第80話 すれ違う勇者と、真実を求める賢者の孤独な旅立ち
フトシたちがノース・グランでの滞在を終え、東の緑都オリエンスへ向けて旅立っていた頃。
ロドリス王国の王都では、清水カオリが一人、喧騒に包まれた冒険者ギルドの資料室で分厚い羊皮紙の束と睨み合っていた。
「……やっぱり、おかしい」
カオリは誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、古い行商人の手記から視線を上げた。
カオリたち五人がこの見知らぬ異世界に召喚され、フトシだけが王城から追放されてから、かなりの時間が経っている。
残されたカイト、トウマ、リン、カオリの四人は、国王アルベール・ヴァン・ロドリスから「魔王討伐の勇者」として扱われていた。
国は、魔王イザベラやその側近たちがSランク冒険者でも勝てないほど強力であるという噂を理由に、四人をすぐには魔王国へ向かわせなかった。
実戦経験を積ませるためと称し、特例の『Cランク冒険者』としてギルドに登録させ、王都周辺での依頼を毎日のようにこなさせていたのだ。
生真面目で図書委員だったカオリは、依頼の合間を縫ってギルドの資料室に通い、この世界について独自に調べていた。
そこで、奇妙なことに気づいた。
王城の図書室には、アストラーレ魔王国について客観的に書かれた資料がほとんどない。
目につくのは「魔族は残虐非道であり、人類の敵である」という、一方的な内容ばかりだった。
王都の街中でも、魔王国について良く語る者はほとんど見かけない。
だが、多くの国から人が集まる冒険者ギルドには、他国を旅した行商人やベテラン冒険者たちが残した記録もあった。
そこに書かれていたのは、王国から教えられた話とはまるで違う内容だった。
『アストラーレ魔王国は、精霊と自然の恵みに深く感謝し、共存を第一とする国だ。』
『中央だけでなく、東西南北の主要都市に王城があり、有事にはそこが民の避難所となる。極めて理知的で、民を何よりも大切にしている国家である。』
カオリはその記述を読み、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(もし、この手記に書いてあることが本当なら……)
魔王は、倒すべき絶対の悪ではないのかもしれない。
それどころか、自分たちを召喚し、戦う力を与えられた者として扱っているロドリス王国の話こそ疑う必要がある。
カオリは芽生えた疑念を、カイトたちには話していなかった。
今の三人へこんな話をしても、まともに聞いてもらえるとは思えなかったからだ。
「はぁ……」
カオリが資料室を出てギルドの酒場を通り抜けると、大きな荷物を背負い、泥や魔物の血で汚れながらも笑顔で食事をしている冒険者たちが見えた。
その姿を見た時、カオリの脳裏に一人の少年が浮かぶ。
(……フトシくん)
自分たちと一緒に召喚された、体の大きな少年。
職業が【探求者】だったというだけで、国王から役に立たないと判断され、たった一人で王城から追い出された。
自分には【賢者】という強力な力があった。
必要とされる側に選ばれたことで安心してしまい、あの時のカオリは何も言えなかった。
フトシが連れていかれるのを、ただ黙って見送った。
(もし、あの時一人で放り出されたのが私だったら……)
右も左も分からない異世界で、頼れる人も知識もないまま一人になっていたら、自分はどうなっていただろう。
魔法の才能があるからといって、何も困らず生きていけたとは思えない。
怖かった。
王様へ逆らう勇気もなかった。
それは確かだ。
けれど、それだけではないことをカオリ自身が一番よく分かっていた。
自分は役に立つ側だった。
フトシとは違う側に残れたことへ、どこかで安心していた。
そのことを思い出すたび、胸の奥が重くなる。
(もし、どこかで生きていたら……ちゃんと謝らなきゃ)
許してもらえるかどうかではない。
何も言わなかったことを、本人へきちんと謝らなければならない。
カオリは拳を握り、四人が滞在している王都の高級宿へ戻った。
