第86話 若き料理人の覚醒と、焦がし醤油の野菜炒め
オニオングラタンスープと、異世界お好み焼き。
昨日、貸キッチンに籠って俺が欲望のままに作り上げた料理は、どちらも圧倒的な旨味と満足感を持っていた。
だが、夜になって布団に入り、天井を眺めながら冷静に振り返ってみると、一つ大きな反省点に気がついてしまった。
(……冷静に考えたら、フランス風のスープとコテコテのソースお好み焼きって、食べ合わせがめちゃくちゃじゃないか?)
それぞれ単体では極上の完成度だったし、相棒たちも大精霊のウンディーネも大喜びで食べてくれた。
保養宿のチェスター料理長やセバスさんも未知の味として感動してくれたが、コース料理や定食としてのまとまりや、味のバランスという点で見れば、完全に落第点だ。
(まあ、家で作って食べるご飯なんて、作りたいものを順番に作るだけで、そんなもんか。)
俺は苦笑いしながら心の中で開き直った。
だが、もし今後自分の屋台やお店で他人に料理をコースやセットとして提供する機会があるならば、全体の構成や食べ合わせには十分に気をつけようと、料理人として密かに心に誓ったのだった。
そして、翌朝。
俺はいつものように保養宿の広い中庭へ出向き、セバスさんと日課の訓練を行った。
今日の訓練は、互いの目を分厚い布で覆い、視覚を完全に絶った状態で行う『気配感知』と『反射神経』の強化だ。
視界が真っ暗な中、風を切る微かな音と、肌を撫でる空気の揺らぎだけで、セバスさんの放つ木製レイピアの刺突を感知しなければならない。
スッ……!
右斜め前から、音もなく鋭い気配が迫る。
俺は『探求者』としての直感と、精霊の加護によって研ぎ澄まされた感覚を頼りに、最小限の足捌きで半身になった。
頬のすぐ横をレイピアの風圧が通り過ぎる。
俺はその軌道を木棒の側面で滑らせるようにいなし、セバスさんの重心がわずかに前に傾いた隙を突き、死角から軽く足払いをかけた。
「……お見事です、フトシ様。」
布を外したセバスさんが、少しだけ体勢を崩しながらも感嘆の息を漏らし、静かに微笑んだ。
「視覚を奪われても、これほど正確に相手の重心を読み取り、いなすことができるようになるとは。あなたの成長速度には、底知れないものを感じますよ。」
「ありがとうございます。セバスさんの厳しいご指導のおかげです。」
俺も目隠しを外し、荒い息を整えながら額に浮かんだ汗をタオルで拭った。
心地よい疲労感と共に訓練を終えた後、俺は相棒たちを連れて宿を出た。
向かう先は、数日前に訪れた小さな食堂『緑葉亭』だ。
あの時、父親の古いレシピに囚われて絶望していた若き店主のルネさんは、俺の言葉を受けて、自分自身の新しい味を生み出すと決意してくれた。
その成果を見せてもらう約束を果たしに行くのだ。
オリエンスの常春の穏やかな風を感じながら歩き、やがて緑葉亭の前に到着した。
店の入り口には『クローズ』と書かれた木札が掛けられていたが、中からはカンカン、と小気味よくフライパンと鉄のおたまがぶつかり合う音が響いてくる。
さらに、以前のただの塩胡椒の炒め物とは全く違う、動物性の脂が焦げるような強烈に食欲をそそるいい匂いが外まで漂ってきていた。
「ごめんくださーい。フトシです。」
俺が店の扉を少し開けて声をかけると、厨房の奥で鍋を振っていたルネさんが、パァッと顔を輝かせて顔を出した。
「フトシさん! やっときた! もう、ずっと待ってたんだからね!」
エプロン姿の彼女は、数日前のような暗い影は微塵もなく、料理人としての自信と活気に満ち溢れた表情をしていた。
「すみません。昨日は俺も自分の料理の試作に没頭してしまっていて……来るのが遅くなりました。」
俺が素直に頭を下げて謝罪すると、ルネさんはカラカラと明るく笑った。
「それなら仕方ないわね。同じ料理を探求する者同士だもの、没頭する気持ちはすごくよく分かるわ。」
ルネさんは手招きをして、俺たちをカウンター席へと案内してくれた。
「ワフゥ!」
「キュイッ!」
メイとシルクも行儀よく足元でおすわりをし、ベルは俺の肩に、ウンディーネは空中に浮かべた小さな水の枕に座って、ルネさんの手元に興味津々な視線を送っている。
「さっそく、私が新しく考えた料理を食べてもらうわね。この前出させてもらった野菜炒めセットの、私流の完全アレンジよ。」
ルネさんはコック帽を被り直し、真剣な表情で厨房のコンロの前に立った。
俺はカウンター越しに、彼女の調理工程をじっくりと観察させてもらうことにした。
彼女がまずフライパンに入れたのは、以前使っていた透明な植物性のオイルではなかった。
「それは……オークの脂身ですか?」
俺が尋ねると、ルネさんは得意げに頷いた。
「ええ。オリエンスの野菜は甘くて美味しいけれど、それだけじゃ味が平坦でパンチが足りないと思ったの。だから、オーク肉の良質な脂身をじっくりと熱して抽出した『ラード』を使うことにしたわ。」
動物性の脂である豚脂は、野菜炒めに圧倒的なコクと力強さを与えてくれる最強の隠し味だ。
彼女は熱したラードの海に、薄切りにしたオークのバラ肉を投入した。
ジューーーッ!
