第83話 直売所の恵みと、悩める若き料理人
オリエンスに到着して迎えた最初の朝。
俺は保養宿の広い中庭に出ると、すでに身支度を整えていたセバスさんと顔を合わせた。
「おはようございます、セバスさん。今朝もよろしくお願いします。」
「ええ、おはようございます、フトシ様。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
互いに丁寧な朝の挨拶を交わし、俺たちはそのまま日課となっている早朝の訓練へと入った。
今日の訓練は木製の武器を使用せず、互いの手と足を交える純粋な『体術』と『間合いの管理』に焦点を当てたものだ。
セバスさんが踏み込み、音もなく鋭い手刀を放ってくる。
以前の俺なら、その攻撃を力任せに腕で受け止めようとしていただろう。
だが今は違う。
俺は最小限の足捌きで半身になり、セバスさんの手刀を紙一重で回避すると同時に、その手首に軽く下から触れた。
過酷な実戦訓練とスキルの自動強化によって、今の俺の肉体は極限まで無駄な脂肪が削ぎ落とされ、シャツの袖がはち切れんばかりの逞しく分厚い筋肉の鎧を纏っている。
だが、その巨体からは想像もつかないほどに、筋肉はしなやかな柔軟性を保っていた。
俺は相手の突進する力を力で弾き返すのではなく、手首に触れた指先を支点にして円を描くように力を誘導し、セバスさんの重心を前へと流した。
セバスさんの体勢がわずかに崩れたその瞬間、俺は相手の背後へと回り込み、首筋に軽く手刀を添えて寸止めした。
「……お見事です、フトシ様。私の力を完全にいなし、ご自身の重心は一切ブレていませんでしたよ。」
セバスさんが静かに息を吐き、感嘆の声を漏らしながら微笑んだ。
「ありがとうございます。力に頼らず相手の動きを利用する感覚が、少しずつ分かってきました。」
俺も荒い息を整えながら額に浮かんだ汗をタオルで拭った。
そこに、和装の部屋着からカチッとした王族の礼服に着替えたイザベラ陛下と、護衛のヴォルグ騎士団長、ザディス魔術師長が揃って縁側へと姿を現した。
「イザベラ陛下、おはようございます。これからお出かけですか?」
「うむ。我々はこれより、街の中央にある王城へ向かい、政務を執り行う予定だ。」
オリエンスの城には優秀な代官が常駐しているため、イザベラ陛下たちが直接赴かなくても国政は回るシステムになっている。
だが、各都市を巡回して民の声を直接聞き、各地の貴族と連携を取ることこそが、彼女の王としての誇りであり義務なのだ。
(いつも城で執務をしていて大変そうだけど……でも、仕事の後に温泉に入って政務の疲れをしっかり取るのも大事だよな。)
俺は内心でイザベラ陛下たちの体調を気遣いつつ、自分たちの本日の予定を告げることにした。
「俺たちは、まずはオリエンスの街を見て回ってみようと思います。市場や色々な施設を巡って、新しい食材を探したいので。」
「それは良いな。オリエンスの市場は活気に満ちている。精々、美味いものを見つけてくるがよい。」
イザベラ陛下は楽しげに笑い、セバスさんたちを伴って宿を出発していった。
俺も相棒たちと共に身支度を整え、常春の温かな風が吹き抜ける緑豊かな街路へと足を踏み出した。
街の中には、野菜や手作りの品を売る小さな露店がいくつか見られたが、中心部へ向かって歩いていくと、ひときわ巨大な木造の施設が目に入ってきた。
「なんだ、ここは……?」
好奇心に駆られて中を覗き込むと、そこには驚くべき光景が広がっていた。
巨大な体育館のような空間の中に、無数の木箱が整然と並べられており、その中には土の香りをまとった色とりどりの新鮮な野菜が山のように詰め込まれていたのだ。
