第97話 静かな大精霊の怒りと、生まれたばかりの魔人
地下道の曲がり角から、俺はもう一度だけ扉の前を確認した。
短剣と小盾を持つガルムと、槍を持つローデス。
二人とも周囲を警戒しているが、こちらにはまだ気づいていない。
扉の奥へは、大聖樹から奪われた魔力が今も流れ込んでいる。
(ここで間違いなさそうだ)
少し待ってみたものの、他に見張りが巡回してくる様子はなかった。
中へ入るなら、まず二人を静かに無力化する必要がある。
どう動くか考えていると、隣にいたウンディーネが一歩前へ出た。
『わたしがやる』
「ウンディーネ?」
次の瞬間、扉の前に立つ二人の顔を透明な水球が包み込んだ。
「――っ!?」
「ぐっ……!」
二人は反射的に顔へ手を伸ばす。
だが、掴もうとしても水は指の間を抜け、形を崩したところもすぐに元へ戻っていく。
ガルムが短剣を振るったが、水を切ったところで意味はない。
ローデスも槍を落とし、必死に水球を引き剥がそうとしていた。
声も出せず、息も吸えない。
それでもウンディーネは表情を変えず、二人の様子を静かに見ている。
やがてガルムの膝が崩れ、少し遅れてローデスも床へ倒れた。
二人の身体から力が抜けた瞬間、水球はすぐに弾けるように消える。
俺は少し離れた場所から二人の様子を確認した。
呼吸は戻っている。
「……気絶させただけか」
『うん』
ウンディーネが手を向けると、床へ落ちた水が持ち上がった。
それぞれの手首と足首へまとわりつき、さらに胴にも透明な水の輪が回る。
水はそのまま鎖のような形で固まり、二人の身体をしっかり固定した。
見た目は透き通った水なのに、床へ流れ落ちることもない。
「これ、自分たちで外せるのか?」
『無理だと思う』
「思う?」
『わたしより強かったら、できるかも』
普通の人間にはまず無理ということらしい。
相手を殺さず、声も出させず、周囲へ知らせる暇すら与えない。
しかも意識を失ったところで止め、逃げられないよう拘束まで済ませている。
水を扱う大精霊の力を何度も見てきたが、こうして敵へ向けられると改めて凄さが分かる。
俺は二人の呼吸をもう一度確かめてから、扉へ向かった。
鍵は掛かっていなかった。
音を立てないようゆっくり開けると、その先には人工的に整えられた地下通路が続いていた。
俺たちは中へ入り、扉を静かに閉める。
施設内部は洞穴だった場所を利用しながら、かなり手が加えられていた。
壁には一定間隔で魔導灯が並び、左右にはいくつかの扉がある。
木箱や袋などの物資も積まれ、長期間使う前提で作られた施設らしい。
ウンディーネは足を止めず、奥へ続く魔力の流れを追っている。
俺たちも周囲を警戒しながら進んだ。
少し先の部屋から、人の声が聞こえてくる。
「導出量はまだ落とすな。上からの指示では、必要量に届くまで続けることになっている」
「だが、街の連中も異変に気づいてるぞ」
「だから何だ。アドヴァースの計画を止めるわけにはいかん」
その名前を聞いた瞬間、疑いは消えた。
(やっぱり、アドヴァースだったか)
以前の連中とやり方が似ているだけではなかった。
ここは間違いなく、アドヴァースの拠点だ。
俺は如意の金剛棒へ手を伸ばす。
だが、それより早く部屋の中から一人がこちらへ出てきた。
目が合う。
「誰だ――」
声が続く前に、その男の顔も水で包まれた。
室内から椅子が倒れる音が響く。
「侵入者だ!」
「魔法を――」
複数の声が上がった。
俺もすぐに部屋へ踏み込む。
中には十人ほどの男女がいた。
武器を取る者。
杖を構える者。
逃げようとする者。
それぞれが動き始めていたが、その全員の頭部へほぼ同時に水球が現れた。
「――っ!」
詠唱しようとしていた魔術師の口も水の中へ沈む。
剣を振り上げた男も、その場で水球を掴もうとして両手を顔へ持っていった。
逃げ出した一人には水球そのものが追従し、振り払うことすらできない。
「ワフッ!」
メイも飛び出せるよう身構えたが、その必要はなかった。
俺も如意の金剛棒を取り出しかけたまま動きを止める。
次々と人が膝をつき、床へ倒れていった。