肉が焼ける香ばしい匂いが弾け、表面にカリッとした焼き色がつく。
ルネさんは肉に完全に火が通ったところで、それらを一旦フライパンの脇へと寄せた。
「肉が硬くならないように、火の通りを調整しているんですね。」
俺が感心して呟く中、ルネさんはそこに、細かく切った翠緑の葉球や大玉葱などのオリエンス産野菜を一気に投入した。
ジュワァァァッ!!
油と水分が激しく弾ける。
ルネさんは魔導コンロの火力を最大まで引き上げ、重い鉄のフライパンを見事な手首のスナップで煽り始めた。
野菜の水分を外に出さないためには、強火の短時間調理が絶対の鉄則だ。
彼女はそれを完全に理解し、すべての野菜に均一にラードの油膜をコーティングしていく。
「ここで、味の決め手よ。」
ルネさんは岩塩と黒胡椒をサッと振った後、手元の小さな小瓶を二つ手に取った。
一つは、爽やかな香りを放つ果実由来の『白ワイン』。
そしてもう一つは、小魚を発酵させて作られた独特の香りを持つ『魚醤』だ。
熱々のフライパンの鍋肌に白ワインを回し入れてアルコールを飛ばし、華やかな風味をつける。
さらに、魚醤をほんの小さじ一杯程度だけ、野菜に直接かからないように鍋肌に落とした。
ジュゥゥゥッ……!
「なるほど……!」
俺は思わず膝を打った。
魚醤はアミノ酸の塊であり、強烈な旨味を引き出すことができるが、入れすぎれば魚臭さが際立って料理を台無しにしてしまう両刃の剣だ。
ルネさんはそのギリギリのラインを見極め、あくまで『深みを出すための隠し味』として、極少量の魚醤を焦がして香ばしさをプラスしたのだ。
高火力ですべての具材を炒め合わせ、最後に脇に寄せていたオーク肉と統合して一気に皿へと盛り付ける。
「お待たせしました。『緑葉亭』の新しい野菜炒めセットよ。」
カウンターに置かれたのは、湯気を上げる色鮮やかな野菜とオーク肉の炒め物、そしてこんがりと焼かれたパンとホクホクの蒸かし芋だった。
「いただきます。」
俺は木製のフォークで、ラードでコーティングされた野菜と肉を一緒にすくい上げ、口へと運んだ。
シャキッ、という野菜の完璧な歯ごたえ。
その直後、オークのラードがもたらす暴力的なまでのコクと肉の旨味が、口いっぱいに広がる。
「……うまいっ!!」
俺が目を見開いて叫ぶと、ルネさんはホッとしたように胸を撫で下ろした。
味の奥行きが、数日前のものとは完全に別次元だった。
オリエンスの野菜の圧倒的な甘みを、オーク肉の脂と塩気がしっかりと受け止めている。
さらに、微量に加えられた魚醤のイノシン酸などの旨味成分が、全体の味を奥底から力強く支え、白ワインの風味が油のしつこさを綺麗に洗い流してくれる。
ご飯やパンが無限に進む、最高に美味しくてまた食べたくなる一品に仕上がっていた。
「ワフゥ、ワフゥ!」
「キュイッ!」
取り分けてもらった相棒たちも、一心不乱に野菜炒めを頬張っている。
ベルも「お肉の味がしてすっごく美味しい!」と飛び跳ね、ウンディーネも上品に、しかし恐ろしい早さで皿を空にしていった。
「本当に美味しいです。素材の良さを生かしつつ、ルネさん自身の工夫が完璧に調和していますよ。」
俺が絶賛すると、ルネさんは少し照れたように笑い、誇らしげに胸を張った。
「フトシさんのおかげよ。父のレシピを壊すのは怖かったけれど……自分の舌を信じて工夫を重ねたら、こんなに美味しいものが作れるなんて思わなかったわ。」
そう言って満足げに頷いた後、ルネさんはふと、少しだけ悔しそうな表情を浮かべた。
「でもね、本当はもっと美味しくできる気がするの。実は最近、他所の街から来た行商人たちの間で、すごい調味料の噂を聞いたのよ。」
