたのだ。それをあんな狂った輩にいいようにされてたまるものか! 出会え!」
女王の怒気に合わせて現れたのは数名の人魚たちだ。
こちらはアウラを迎えに来た人魚たち同様に普通の大きさだが、それぞれ原始的な槍や剣などを手にしている。
「ずいぶん数が少ないですね」
「馬鹿にしているのか! 貴様の主のせいだろうが!」
「……アウラの?」
目の前の人魚たちは女王を除けば十人もいない。
それに全員が何かしらの傷を負っているようだった。
アウラの話では突如襲撃されて手も足も出なかったということだったが、彼女たちも被害がかなり大きいように思える。
「宣戦布告もなくいきなり襲撃してきたうえにあのような卑怯な手を……ましてや己のしもべを使い捨てにするなど、女王としてあるべき姿ではない!」
「それってどういう――」
「黙れ! 貴様の首をあの気狂いに送り付けてやる! 同胞の弔い合戦だ! かかれ!」
見るからに憤怒に支配されている女王ではまともに話ができないようだ。
とはいえ質問に答えてくれないのならば魅了して話を聞けばいいだけのこと。
配下の人魚たちもろとも魅了してしまうかとフィズが少し力を開放しようとしたところで、目の前を大きな影が横切った。
「え?」
驚きの声を上げたのは迫っていた人魚たちのほうだ。
その視線は一点を見つめており、フィズもつられてそちらを向いてみれば鯨に似た巨大な魚影とそれに嚙み千切られた無残な人魚の残骸があった。
「また同じ手を! ぎゃッ――」
怒りの声を上げた人魚が別の所から現れた魚影に噛み千切られて沈んでいく。
フィズが視線をぐるりと回せばいくつもの巨大な魚影があたりを取り囲んでいた。
「サメ? いや、えっとなんでしたっけあれ?」
確か少し前に累と映画で見たのだ。
遥か昔に絶滅したはずの巨大サメが実は生きていて、現代で大暴れする巨大サメを主人公が単身で討伐するというストーリーである。
グリムという怪物を知っている二人でも主人公が銛を片手に巨大サメの口の中へ飛び込む際にはハラハラしたものだが、そう思い起こしたところでフィズはその名前を思い出した。
「そうそうメガロドン」
映画で見たものより小さいし形も違う気がするがアレはフィクションなのでこれが本物なのかもしれない。
などと思っている合間に気付けばメガロドンの集団が次々と人魚たちを捕食している。
周囲は逃げ回る人魚の悲鳴とそれを追うメガロドンたちばかりだ。
「そんな名前ではないわ。イルヴェリよ」
「ん? アウラじゃないですか」
赤く染まった海からすっと現れたのはアウラだ。
こんな状況で変わらない笑みを浮かべているのがなんだか不気味な女だなとフィズは思っているが、おそらくアウラもこの状況で顔色一つ変えないフィズを見てそう思っているに違いない。
「あれメガロドンじゃないんですか?」
「違うわ。イルヴェリという鯨に似たグリムよ。かなり好戦的なの」
なんだただのグリムか、とフィズは少しがっかりしたのか肩を落として見せる。
絶滅したはずの生物が実は生きていたとなれば累も見たいと言っただろうに、これじゃ帰って報告してもつまらない。
「フィズ、ちょっとあなたと話したいことがあるのだけれど――」
「貴様! 貴様! よくも妾のしもべたちを!」
さすがは女王というべきか、イルヴェリの一頭を殺してアウラを見下ろしている。
表情は見るからに怒り心頭といった様子だが、対するアウラはああそういえばと何かを思い出すようにしながら苦笑して見せた。
「ごめんなさい。そうね。先にあなたの相手をしないとね」
「貴様の配下がいくらいようと妾がッ――」
「あまり時間がないの。それにもうあなたの役目は終わりよ」
アウラが直接何かしたわけではない。
人魚たちを追っていたイルヴェリたちが最後に残った獲物へ集団で襲い掛かっただけだ。
しかしそれはピラニアがいる川に血の滴る鶏を落としたようなもので、女王は悲鳴を上げながらもがくが逃げられるはずもない。
次第に声は収まり抵抗もなくなり、イルヴェリたちが肉を食いちぎる音ばかりが海中に響いた。
「全部綺麗に食べてね。変に残されても困るわ」
アウラの指示にイルヴェリたちが言われるまでもないという様に女王の体を貪っていく。
そう時間を経たずに残ったのは女王の血に染まった真っ赤な海水だけだ。
「話の途中でごめんなさい。いいかしら?」
「ええ、まぁ」
女王が死んだことで先ほどまで荒れ狂っていた海も穏やかになり、大雨が嘘のように太陽の光すら差し込んできている。