一人が意識を失うたび、その水球だけが消える。
最後の一人が崩れたところで、室内から水球がすべてなくなった。
その直後、入口の二人と同じ透明な拘束具が、一人ずつ手足と胴へ巻きついていく。
静かになった部屋を見回した。
誰も死んではいない。
全員、呼吸もしている。
「……全部終わった?」
『うん』
ベルが倒れたアドヴァースたちを見回したあと、ウンディーネを見る。
俺も同じだった。
普段なら水の枕に寝転んでいたり、食べ物を見つけて寄ってきたりするウンディーネが、一人でこの人数をほとんど何もさせずに制圧してしまった。
「今回は随分本気だったな」
俺がそう言うと、ウンディーネは床へ倒れている連中ではなく、地下のさらに奥へ視線を向けた。
『……あの子から、ずっと取ってたから』
声は小さい。
怒鳴りもしないし、気絶した相手へさらに何かすることもなかった。
ただ、一切遊ばず終わらせただけだ。
それがかえって、ウンディーネがどれだけ怒っているのかを感じさせた。
「先を見よう」
『うん』
拘束されている連中をそのままにし、俺たちはさらに奥へ向かった。
途中にあった部屋を簡単に確認すると、魔導具や記録用の書類、食料などが置かれている。
机の上には魔力の導出量らしい数値が書かれた紙もあり、その中にはアドヴァースの名前が記された指示書もあった。
もう施設の所属を疑う余地はない。
ウンディーネが魔力を追って進んだ先には、大きな扉があった。
中へ入ると、これまでとは明らかに違う設備が置かれている。
部屋の中央には、大きな円筒状の魔導装置が据えられていた。
その周囲へ何本もの術式が伸び、壁や床を通って複数の方向へ繋がっている。
淡い魔力の光がそれぞれの術式から中央へ集まり、装置の中へ吸い込まれていた。
「ここか」
『うん。全部ここに来てる』
俺は装置へ【鑑定】を使った。
【魔力集約中枢】
詳細:複数地点から送られてきた魔力を一か所へ集め、蓄積・供給するための大型魔導設備。接続されている魔力導出術式全体の中枢として機能しており、この設備を停止または破壊することで末端からの魔力導出も維持できなくなる。現在は大聖樹由来の高密度な魔力を大量に蓄積している。
「これを止めれば全部止まるのか」
末端の設備を一つずつ壊す必要はない。
この中枢が動かなくなれば、大聖樹の根から魔力を抜き続けることもできなくなる。
ウンディーネも装置を見ながら頷いた。
『止めたら、あの子から取れなくなる』
それなら迷う理由はない。
だが、装置のさらに奥には別の大きな術式が描かれていた。
床いっぱいに広がる複雑な魔法陣。
魔力集約中枢から太い導線が伸び、その術式へ繋がっている。
見覚えのある目的が頭をよぎる。
アドヴァースが以前から進めていた、魔神召喚。
周囲に置かれた資料へ目を通すと、やはり召喚に必要な魔力を集めるための設備だった。
大聖樹と、そこに棲む木の精霊。
膨大な魔力を持ち続ける存在から、気づかれない程度に少しずつ奪い続ける。
そして必要量へ近づけるため、最近になって吸収量を増やした。
その結果、今まで維持されていた常春の加護にまで影響が出たのだろう。
「ずっとこれのために集めてたのか……」
ベルも魔法陣を見ながら顔をしかめた。
ウンディーネは何も言わなかった。
ただ、大聖樹から流れ込んでくる魔力をじっと見ている。
「中枢を壊そう」
『うん』
俺が装置へ近づこうとした、その時だった。
「……待て……」
背後から掠れた声が聞こえた。
振り返る。
さっき制圧した連中のうち、一人の男が扉の近くまで身体を起こしていた。
手足も胴も水の拘束具で固定されたままだ。
まともに立つことすらできない。
おそらく、この施設の責任者だろう。
「ここまで……集めたのだ……」
男は苦しそうに息をしながら、歪んだ笑みを浮かべた。
「無駄には……させん」
男が拘束された指先を僅かに動かした。
壁際の小さな石板が光る。
次の瞬間、魔力集約中枢が大きく振動した。
「っ!」
ウンディーネが即座に動く。
水が男の身体をさらに包み、今度こそ指一本動かせないよう床へ押さえつけた。