四人に用意されている一続きの客室へ入ると、共用の居間に豪華な夕食が並べられていた。
香草と岩塩で味付けされた厚切りの肉料理に、赤ワインを使った濃い色のソース。
ふかふかの白いパンと、バターの香る温かな野菜のスープも添えられている。
十分に贅沢な食事だった。
だが、カイト、リン、トウマの三人は、ソファでくつろいだまま料理に手をつけていなかった。
「おっ、遅えぞカオリ。ギルドの報告くらい、もっと早く済ませられないのかよ」
カイトが欠伸をしながら言った。
「……ごめんなさい。でも、魔王国へ向かうための道を詳しく調べてきたの」
先日、カイトたちは「こんな雑魚相手の依頼はもうやらない。魔王国へ向かいながら強い魔物を狩る」と王国側へ一方的に告げていた。
だが、地図を調べることも、必要な物資を確認することも、実際に通る道を決めることも、いつの間にかカオリの役目になっていた。
「魔王国へ向かうなら、まず南へ進んで海洋国アクアリスへ入るのが一番確実よ。港町ポルト・ラーラから船で海を渡って、獣人帝国ガルディアを通れば、そこから魔王国方面へ進める」
カオリが調べた経路を説明すると、カイトの顔に露骨な苛立ちが浮かんだ。
「はあ? なんで俺たちが、そんな面倒な道を通らなきゃいけないんだよ。真っ直ぐ行けばいいだろ」
「真っ直ぐ進めるような道じゃないの。危険な地域もあるし、旅人が使える街道や補給できる場所も考えないと」
カオリが説明しても、カイトは納得しなかった。
テーブルの上にあったパンを乱暴にちぎり、苛立たしげに舌打ちする。
「だいたいよ、俺たちが一番強いのに、なんでこんな国のルールだの道だのに合わせなきゃならねえんだ。マジで気に食わねえ」
騎士団長ガウェインとの模擬戦で、カイトは自分が王国最強の騎士に勝ったと思い込んでいる。
実際にはガウェインが初心者であるカイトを傷つけないよう大幅に力を抑え、最後には勝ちまで譲っていた。
だが、そのことをカイトは知らない。
【勇者】の力で急速に強くなったことも重なり、自分たちはこの世界で誰よりも強いのだと信じ込むようになっていた。
「カイトくん……魔王を討伐するために、城から出て旅立つって決めたんじゃないの?」
カオリが尋ねる。
カイトは薄く笑った。
「あんなもん、城の息苦しい生活から抜け出して自由になるための口実に決まってるだろ」
「えっ……?」
「俺は、この力を使って好きに生きたいんだよ。誰かの命令で魔王を倒してやる義理なんかねえ」
カオリは言葉を失った。
魔王国について調べて感じていた疑問とは、まるで違う。
カイトは真実を確かめようとしているわけではない。
人類を救うという使命に疑問を持ったわけでもない。
ただ、手に入れた力を自分のためだけに使おうとしている。
「でも……王国の人たちは、私たちが魔王を倒すつもりだと思ってるよね」
カオリは声を落とした。
「それに、ずっと見られてる」
「見られてる?」
「王国の人だと思う。宿の周りや、依頼へ行く時も……同じような人たちがずっといるから」
カオリは以前から、自分たちの周囲に王国の暗部らしき者たちが配置されていることへ気づいていた。
はっきり声をかけてくることはない。
それでも移動するたびに距離を保ってついてくる者がいる。
「私たちが魔王を討伐する気がないって知られたら、王国だって黙ってないと思う」
だが、カイトは笑った。
「知られたらどうなるって?」
「……カイトくん?」
「その時は、俺たちがロドリス王国と戦えばいいだろ。あの偉そうな王様ごと叩き潰せば済む話じゃねえか」
「…………っ」
カオリの身体が固まった。
冗談を言っている顔ではなかった。
自分たちへ逆らう者なら、それが国であっても力で潰せばいい。
本気でそう考えている。
「そうだな。俺たちの力なら、国一つくらいどうにでもなるだろ」
トウマも腕を組みながら同意した。
カオリは思わずリンを見る。
「リンちゃん……」
少しくらいは、自分と同じようにおかしいと思ってくれるかもしれない。
そう期待した。
「ふふっ、カイトかっこいい! 私、カイトについていくからね!」
だが、リンは頬を染めてカイトの腕へ抱きついた。
