第78話 元Sランクの流儀と、筋肉に染み渡る極太肉汁うどん
昨夜の騒動から一夜明けた、ノース・グラン王城の静かな朝。
冷たい北風が窓ガラスを叩く音を聞きながら、俺は城の豪奢なサロンで、執事長のセバスさんと向かい合って座っていた。
「セバスさん。昨夜お願いした修行の件、改めてよろしくお願いします。」
俺が深く頭を下げると、セバスさんはティーカップをソーサーに置き、穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、喜んでお引き受けいたしますよ。」
セバスさんはそこで少しだけ目を細め、どこか懐かしむような視線を窓の外へと向けた。
「実は私、かつてはSランク冒険者として、宛てもなく国内を一人で彷徨っていた時期がありましてね。」
「えっ……セバスさんが、彷徨っていたんですか?」
「はい。己の力だけを信じ、血の気の多い日々を過ごしておりました。ですが、その後いろいろとありまして、イザベラ陛下に拾われ、この国に仕えることになったのです。」
セバスさんは燕尾服の胸元を軽く押さえ、執事としての誇りを感じさせる所作を見せた。
「ただ、王室に仕えた後も、自らを鍛え上げる修行のルーティンだけは決して忘れませんでした。これでも、毎朝欠かさず剣を振り続けているのですよ。」
昨日、あの凄腕の暗殺者の超スピードに涼しい顔で対応し、壁際に追い詰められたと見せかけてからの紙一重のカウンターで、急所を正確に打ち抜いてみせた絶技。
それは決して過去の栄光にすがるだけのものではなく、日々の弛まぬ鍛錬によって極限まで研ぎ澄まされていたものだったのだ。
「流石です。俺も、セバスさんのように強くなりたいです。」
「光栄なことですね。それで、フトシ様は具体的に、どのような部分の修行を望まれますか?」
セバスさんの問いに対し、俺は自身の弱点を冷静に見つめ直して答えた。
「俺はスキルのおかげで、純粋な腕力や身体能力だけは過剰なほどに高いんです。だから、身体的なトレーニングは今は必要ないと思っています。」
俺はギュッと拳を握り締め、真っ直ぐにセバスさんの目を見た。
「俺が知りたいのは、対人戦闘における駆け引きや、力をいなす技術、そして戦士としての『心得』や『テクニック』の部分です。力任せではなく、技術で相手を圧倒できるようになりたいんです。」
「なるほど……己の長所と短所を正しく理解されている。素晴らしい心がけです。では、さっそく城の地下にある王室専用の訓練場へ移動しましょう。」
俺たちが席を立ち、サロンを出ようとしたその時だった。
「待って、フトシ!」
胸ポケットから飛び出したベルが、俺の目の前で小さな両手を広げて立ち塞がった。
「わたしも! わたしもフトシたちと一緒に、修行に参加してもいいかしら?」
「ワフッ!」
「キュイッ!」
足元にいたメイとシルクも、ベルの言葉に同意するように力強く鳴き声を上げた。
空中に浮かぶ水の枕の上でまどろんでいたウンディーネも、薄く目を開けてこちらを見つめている。
「お前たち……。」
相棒たちが昨夜の出来事をどれほど悔しく思い、もっと強くなって俺を助けたいと願ってくれているのかが、痛いほどに伝わってきた。
「もちろんいいよ。みんなで一緒に強くなろう。」
俺が優しく微笑んで頷くと、隣にいたセバスさんがクスリと上品な笑い声を漏らした。
「ふふっ……おそらく、ベル様たちもそうおっしゃるのではないかと思いましてね。」
「えっ?」
「彼らの対人戦闘における経験不足を補うため、そして我が国の軍の訓練にもなると思い、あらかじめ『適任者』を二名、訓練場に呼んでおいたのです。」
俺たちがセバスさんの案内に従って広大な地下訓練場へと足を踏み入れると、そこにはすでに数十人の屈強な兵士たちと、彼らを束ねる二つの影が待ち受けていた。
「お待ちしておりました、セバス殿。」
そう言って前に出たのは、重厚な漆黒の甲冑を身に纏い、背中に巨大な大剣を背負った巨漢だった。
鋼のような灰色の毛並みに覆われた狼の獣人のような風貌で、歴戦の猛者であることを示す顔の古い傷跡と、鋭い金色の瞳が強烈な威圧感を放っている。
「準備は万端よ。いつでも始められるわ。」
次に声を上げたのは、深い紫色のローブを羽織った長身の魔族の女性だった。