しかし遅かった。
中枢に蓄積されていた魔力が、猛烈な勢いで召喚術式へ流れ始める。
『もう動かした』
「止められるか?」
俺は装置を見る。
今まで静かだった魔法陣が強く光り、複数の術式が一斉に起動している。
下手に壊せば、行き場を失った大量の魔力がどうなるか分からない。
ウンディーネも魔力の流れを見て、首を横に振った。
『もう出てくる』
「召喚されるのか?」
『うん。でも……足りない』
「足りない?」
『魔力。まだ足りないよ』
だから最近、吸収量を増やしていたのか。
本来必要な量へ届く前に、あの男が無理やり術式を発動させた。
魔法陣の光がさらに強くなる。
同時に、部屋の中が暗くなった。
魔導灯はまだ点いている。
それなのに、その光まで何かに飲み込まれるように見えなくなっていく。
「ベル、近くにいろ」
「うん」
メイが俺の足元へ寄る。
シルクも頭の上で身を低くした。
ウンディーネの気配もすぐ隣にある。
視界が完全に暗闇へ沈んだ。
数瞬だけ、何も見えない時間が続く。
やがて黒いものが薄れていった。
最初に見えたのは、床の魔法陣だった。
その中央に誰か立っている。
巨大な怪物ではない。
かなり小柄な、人の形だった。
見た目は十二歳くらいの女の子だ。
肩より少し長い髪。
頭には小さな角が二本生えている。
身体には魔力で作られたような簡素な服をまとっていた。
少女はその場に立ったまま、ゆっくり周囲を見回す。
拘束されたアドヴァースたち。
魔導設備。
岩に囲まれた地下室。
そして俺たち。
生まれたばかりとは思えないほど普通に状況を見ている。
ただ、少し眉を寄せた。
「……ここ、嫌」
普通に言葉を話した。
俺は如意の金剛棒へ手を掛けたまま、少女を見る。
アドヴァースが魔神を召喚しようとしていた術式から出てきた存在だ。
安全確認をしない理由はない。
【鑑定】を使う。
【魔人】
詳細:高密度の魔力が肉体と人格を得ることで生まれる、精霊に近い性質を持つ種族。魔そのものに近い存在で、極めて高い魔力操作能力を持ち、呼吸や手足を動かすのと同じような感覚で魔法を扱う。老化による寿命を持たないが、肉体や存在そのものを完全に破壊されれば消滅する。この個体は魔神召喚術式へ大量の魔力が投入されたことで生まれたばかりの魔人であり、誕生直後ながら一般的な精霊を上回る魔力を備えている。召喚時に言語、衣食住、社会、金銭、主要種族、生死など、この世界で人として行動するために必要な基礎知識を与えられているが、経験によって形成される自身の価値観はまだ持っていない。魔人は悪意、憎悪、怨念、恐怖などの強い負の感情を意図的に大量に取り込み、自身の魔力へ同化させながら変質・成長することで、魔神へ至る場合がある。
(魔人……)
魔神ではない。
鑑定結果を読む限り、魔人という種族そのものが邪悪なわけでもなかった。
精霊が自然の属性に強く結びついているなら、この少女は魔力そのものに近い存在らしい。
魔法を扱う力は生まれながらに高く、寿命もない。
それでも、今目の前にいる少女は生まれたばかりだ。
知識はあっても、実際に何かを経験したことはない。
そして魔人が強い負の感情を自分へ取り込み続け、変質した先の一つが魔神。
アドヴァースがやろうとしていたのは、莫大な魔力と負の要素を使って、その過程を飛ばすことだったのだろう。
最初から魔神として成立する存在を作ろうとした。
だが必要な魔力が揃う前に無理やり発動したせいで、何にも染まっていない魔人として生まれた。
ウンディーネも少女をじっと見ていた。
『強いね』
「分かるのか?」
『うん。でも、まだ生まれたばっかり』
見た目が子どもだから弱いわけではない。
それでも力の使い方や、戦い方まで経験しているわけではないようだ。
「おお……成功だ……」
床へ押さえつけられていた責任者が、掠れた声を上げた。
少女がそちらを見る。
「我らが……お前を召喚した……」
男の目には異様な熱が残っていた。
「我らアドヴァースのために……その力を使え……」
少女はしばらく男を見た。