農家らしき人々が次々と採れたての野菜を木箱に補充し、街の住人や料理人たちがそれを品定めして買っていく。
「これって、日本の『道の駅』にある農産物直売所みたいなシステムじゃないか?」
生産者が直接値段をつけて卸し、新鮮なまま消費者の手に渡る。
農家にとっては中抜きされずに利益を得られ、客にとっては新鮮で安い野菜が手に入るという、双方にとって理想的な施設だ。
防犯面や品質管理のルールが色々とあるのだろうが、施設のあちこちを屈強な警備員たちが巡回しており、大きな問題が起きる気配は全くなかった。
「ワフゥ!」
「キュイッ!」
メイとシルクも、瑞々しい野菜の香りに釣られて尻尾を振っている。
俺はベルを肩に乗せ、用意されている大きな木製の買い物かごを手に取った。
「よし、今後の屋台で使うかもしれないからな。しっかりと吟味して買おう。」
俺は木箱の前に立ち、すかさず【鑑定】のスキルを発動させた。
目の前にある野菜の鮮度、糖度、水分量、そして調理への適性を瞬時に読み取っていく。
手当たり次第に買うのではなく、鑑定によって詳細な特性が判明し、品質に納得のいったもの『だけ』を厳選して買い込む作戦だ。
まずは、昨日食べて感動した特産品である『黄金の粒穂』と、『太陽の南瓜』。
それらの木箱の中から、極限まで糖度が高く、ずっしりと重みのある最高品質のものだけをかごに入れる。
「なんだこの玉ねぎ……キャベツくらいデカいぞ!」
鑑定結果は『大玉葱』。
水分量が多く、じっくりと火を通すと驚くほどの甘みが出るという特性を持っていることを確認し、数個ピックアップする。
その隣には、大根のように真っ白で長い形をした『大根長芋』という根菜が積まれていた。
すりおろすと強い粘り気が出るらしく、これも品質の良いものだけを選び抜いた。
「こっちには、普通のキャベツみたいなのもあるな。」
ガルディア帝国で見たような鉄のように硬いアイアンキャベジではなく、葉が柔らかくふんわりと巻かれた『翠緑の葉球』だ。
千切りにして揚げ物に添えたり、スープの具材にしたりと、使い道は無限にある。
さらに、ノース・グランの市場で見つけたのと同じ、和からし特有のツンとした刺激を持つ『和からし風の黄色い野菜』も並んでいたため、香辛料としてこれもかごに追加した。
会計を済ませ、アイテムボックスに大量の野菜を収納してホクホク顔で直売所を出た俺たちは、そのまま露店が多く立ち並ぶ市場エリアへと足を向けた。
そこは直売所とはまた違い、農家の人々が直接台車で売り歩いていたり、野菜を使った手軽な屋台グルメが売られていたりして、非常な活気を見せていた。
「おっ、ここでも蒸かし芋を売ってるんだな。」
大きな湯気を上げる屋台では、皮ごと蒸し上げられた黄色い芋が飛ぶように売れていた。
特別な味付けをせずとも甘くて美味しいオリエンスの芋は、家庭で料理を作る人々の心強い味方なのだろう。
その隣では、細かく刻んだ野菜がたっぷりと練り込まれた色鮮やかなパンが並べられている。
さらに少し歩くと、近辺の森で狩られた魔物の肉を串焼きにしている煙の上がる屋台もあり、食欲をそそる匂いが漂っていた。
(この街で俺が屋台をやるなら、どんなメニューがいいだろうな。)
これだけ野菜の素材が圧倒的に優れているのだから、それを活かした料理を出してみたい。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて巨大な木造建築の前を通りかかった。
大木の幹をそのまま柱として利用し、自然と完全に調和した美しい作りの建物。
「冒険者ギルドか……エルフの国にあるような、ファンタジー全開の建物だな。」