目的だった女王も死んで天気も元通りとなれば、もうフィズがやることは特に何もない。
話を聞くくらいの時間はある。
「端的に言うわね。私と取引してほしいの」
「人間になりたいんですか?」
わかり切った答えをフィズが伝えると、アウラは話が早いと笑みを深める。
「さすがね」
「わかりますよ。あのおじいさんと一緒にいたいんですよね?」
「そう。でも私がこのまま人魚でいてもカイセイとは暮らせないわ。どうしても人間の足が必要なの。あなたなら出来るでしょう? こうして人魚に変化するほどの魔術が扱えるのだから」
フィズにとっては簡単なことだ。
というよりも魔女と呼ばれる彼女たちであれば出来ないほうがおかしい。
ただ魔女のその豊富なオドは自分自身の欲望のためだけに使われるものであって、決して見ず知らずの他人のために使うものではないのだ。
「仮に人間になったところであのおじいさんは結構な歳ですし、一緒にいられる時間も少ないんじゃないですか。そこまでする必要あります? まさか不老不死にしろとまで言いませんよね?」
「そんなことは言わないけれど、カイセイについても一つお願いがあるの。彼の呪いを解いてほしい」
「呪い?」
アウラの表情が深刻なものに変わった。
それほどまでに重要な話らしい。
「カイセイは魔女の呪いで記憶を失っているの。その記憶を取り戻したいのよ」
「記憶を……どの魔女ですか? スロー、いや瀲の魔女ではないですよね?」
「宵の魔女だと名乗っていたわ」
「ああ、アプリコットですか……」
人の不幸が自分の幸福だと公言している彼女ならば呪いをかけることだってあり得るだろう。
もともとほかの魔女と仲がいいわけではないフィズだが、宵の魔女ことアプリコットは魔女たちの中でもあまり関わりたくない部類だ。
「まぁあなたの要望は理解しましたけど、お仲間の人魚たちはどうするつもりですか? あなたが人間になったら彼女たちが怒ると思うんですけど」
「あはは、そんなこと気にしないでいいわ」
フィズの問いかけにアウラは声を出して笑って見せた。
先ほどの不和の話の時とはまるで正反対で、人魚たちのことなどどうでもいいと思っている風だ。
「気にしないでいいって?」
「それは問題ないのよ。だって全員死んでもらったもの。せっかく私が人間になってカイセイと暮らせたとしても、毎日浜辺で歌われたら迷惑でしょう? さっきの女王が私の存在に気付いていたから、ちょうどいいし双方でぶつかって私以外全滅してもらったわ。でも誤解はしないで。彼女たちは私のためにあの女王へ戦いを挑んで死んだの。命を落としてもきっと役に立てたと幸福だったに違いないわ」
アウラの配下のしもべたちは幸福だったかもしれないが、それに巻き込まれた女王とそのしもべたちは完全な被害者だ。
そのことについてはまるで気にもせず、邪魔者がいなくなったことを喜ぶようにすっきりとした笑みを浮かべるアウラの周りには、まだ女王の血に染まった海水が漂っていた。
まるでアウラを呪うように纏わりついているが、それが逆に彼女の妖艶さを際立たせている。
「まぁ別にいいんですけど、あの女王はかなり怒ってましたよ」
「ああ、たぶんイルヴェリを途中でけしかけたせいね。女王の軍勢と私の人魚たちが争っている最中に、横からうちの人魚もまとめてイルヴェリに食べさせたのよ。いい囮になってくれたおかげでイルヴェリの奇襲は大成功だったわ。私の人魚も全員死んだけれど、向こうの人魚の数も減ったから一石二鳥ね。十分に役目を果たしてくれたし本当に感謝しているわ」
アウラをキラキラとした瞳で見上げていた人魚たちの姿が脳裏をよぎるが、フィズからするとそこに情けをかける理由は一つも見当たらなかった。
同じ立場であればそうしただろうし、役に立ったとアウラが言うのならば本人たちも喜んでいるに違いない。
「もしかしてあの魚人も」
「人手が足りなくてね。私たちにちょっかいをかけた彼らに役に立ってもらったわ」
「そうですか。まぁどうでもいいです。ひとまず話を戻しましょうか。取引の話ですが、あなたの望みはさっき聞いた二つでいいんですか?」
自分を崇拝していた人魚を犠牲にし、関係のない女王やしもべも殺し、果ては人間までも魚人に変えたのはすべてこの取引のために違いない。
おおよその予想はできるし断るのは簡単だが、そこまでのことをして取引を持ち掛けてきたのだから話だけは聞いてみようかとフィズは彼女の言葉を待つ。
こちらの利益になる取引ならば望みを叶えることもやぶさかではない。
