第87話 冒険者ギルドの昇格騒動と、常春の山の山菜採り依頼
ルネさんとの料理を通じた交流で大きな刺激を受けた翌日。
俺はいつものように保養宿の広い中庭で、セバスさんと朝の訓練を行っていた。
今日の訓練は互いに武器を打ち合わせるものではなく、空間の認識と精密なコントロールに焦点を当てたものだった。
セバスさんが両手に持った数枚の木の葉を、空中に向けてふわりと放り投げる。
ヒュッ、ヒュッ……!
俺は木棒を構え、ひらひらと不規則に舞い落ちる木の葉の中心を、ミリ単位の精度で正確に突いていく。
筋力任せに振り回せば風圧で葉が逃げてしまうため、力を完全に制御し、最短距離で的を射抜く必要があるのだ。
最後の一枚が地面に落ちる前に木棒の先端で貫き、俺は静かに息を吐いた。
「……見事な精度です、フトシ様。力と速度を完全に支配できるようになってきましたね。」
セバスさんが満足そうに頷き、タオルを手渡してくれた。
「ありがとうございます。少しずつですが、無駄な力が抜けてきた気がします。」
俺は汗を拭いながら、充実した疲労感に浸った。
オリエンスに到着して数日が経ち、この街の穏やかな空気と美味しい食材の数々にすっかり魅了されている。
ただ、一つだけ少し気になっていることがあった。
ノース・グランやガルディア帝国では毎日のように広場に屋台を展開し、料理を売って商売の経験を積んでいたが、この街に来てからはまだ一度も屋台を開いていないのだ。
(まあ、急いで屋台をやらなきゃいけない理由もないしな。)
たまには、原点に立ち返って『冒険者』らしいことをしてみるのもいいかもしれない。
そう思い立ち、俺はシャワーを浴びてさっぱりとした服装に着替え、相棒たちと共に街の中心部にある冒険者ギルドへと向かうことにした。
巨大な大木の幹をそのまま柱として利用し、自然と調和した木造建築。
エルフの国にあるような外観を持つオリエンスの冒険者ギルドは、中に入るとさらに不思議な光景が広がっていた。
太い木の根が床を這うようにデザインされており、壁には色鮮やかな蔦が絡みついている。
それでいて歩きにくさは全くなく、木の温もりと活気に満ちた冒険者たちの熱気が見事に調和した、非常に居心地の良い空間だった。
俺は肩にベルを乗せ、足元を歩くメイとシルクと共に、壁際に設置された巨大な依頼ボードの前に立った。
ウンディーネは空中に浮かべた水の枕の上で、すでにスースーと優雅な二度寝を満喫している。
「やっぱり、街の特色が依頼にも色濃く出ているな。」
依頼ボードに貼り出された羊皮紙の束を眺めながら、俺は感心して呟いた。
もちろん、周辺の森に出没する魔物の討伐依頼や護衛依頼といった一般的なものもある。
だが、大聖樹の加護によって一年中植物の成長が早いこの街ならではの、『山菜採り』や『希少植物の採取』といった依頼が非常に目立っていたのだ。
「ワフゥ?」
メイが不思議そうに首を傾げながら、一枚の依頼書を鼻先で指し示した。
「ん? ああ、これか。」
俺はその依頼書を手に取り、詳細な内容を読み込んだ。
それは、街の北にある大聖樹の森を避け、その東側に位置する標高の低めな山での『春山菜の採取依頼』だった。
依頼書と併設された周辺地図を見て、俺はオリエンスの地理を改めて確認した。
街の北側の奥深くにそびえ立つ大聖樹だが、一般の人間がその足元に辿り着くことは、基本的に不可能らしい。
大聖樹の森全体に精霊の加護と魔力が漂っており、足を踏み入れると空間が迷路のように歪み、どれだけ真っ直ぐ進んでもいつの間にか森の入り口に戻されてしまうのだという。
そのため、冒険者たちが素材採取に向かうのは、大聖樹の森の東側に広がる別の山林地帯となる。
「標高は低いけど、やっぱり入り口付近から魔物が出るみたいだな。難易度は……Cランクか。」
依頼書には、山菜を採るためには魔物の群生地を抜ける必要があるため、腕の立つ冒険者が数人掛かりで挑むべきだと注意書きが添えられていた。
(日本でも、山菜採りに出かけて熊に遭遇したなんてニュースをよく見たしな。美味しいものを手に入れるには、危険はつきものってことか。)
現在、俺の冒険者ランクは一番下のFランクから一つ上がっただけの『Eランク』だ。
通常であれば、自分よりも二つも上のCランク依頼を受けることはできない。
だが、依頼書に記載されている『笹筍』や、『独活草』、『棘木の芽』という文字を見た瞬間、俺の頭の中に美味しい山菜料理の想像が爆発的に膨らんでしまった。
(採れたてのタケノコと鶏出汁の炊き込みご飯……ウドの酢味噌和え……タラの芽のサクサク天ぷら……絶対に食べたい!)