今回は素材集めなどの予定がないため中には入らなかったが、その自然溢れる外観を見ているだけで心無しかワクワクしてきた。
大通りを一通り歩き回り、そろそろ宿へ戻ろうかと裏通りに差し掛かった時のことだった。
「ん……? あの食堂、どうしたんだろう。」
ふと目に入った一軒の小さな食堂。
昼時が近づいているというのに客の姿は一人もなく、開け放たれた入り口から見えるカウンターには、コック帽と清潔なエプロンを身につけた若い女性が、深くうなだれて座っていた。
周囲に活気がある分、その店だけがひどく暗く、沈んだ空気を漂わせているように見えた。
俺は少し気になり、またこの街の大衆食堂の味を知りたかったこともあって、思い切って店の中に足を踏み入れた。
「すみません、お店はやっていますか?」
俺が声をかけると、カウンターに伏していた女性がビクッと肩を震わせ、弾かれたように顔を上げた。
「えっ……あ、お客様……?」
彼女は少し腫れた目元をこすりながら、力なく首を振った。
「ごめんなさい。……もう、このお店は閉めようと思っているんです。」
「店を閉める……? 差し支えなければ、何か事情があるのかお話を聞かせてもらえませんか。」
俺が静かな声で尋ねると、彼女は俺の逞しい体格に少し驚きながらも、どこか諦めきれないような、切実な思いをぽつぽつと語り始めた。
「私はルネ。この『緑葉亭』の……一応、今の店主よ。あなたは?」
「俺はフトシです。冒険者として旅をしていて、少し前まで別の街の屋台で料理を出していました。」
互いに自己紹介を交わした後、ルネさんは自分のエプロンをギュッと握り締めた。
「……最近、この食堂を切り盛りしていた父が亡くなったの。」
彼女はカウンターの奥にある厨房を振り返った。
「私は一人娘で、跡を継いだのはいいものの……料理なんて、家で食べるものを少し作るくらいしか経験がなくて。」
彼女の顔に、深い苦悩の色が浮かぶ。
「慣れていない料理をお客様に提供するのは失礼だと思って、父が遺したレシピを見ながら、何日も一人で練習をしていたの。だけど……。」
彼女はそこで言葉を詰まらせ、悔しそうに唇を噛んだ。
「何度作っても、この店の味に『納得』できなくて。こんな料理しか出せないなら、いっそ店を継がずに閉じてしまおうかと悩んでいたところなのよ。」
彼女の話を聞き、俺はなるほどと合点がいった。
(自分の未熟さを自覚し、客に不完全なものを出すことを良しとしない。この人は、とても真面目で誠実な料理人なんだな。)
もし適当な人間なら、味が落ちても誤魔化して店を開け続けるだろう。
料理を作り、人に提供する楽しさと責任を知っている者として、こんなに真摯な料理人が自ら道を断ってしまうのは、お節介ながらもひどくもったいないことのように感じた。
「あの、もしよろしければ……俺に、あなたが練習したその料理を作っていただけませんか。」
俺が真っ直ぐにルネさんの目を見て頼むと、彼女は驚いたように目を丸くした。
「えっ……でも、納得のいく味じゃないのよ?」
「構いません。俺はお金を払う一人の客として、あなたが一生懸命作った料理を食べてみたいんです。」
俺の真剣な言葉に押されたのか、ルネさんは戸惑いながらも立ち上がり、決意を込めてコック帽を被り直した。
「……わかったわ。少しだけ、待っていてちょうだい。」
ルネさんが厨房に入り、コンロに火を点ける。
俺はカウンター席に座り、彼女の調理する背中を静かに見守った。
フライパンをカンカンに熱し、油を馴染ませてから、あらかじめ切っておいた色とりどりの野菜を順に投入していく。
ジュワァァァッ!!