「ええ。一つ目は私に人間としての足を与えてほしいの。カイセイとともに陸で生きていけるように。そして二つ目はカイセイの呪いを解いてほしい。彼が記憶を取り戻してくれれば、きっと私をもっと愛してくれる」
不和と永遠に仲睦まじく生きていく。
それがアウラの望みだ。
しかし一体不和の何がアウラをここまで魅了させるのか。
「まるであなたがあのおじいさんに魅了されているみたいですね。ここまでのことをするなんて」
「魅了……ね。そうかもしれないわ。でも私とカイセイは愛し合っていたのよ。もうずっと昔のことで、当時の私は私ではなかったし、カイセイは忘れてしまっているけれどね」
妙な言い回しだ。
フィズが不思議がっているのが伝わったのか、アウラは先ほどまでのよどみない話し方とは異なり、昔を思い起こすようにぽつぽつとゆっくり語り始めた。
「人魚の女王はこれまでの女王の記憶を全て引き継ぐの。だから本当は子を産むというよりは新しい自分を産むといったほうが正しいのかもしれないわね。そしてかつての私、つまり私の母がカイセイと愛し合っていた。今の私ではないけれど、私にはカイセイと愛し合っていた記憶がある。確かに私たちは愛し合っていたのよ」
人魚にそんな能力があったのかとフィズは素直に驚いた。
母親の記憶とはいえその愛情を自分の感情として感じるのならば、それを抑えるのは難しいことかもしれない。
というよりも母親と自分という境目すらないのかもしれない。
「あなたたちからすればおかしな話に聞こえるでしょうね。母親と私じゃ別人だからって。でも私からすると愛した人が目の前にいるのよ。それももうすぐ死んでしまう。記憶では若くてたくましかった彼が、今ではあんなにも小さくなってしまった。それでも彼の笑みも、私を見る目も、何も変わらない。そんな彼と少しでもそばにいたいと思うのは普通じゃないかしら?」
アウラの気持ちがフィズにはよくわかった。
もし累が朝目覚めたら弱弱しく今にも死にそうになっていたとしたら、そして愛し合っていた記憶も忘れてしまっていたとしたら、フィズはそう考えるだけで身震いする。
アウラにとってはそんな気分なのだろう。
だが果たしてアウラは記憶を戻してそばにいるだけで満足するのだろうか?
アウラはもっと単純かつ重要な問題に触れていないが、フィズはあえてその部分には触れない。
言わないということは何かがあるのだろうから。
「どうか……お願いよフィズ」
自分の意識に入り込んでいたフィズをアウラの声が引きずり出した。
彼女は居住まいを正し、海中なので跪くことはできないが、それでも頭を下げて人間で当たるところの膝の部分を少し折って礼をする。
彼女にとっての最大の敬意の表し方なのだろう。
「願いを叶えてくれるのなら、私はあなたの忠実なしもべとなるわ。決してあなたを裏切らないと誓う」
「それを私が求めているとでも?」
フィズの冷めた言葉にアウラは顔を上げた。
浮かんでいるのは口の端をわずかに釣り上げた不敵な笑みだ。
「もし私があなたの立場なら、愛した人と二人きりで生きていきたいと思うわ。ほかに余計な誰かを近づけたくなんかない。でも協会の狩人もいつまで味方かしら。ほかの魔女だって味方というわけではないでしょう? だからもしものためにハクとルシアンをそばに置いている。違う?」
考えが似ているというのは厄介だなとフィズは感じた。
アウラの話した内容に間違いなど何もないのだから。
「ハクとルシアンだけで脅威からすべてを守り切れる? あなたにはもしもの時の味方がもっと必要ではなくて? それも決してあなたを裏切らない忠実なしもべならなおの事良い。私にはカイセイという首輪があるもの。決して裏切ったりしないわ」
自分から首輪を差し出してくるのは賢いやり方だ。
フィズからすれば敵か味方かもわからない協会の人間よりもずっと信用できる。
それにこの世界の大半は海なのだから、そこに信用できる味方がいるというのは大きいだろう。
「それに私はほかの人魚たちとは違う。あなたならわかっているでしょう?」
アウラの表情に最初の笑みはなかった。
今はただ必死に縋り付くような視線を向けるだけ。
それほどにこの取引に全てを懸けているのだろう。
「さぁ答えて! 私の取引を受けるかを!」
アウラが自然と祈るように手を合わせているのは神に祈るような気持ちになっているからなのか。
それともフィズを神だと思っているのか。
「私の答えは――」
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