それから首を少し傾げる。
「どうして?」
「……何?」
「あなたの言うことを聞く理由があるの?」
本当に分からないらしい。
挑発しているような口調ではなかった。
召喚されたから、召喚した相手へ従う。
そんな考え自体が、少女にはないのだろう。
男の顔が引きつる。
「我らが……お前を生み出したのだぞ!」
「そうなんだ」
少女はそれだけ答えた。
だから何だ、という反抗心すら感じない。
知識として聞いた事実を、そのまま受け取っただけに見える。
俺は如意の金剛棒から手を離さず、少女へ声をかけた。
「俺たちと戦うつもりはある?」
少女がこちらを見る。
「どうして戦うの?」
「いや、ないならそれでいい」
「ないよ」
あっさりした返事だった。
俺たちは少女へ何もしていない。
だから攻撃する理由がない。
今のところ、それ以上でもそれ以下でもないらしい。
少女はもう一度部屋を見回した。
床の魔法陣。
大きな中枢装置。
岩壁。
拘束された男たち。
少し不快そうに眉を寄せる。
「ここ、好きじゃない」
さっきよりはっきり言った。
「外に出たい」
それが、少女が生まれてから初めて自分で選んだものなのかもしれない。
世界を壊したいでもない。
アドヴァースへ従いたいでもない。
俺たちと戦いたいでもない。
ただ、この暗い地下から出たい。
「分かった」
そう答えてから、俺はまだ動いている魔力集約中枢へ目を向けた。
「ただ、その前にあれを止めよう」
少女も俺の視線を追い、中央の装置を見る。
召喚に大量の魔力を使ったため、中枢に溜まっていた分はかなり減っている。
それでも大聖樹から新しく吸い上げられる魔力は、今も細く装置へ流れ込んでいた。
このまま外へ出るわけにはいかない。
「ウンディーネ、もう壊して大丈夫か?」
ウンディーネが中枢へ近づき、魔力の流れを確かめる。
床の召喚術式も見たあと、少しして頷いた。
『うん。もうあっちには流れてない』
召喚自体は終わっている。
今なら中枢を壊しても、発動途中の術式へ影響を与えることはなさそうだ。
「じゃあ、止める」
俺は如意の金剛棒を取り出した。
【鑑定】で中枢の役割は分かっている。
装置全体を滅茶苦茶に壊す必要はない。
中央で魔力を集め、各術式へ繋いでいる部分を狙う。
少し力を込めて、金剛棒を振り下ろした。
ゴンッ!
重い音とともに外殻が割れる。
内部に組み込まれていた魔導部品も砕け、その瞬間、装置の中を巡っていた魔力の光が大きく揺らいだ。
床や壁へ伸びていた術式も、遠い方から順番に光を失っていく。
最後に中枢そのものから光が消え、地下室が静かになった。
ウンディーネが目を閉じる。
俺たちは何も言わず、その返事を待った。
少しすると、ウンディーネの表情がほんの僅かに緩んだ。
『……止まった』
「全部?」
『うん。もう、あの子から取ってない』
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が少し抜けた。
これで少なくとも、大聖樹と木の精霊から魔力が奪われ続けることはなくなった。
すぐに元通りになるかは分からない。
けれど、これ以上弱らせる原因は止められた。
ウンディーネも壊れた装置をしばらく見てから、静かに大聖樹がある方角へ顔を向けた。
さっきまでの張り詰めた雰囲気が、ほんの少しだけ和らいだように見える。
俺は改めて少女へ向き直った。
「待たせたな。今度こそ外に出よう」
少女は壊れた中枢を一度見てから、俺を見る。
「うん」
その前に、連れて帰らなければならない連中もいる。
入口の二人を含めれば人数はそれなりに多いが、ウンディーネの拘束が解ける心配はなさそうだ。
王城へ戻れば、イザベラさんたちにこの施設と捕まえたアドヴァースについて報告しなければならない。
そして、この生まれたばかりの魔人の少女についても。
やることは増えたが、オリエンスを冷え込ませていた原因だけは、ここでようやく止めることができた。
俺たちは壊れた中枢を最後に確認し、少女と拘束したアドヴァースたちを連れて地下を出る準備を始めた。