油と水分が弾ける激しい音が響き、彼女は手首のスナップを利かせてフライパンを見事に煽り、野菜を宙に舞わせて均一に火を通していく。
「すごい……具材を切る包丁の跡も綺麗だし、炒める手際も完璧だ。」
何日も練習を重ねたという言葉通り、彼女の調理動作には迷いがなく、体に染み付いた確かな『技術』が見て取れた。
仕上げに塩と胡椒を振りかけ、サッと皿に盛り付ける。
「お待たせ。……野菜炒めと、パンと蒸かし芋のセットよ。」
カウンターに置かれたのは、翠緑の葉球や大玉葱、鮮やかなオレンジ色の根菜が美しく混ざり合った、色とりどりの野菜炒めだった。
野菜の水分を出さずに強火で短時間炒めるという基本が守られており、見た目は非常に美味しそうに仕上がっている。
「いただきます。」
俺は木製のフォークで野菜炒めをすくい上げ、口へと運んだ。
シャキッ、という心地よい歯ごたえと共に、オリエンスの野菜が持つ圧倒的な甘みと旨味が口いっぱいに広がる。
火の通し加減は完璧だ。
だが……。
(美味しい。美味しいんだけど……。)
俺は何度か咀嚼し、飲み込んだ後、正直な感想を抱いた。
(失礼な話だけど、味が『普通』すぎるんだ。)
塩と胡椒だけで味付けされたその炒め物は、確かに素材の良さを生かしてはいるが、何の驚きも感動もない、ただの平坦な味に留まっていた。
「……美味しいです。」
俺が偽りなくそう告げると、ルネさんは嬉しそうにするどころか、自嘲気味に笑って目を伏せた。
「いいのよ、気を使わなくて。味、すごく普通よね。」
俺が返答に詰まっていると、ルネさんは父親の残したという古いレシピのメモを指差した。
「この店のレシピは、オリエンスの素晴らしい食材の力に完全に頼り切ったものなの。いくら手際よくレシピ通りに作っても、ただ美味しいだけで、心が動かされるような感動はないのよ。」
父親の代から受け継いできた、素材の味を邪魔しないという鉄則。
彼女はそれに忠実に従い、完璧に再現しようとした結果、自分の料理が行き詰まってしまったことに絶望していたのだ。
俺はフォークを置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……こんな若造が何を偉そうにって、聞こえるかもしれませんが。」
俺はあえて、一人の料理人として厳しい、だが最も重要な言葉を口にした。
「ルネさんがこの店の新しい料理長であるなら、あなた自身の『味』を出せばいいじゃないですか。」
「えっ……?」
「お父さんのレシピは、あくまでお父さんの時代のものです。それに囚われる必要はありません。」
俺はまだ温かい野菜炒めの皿を指差した。
「ルネさんの火入れの技術は素晴らしい。だからこそ、この店の古いレシピに囚われないで、あなたが一番美味しいと思う、あなたの味が食べてみたいです。」
俺の言葉を聞いた瞬間、ルネさんの瞳の奥で、何かがパチンと弾けるような音がした気がした。
「私自身の、味……。」
ルネさんは自分の両手を見つめ、ハッとしたように顔を上げた。
「私、ずっと『父の味』を再現することばかりに必死で……このレシピに完全に囚われていたのね。」
彼女の顔から先ほどまでの暗い絶望の色が消え去り、料理人としての情熱と探求心が再び炎を上げたのが分かった。
「……フトシさん。もう一度、私に時間をもらえないかしら。」
ルネさんはコック帽を深く被り直し、自信に満ちた強い眼差しで俺を見た。
「もう少し私なりに、今のレシピをアレンジして、私風に作ってみせるわ。」
「ええ、喜んで。楽しみに待っています。」
俺が笑顔で頷き、「よければ、また後日来てもいいですか?」と告げると、ルネさんは力強く頷いた。
「もちろん! 次に来る時までに、絶対にもっと美味しくしてみせるから。前のとどっちが美味しいか、ちゃんと比べてほしいわ!」
彼女の迷いのない笑顔を見て、俺の心の中に温かいものが広がっていくのを感じた。
自分のアドバイスがきっかけで、一人の料理人が迷いを振り払い、新たな味を求めて成長していく姿。
それは、同じく料理を探求する者として、何よりも嬉しく、誇らしい出来事だった。