「調味料の噂、ですか?」
「ええ。北のノース・グランの王城に、『ショウユ』っていう奇跡の調味料を納品したすごい料理人がいるらしいの。魚の生臭さはないのに、強烈な旨味と香ばしさがあるんだって。それがあれば、魚醤の臭みを気にせずに、もっとこの野菜炒めを美味しくできそうなんだけどなぁ……。」
ルネさんが遠い目をしながら溜息をつくのを見て、俺は思わず苦笑いを漏らしてしまった。
「……あの、ルネさん。」
「ん? なに?」
「実は、そのノース・グランの王城に醤油を納品した料理人って……俺なんです。」
「…………え?」
ルネさんは目を丸くし、数秒間完全にフリーズした。
俺はアイテムボックスを展開し、小さなガラスの小瓶を取り出してカウンターに置いた。
「これがいま噂になっている『天然醸造生醤油』です。手元に少しあるので、試しに使ってみますか?」
「ええええええええっ!?」
ルネさんは素頓狂な声を上げて驚いたが、すぐに震える手で小瓶を受け取り、蓋を開けてその香りを嗅いだ。
「っ……!? な、なんなのこの複雑で、ものすごく食欲をそそる香りは……!」
彼女は指先に一滴だけ醤油を垂らして舐めると、目を見開いて全身を震わせた。
「すごい……本当に魚醤みたいに強い旨味があるのに、あの生臭さが全くない。キリッとした塩気の中に、信じられないほど深いコクがあるわ!」
完全に醤油の香りと味の虜になってしまったルネさんは、「すぐにこれで試作してみるわ!」と叫び、再びコンロの前に立った。
先ほどと全く同じ工程で野菜とオーク肉を炒め、仕上げの魚醤の代わりに、俺の取り出した醤油を鍋肌に回しかける。
ジュワァァァッ!!
その瞬間、醤油に含まれるアミノ酸と糖分が熱によって焦げる『メイラード反応』が起こり、暴力的なまでに香ばしい焦がし醤油の香りが厨房を支配した。
「できたわ! 食べてみて!」
ルネさんが興奮した様子で差し出してきた醤油バージョンの野菜炒めを、俺は一口食べた。
「……最高です。これなら、何皿でもいけますよ。」
魚醤特有の微かなクセが完全に消え去り、醤油の香ばしさと奥深い旨味がオークの脂と完璧なマリアージュを果たしていた。
これはもはや、日本の定食屋で出される最強の野菜炒めそのものだ。
「この調味料、魔法みたいだわ……これが噂のショウユなのね!」
ルネさんは自分が作った料理を一口食べ、感動のあまりへたり込みそうになっていた。
だが、彼女はすぐに真面目な顔つきに戻り、小さく息を吐いた。
「すごい調味料だけど……これはまだ、私が手に入れちゃいけないものね。」
「え?」
「フトシさんが王城に納品したってことは、これから国主導で流通させるんでしょ? 今の段階で私がこの味に頼ってしまったら、調味料の力に甘えることになっちゃうわ。」
俺が事情を説明するまでもなく、ルネさんは料理人としての誇りを持ってそう言い切った。
「国からショウユが一般に流通する日が来るまでは、私は私自身の力で見つけた『魚醤のレシピ』で勝負するわ。ショウユに負けないくらい、もっと腕を磨いておくから!」
絶望の淵にいた若き料理人の目が、今は希望とやる気に満ちてキラキラと輝いている。
俺はその眩しい笑顔を見て、心から嬉しくなった。
「素晴らしい決意ですね。応援しています。」
「ありがとう、フトシさん。私、一週間後にこの『緑葉亭』の営業を再開するわ!」
自分の味を見つけ出し、力強く歩み始めたルネさん。
彼女の奮闘する姿に、俺自身も料理人として大いに刺激を受けた。
常春の風が吹き抜けるオリエンスの街で、俺たちの料理の探求はさらに熱を帯びていくのだった。




