なり損ない⑨
高速道路をひた走るのは日本では正規販売されていない『地獄の猫』という名前を冠する珍しい車だ。
低く重く心臓に叩きつけるようなエンジン音を響かせながらも、その名には似つかわしくないまるで何かから逃げるような忙しなさで次々と車を抜き去っていく。
運転する男はつい何度もバックミラーを確認してしまうのか、鏡に映る自分を見ると自嘲気味に鼻で嗤った。
(あの人形……こっちを見てたな。なんで避けなかった? カンビオンに魅了されてるようには見えなかったが)
会話の最中にあのまま交渉が決裂すれば不利な状況になると悟り、咄嗟にナイフで先制したことは間違った判断だとは思っていない。
先に手を出さなければあちらが、特に後ろで黙り込んでいた奴が何をしでかしたかわからない。
手前の人形はまだ話が通じそうだったが、後ろの混血児は間違いなく人を人とも思っちゃいない。
だからこそ先手を打って危険そうな背後の女を狙ったのだ。
(だってのに庇うとはな)
手前の女がすっと横にずれて庇ったのだ。
それも不気味なことにじっとナイフを見つめたまま、自分の額に突き刺さるのを黙って待っていた。
確かにナイフをはじくのは間に合わなかったのかもしれないが、だからと言って普通の神経で自分の頭に突き刺さるナイフをじっと見つめるやつがいるだろうか。
(できれば始末しておきたかったが協会の依頼だって言ってたな。あんな化け物どもを雇って……俺だってすべてのグリムが人間に害をなすとは思っちゃいないがあれは違うだろうよ)
片割れの額にナイフが刺さったのを見た時の女の顔。
あれはショックで放心したなんて甘いものじゃなかった。
すべてを失ったような、深い奈落に引き込まれたような、そして何もかもを憎まずにはいられない正真正銘グリムの顔だった。
人形が起き上がったことでそれは仮面の下になりを潜めたが、もしあのままだったらどうなっていたことか。
ナイフを投げておきながら人形が起き上がったことに小さく安堵の息を吐いたくらいに、あれは危険な状況だった。
(下手したら今日が俺の命日かもしれんな)
狩人として長い間危険なグリムやそれ以上に恐ろしい同業者と渡り合ってきたものの、その両方が一緒になって敵になったことは今日が初めてだ。
後部座先で袋に入れられて転がるなり損ないをバックミラー越しに見つめ、この仕事を受けたのは間違いだったかもしれないとわずかな後悔がよぎる。
「だがまぁ安心しろ。仮に俺が死ぬことになったとしても、お前は父親のところに帰してやる。そういう契約だからな」
ハンドル横のホルダーに取り付けられたスマートフォンが軽快な音とともに振動する。
着信画面に出た相手の名前に眉根を寄せながら老狩人は応答を許可した。
「い、今例の場所に着いたんだが、あの子は大丈夫か? 怪我とかしてないか? あとどれくらいでこっちにこれる?」
聞こえてきたのは気弱そうな男の声。
焦っているのか声が震えており、その情けなさに聞いているだけで頭が痛くなる。
「落ち着け。今そっちに向かっているし怪我もしていない。まぁ問題がないわけじゃないがな」
「な、問題ってなんだ!? 何かあったのか!?」
「落ち着けって言っただろうが。お前が焦ったところでどうにもならねぇよ」
「わかってる。わかってるさそんなこと……だからあんたに頼んだんだ」
臆病さが鳴りを潜め、口惜しそうに男が自分の無力さに歯噛みする。
彼が自分の無力さを理解したうえで本来なら話もしたくない相手に仕事を頼んでいることを知っている老狩人は、しばらくの間を取ってから状況を説明した。
なり損ないが新しい犠牲者を出したこと、狩人を何人か殺害したこと、そして協会に存在がバレたこと。
「……あの子が、また人を襲ったのか。狩人にも狙われているなんて。ばれないようにって頼んだじゃないか!」
「やることはやったさ。だがな、一度お前に引き渡した後、閉じ込めるのが嫌だのなんだのと言って結果的にまた逃げられたのが原因だろうが。おかげで狩人を殺す羽目になるしビルは丸々死体だらけだ。そこまで被害が出て隠し通せると思うか?」
煙草に火をつけ煙をひと吐きすると、匂いに反応したのか後部座席のなり損ないがバタバタと暴れだす。
あれだけ血を吸ったのにもう腹がすいたのか。
それこそ育ち盛りの子供のようだ。
「契約は契約だ。きっちりこの子は届けてやる。だがそのあとはどうするつもりだ? 協会の狩人共は血眼でお前らを探すぞ。逃げられるわけがねぇ」
「うるさい! わかってるそんなこと!」
「だったら仮に逃げ切れたって先がねぇこともわかってんだろ? 今度はこいつを地下室にでも閉じ込めとくのか? んなこと無理だってわかったろ? 今お前が父親としてやるべきことは――」
「父親って言葉をあんたが使うのか!? じゃああんたはあの子を! 自分の孫を……殺せるのかよ!」
血を吐くような言葉だった。
男の荒い息とは対照的に、老狩人の翡翠色の瞳には欠片の揺らぎも感じられない。
お互いにしばしの沈黙の中、スマートフォンはただエンジン音となり損ないが暴れる音だけを拾い続ける。
「とにかく早く連れてきてくれ」
しばらくの沈物の後、短く言い捨てると男は電話を切った。
老狩人はただ煙草をくわえて何も反応を示さなかったが、灰となったタバコが重さに耐えきれずに落ちていき、耐火性のある服の上で静かにくすんでいた。