魔物との戦闘には自信があるし、なんとか交渉してこの依頼を受けさせてもらおう。
俺は依頼書を持って、受付カウンターへと向かった。
そこには緑色の制服を着たエルフの女性職員が立っており、胸元の名札には『リリア』と書かれていた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「フトシと言います。この山菜採取の依頼を受けたいんです。俺のランクはまだEなんですが、戦闘には自信があるので、なんとか受けさせてもらえませんか?」
俺が真っ直ぐに目を見て頼み込むと、受付のリリアさんは少し困ったような、しかし丁寧な笑顔を崩さずに答えた。
「フトシ様ですね。熱意は伝わりましたが、Cランクの依頼はそれなりに強力な魔物との遭遇が前提となります。まずは手続きと確認のために、冒険者カードをお預かりしてよろしいでしょうか?」
俺はアイテムボックスからEランクを示す鉄のカードを取り出し、彼女に手渡した。
リリアさんは手元の魔導具の石板にカードを乗せ、情報を読み取ろうとした。
ギルドカードには、どこの街でどんな魔物の素材を売却し、どんな討伐証明を提出したかという『履歴』が詳細に記録される機能があるらしい。
「確認いたしますね。ええと、フトシ様の討伐履歴は……。」
だが、次の瞬間。
「えっ……? あ、あの……っ!?」
石板の表示を見たリリアさんの表情が驚愕に染まり、目を限界まで見開いて俺の顔とカードを何度も見比べ始めた。
「どうかしましたか?」
俺が首を傾げて尋ねると、彼女は慌てて声を潜め、カウンターから身を乗り出してきた。
「お、お客様……こちらのカード、本当にフトシ様ご本人のものでお間違いありませんか?」
「ええ、間違いなく俺のカードですが……何か不備がありましたか?」
「不備というわけではないのですが……履歴が、あまりにも異常と言いますか……。」
俺はガルディア帝国の森などで、一人では討伐が困難なはずの『オークの群れ』や『オークジェネラル』、さらには強力な魔物の素材を大量にギルドで売却していた。
「この討伐および納品履歴を見る限り、フトシ様の実力は優にBランクからAランクに匹敵するはずです。これほどの腕を持つ方が、下から二番目のEランクのままでいるというのは、ギルドの規定として少し問題がありまして……。」
どうやら、ただ魔物の素材が売れてお金になればいいと考えて、意図的にランクアップの手続きをしない冒険者も中にはいるらしい。
だが、ギルドとしては実力に見合ったランクについてもらい、それ相応の難しい依頼をこなしてほしいという思惑があるのだろう。
「急なお話で申し訳ありませんが、フトシ様には強制ではありませんが、Cランクへの『ランクアップ試験』を受けていただきたいのです。そうすれば、この山菜採取の依頼も堂々と受けられますし……いかがでしょうか?」
リリアさんが申し訳なさそうに、だが真剣な表情で提案してきた。
「ランクアップ試験、ですか。」
「はい。ランクが上がれば冒険者として他者に舐められることも減りますし、何より、貴族様や裕福な商人から指名依頼が来る可能性が高くなります。一般の冒険者からすれば、メリットしかありませんよ。」
彼女の言うことはもっともだ。
だが、俺にとっては、その最大のメリットこそが最大のデメリットに感じられた。
(指名依頼なんて来たら、自由に屋台を開いたり、好きな街へ旅をしたりする時間が縛られちゃうじゃないか。)
俺はただ美味しい料理を探求し、相棒たちと自由気ままに旅をしたいだけなのだ。
見知らぬ貴族からの束縛は御免被りたい。
「あの、せっかくのご提案なんですが……俺は自由気ままに旅をして、料理の商売をするのが目的なんです。」
俺は包み隠さず、正直な気持ちを伝えることにした。