カオリの言葉へ返事すらしない。
カイトも当然のようにリンの肩を抱き寄せる。
(……ああ、そうか)
そこでようやく分かった。
ここに、自分と同じ方向を見ている人はいない。
三人とは、もう一緒にいられない。
このままついていけば、いつか本当に取り返しのつかないことになる。
「……私、少し疲れたから、先に部屋で休むね」
なんとか声を震わせないように言い、カオリは三人へ背を向けた。
「おー、勝手に休んでろ。明日の朝飯の手配も忘れんなよ」
背中から聞こえたカイトの声に返事はせず、カオリは自分に割り当てられた寝室へ入った。
扉を閉める。
それだけで、外の声が少し遠くなった。
カオリはベッドへ腰を下ろし、しばらく俯いていた。
このまま明日も一緒にいれば、また何も言えなくなるかもしれない。
王城でフトシが追い出された時のように。
自分の考えより、周りへ合わせることを選んでしまうかもしれない。
それだけは嫌だった。
そして、夜更け。
王都が静まり、宿の中からもほとんど物音がしなくなった頃。
カオリはベッドから立ち上がった。
持っていくのは、冒険者として自分で稼いだ金と、必要最低限の着替え。
大きな荷物を持てば目立つ。
今は、とにかく王都を離れることを優先した。
小さな鞄を肩へ掛け、窓から外を確認する。
宿の周囲には、やはり気配を殺した監視役がいた。
(……見つかったら、止められる)
逃がしてくれるとは思えない。
カオリは目を閉じ、魔力へ意識を集中した。
彼女の持つ【賢者】は、この世界のあらゆる魔法を高い精度で扱える力だ。
王宮で魔法を学ぶようになってからも、教えられた術だけでなく、自分で本を読み、術式の組み方を調べてきた。
光。
音。
気配。
それぞれへ働きかける魔法を、一つに組み合わせる。
「……光よ、私の輪郭を透過し、音よ、私の足跡を奪いなさい」
魔力が身体の周囲へ広がる。
光が屈折し、カオリの輪郭が少しずつ背景へ溶けていった。
同時に足音と気配も薄れていく。
完全に姿が見えなくなったことを確認してから、カオリは静かに窓を開けた。
冷たい夜風が室内へ入ってくる。
そのまま外へ降り、監視役から距離を取るように歩く。
すぐ近くを通っても、誰もこちらを見なかった。
(……行ける)
胸は激しく鳴っている。
それでも足を止めなかった。
(私一人で、確かめに行く)
魔王国について何が本当なのか。
ロドリス王国が何を隠しているのか。
そして、フトシが今もどこかで生きているのか。
自分の目で確かめたい。
それに、会うことができたなら。
何も言わずに見送ったことを、ちゃんと謝りたい。
フトシくんに、心から謝りたい。
カオリは王都の夜間乗合馬車の発着所へ向かった。
不可視の魔法を解くのは、人目の少ない場所まで十分に離れてからにした。
そして、アクアリス方面へ続く南行きの夜行便へ、一人で乗り込んだ。
―――
翌朝。
カオリがいなくなったことに気づいた客室では、三人が朝食のテーブルを囲んでいた。
「はっ、あの地味女、ついに俺たちの話にビビって逃げ出しやがったか」
カイトが冷めた肉料理をフォークで突きながら鼻で笑う。
「雑用してくれる人がいなくなったのは面倒だけど、カオリが嫌なら仕方ないんじゃない?」
リンはそう言いながらも、心配して探しに行こうとはしなかった。
トウマも窓の外へ一度目を向けただけだった。
「追いかけても戻る気はないだろ。三人で行けばいい」
「だよな」
カイトは立ち上がる。
「これで好きに動ける。国が決めた道なんか知るか。俺たちは俺たちで行きたい方へ行こうぜ」
カオリが調べていたのは、南へ進み、アクアリスからガルディアを経由する道だった。
だが、三人はその道を選ばなかった。
王都を出ると、そのまま北側に広がる深い森へ向かっていく。
どこへ行くのか。
どのくらいの日数がかかるのか。
水や食料をどこで補給するのか。
これまでカオリが確認していたことを、三人の誰も気にしていなかった。
カオリは一人で南へ。
カイト、トウマ、リンは三人で北へ。
五人で始まった異世界での道は、さらに大きく分かれていった。