「指名依頼などで行動が縛られてしまうのは困るので、ランクアップ試験の件は辞退させていただいてもよろしいでしょうか?」
俺が丁重に断りを入れると、リリアさんはポカンと口を開け、数秒間フリーズしてしまった。
「え、えええっ!? 貴族様からの指名依頼を断るために、ランクアップを辞退するんですか!?」
常識的に考えれば、富と名声を得るチャンスを自ら蹴り飛ばすようなものなのだろう。
だが、俺の意志が固いことを悟ると、彼女は困ったように眉を下げ、奥の部屋にいるギルド長らしき人物と少し相談をしてから戻ってきた。
「……事情は分かりました。ですが、ギルドの規定上、これだけの実績がある方をEランクのまま放置することもできません。」
彼女は俺のカードを操作し、新しい銅色のカードを発行してカウンターに置いた。
「試験は免除とし、ギルド長の権限でフトシ様を『Dランク』へ昇進という扱いにさせていただきます。そして、フトシ様の実績を考慮した特例として、一つ上の『Cランク』までの依頼を受注する権限を付与いたします。」
「おお、それは助かります。ありがとうございます!」
俺は求めていた最高の落とし所になり、嬉しくなって身を乗り出した。
これで無事に、目当ての山菜採りの依頼を受注することができる。
「フトシ様の気が乗ったら、いつでもCランクへの昇格試験を受けに来てくださいね。」
リリアさんが苦笑いを浮かべながら、受領印の押された山菜採取の依頼書を渡してくれた。
「それにしても、この依頼書にある山菜って、どんなものなんですか?」
俺が尋ねると、リリアさんは笑顔で教えてくれた。
「大聖樹の加護の影響で、この周辺の山では一年中『笹筍』や、『独活草』、『棘木の芽』といった春の恵みが採取できるんですよ。」
日本で言うところの、タケノコ、ウド、タラの芽に酷似した植物のようだ。
「へえ、一年中採れるんですね。でも、それならどうして宿の食事や街の食堂で、そういう山菜の料理を見かけなかったんだろう。」
俺が疑問を口にすると、彼女は依頼書に視線を落として答えた。
「一年中育つとはいえ、やはり魔物が生息する山奥にしか自生していませんからね。入手難易度が高く、市場に出回る量は決して多くはないんです。」
なるほど、と俺は深く納得した。
危険を冒してまで山菜を採りに行く冒険者が少ないからこそ、保養宿の野菜コースにも並ばなかったというわけか。
(それなら、俺が自力で質の良い山菜を大量に採ってくるしかないな。)
「あの、山に入るための特別な道具や装備は必要でしょうか?」
「いえ、基本的には遠出をする時と同じような野営の準備と、魔物対策の装備があれば問題ありませんよ。」
「分かりました。色々と教えていただいて、ありがとうございました。」
道具類はすべてアイテムボックスの中に収納されているため、いつでも出発できる状態だ。
俺は受付のリリアさんに丁寧にお辞儀をし、ギルドを後にした。
常春の陽光が降り注ぐ街路に出ると、肩に乗っていたベルが透明な羽を羽ばたかせ、嬉しそうに飛び回った。
「やったー! 今日はお山に行くのね! すっごく楽しみだわ!」
森や山といった自然環境は、妖精であるベルにとって最もテンションが上がる場所なのだろう。
「ワフゥ!」
「キュイッ!」
メイとシルクも、久しぶりの本格的な冒険に尻尾を振って期待を露わにしている。
「おいおい、気を抜くなよ。今回は入り口から魔物が出るらしいからな。」
俺ははしゃぐ相棒たちを微笑ましく見つめながらも、しっかりと気を引き締めるように声をかけた。
「油断は禁物だ。安全第一で冒険しよう。」
『はーい!』
俺の言葉に、相棒たちは元気よく返事をした。
美味しい山菜を手に入れるため、そして久しぶりの冒険者としての活動を満喫するため。
俺たちは常春の風が吹くオリエンスの街を抜け、大聖樹の東に位置する緑豊かな山林地帯へと力強い一歩を踏み出した。