艶やかな青みがかった黒髪を後ろで一つにまとめ、額には魔族の証である小さな二本の角が生えている。
知的な銀縁眼鏡の奥で光る氷のような水色の瞳は、膨大な魔力を秘めていた。
「ご紹介しましょう。こちらが我がアストラーレ魔王国騎士団長であるヴォルグ殿。そして、宮廷魔術師長のザディス殿です。」
「ヴォルグだ。よろしく頼む。」
「ザディスよ。あなたたちの実力、見極めさせてもらうわね。」
「あ、よろしくお願いします。フトシです……それにしても、なぜ国軍のトップであるお二人がノース・グランに?」
俺が不思議に思って尋ねると、セバスさんが丁寧に説明してくれた。
「イザベラ陛下が各都市を巡回して政務を執り行うように、騎士団長と魔術師長もまた、同じルートで各都市の王城を巡回しているのです。道中の魔王陛下の護衛というわけではありませんが、こうして各地の部隊を直接指導することで、戦意高揚と全体的な練度向上を図っているのですよ。」
なるほど、それなら今このタイミングでノース・グランに二人が滞在しているのも納得だ。
「ヴォルグ殿、ザディス殿。相棒の皆様のお相手をお願いできますか。」
セバスさんが指示を出すと、二人は深く頷き、訓練場の半分を使って兵士たちを配置し始めた。
「シルク様とメイ様には、騎士団の精鋭たちと模擬戦を行っていただきます。そしてベル様には、ザディス殿率いる魔術師団の相手をお願いしましょう。」
昨夜の戦闘で明確になった相棒たちの弱点。
それは、メイやシルクが純粋な魔物相手の戦闘には無類の強さを誇る反面、人間特有の『フェイント』や『罠』、『死角からの不意打ち』といった泥臭い戦術に慣れていないことだった。
そしてベルは、魔法の威力や魔力操作は規格外だが、視覚外から放たれる素早い物理攻撃に対する反応速度に課題があった。
「さあ、四方八方から容赦なく襲いかかってこい! その中で、人間の狡猾な動きを体で覚えるのだ!」
ヴォルグ団長の号令と共に、模擬戦用の木製武器を持った数十人の騎士たちが、一斉にシルクとメイを取り囲んで波状攻撃を仕掛けた。
「キュイッ!?」
「ワフゥッ!?」
正面からの攻撃を軽々と回避した直後、死角から足払いが飛んできたり、仲間を盾にして背後から木槍が突き出されたりと、人間ならではの変則的な連携に二体は翻弄され始めた。
「ベル様、上空ばかりに気を取られてはいけませんよ! 魔術と見せかけた投擲武器に警戒しなさい!」
ザディス魔術師長の声と共に、緩やかな魔力弾に混じって、全く魔力を持たない小さな木製の投げナイフが、ベルの背後の死角から無音で飛来する。
「きゃあっ!? また見えないところから来たわ!」
それぞれが己の弱点と徹底的に向き合う、非常に実戦的で理にかなった過酷な組手訓練が始まっていた。
「さて、フトシ様。我々も始めましょうか。」
一方、俺とセバスさんは訓練場のもう半分のスペースを使い、向かい合って構えを取った。
俺の手には、金剛棒と同じ長さと重量バランスに合わせてエルラドさんに削り出してもらった、極太の硬い木棒が握られている。
セバスさんの手には、細身でしなやかな木製のレイピアがあった。
「まずは、フトシ様が全力で私に攻撃を仕掛けてきてください。私は『受け』に徹します。」
「……わかりました。いきます!」
俺は石畳を深く踏み込み、規格外の筋力に任せて、セバスさんの胴体に向けて木棒を全力で薙ぎ払った。
空気を叩き割るような轟音と共に、大木すらへし折る必殺の一撃が迫る。
だが、セバスさんはその圧倒的な質量と速度を前にしても、瞬き一つしなかった。
スッ……。
木棒が当たる直前、セバスさんは自らの一歩を斜め前へと踏み込み、手首の柔らかなスナップだけで木製レイピアの刀身を木棒の側面に滑らせた。
「なっ……!?」
ガンッ!という衝突音は一切鳴らなかった。
俺の込めた全力の腕力は、セバスさんの描いた円運動の軌道によって完全に真横へと逸らされ、俺の体は勢い余って前へと大きくつんのめってしまったのだ。
「力は申し分ありません。ですが、力が強すぎるゆえに、攻撃の軌道が直線的で単調になっています。それでは、熟練の戦士には一生当たりませんよ。」
「くそっ……もう一丁!」
俺は体勢を立て直し、上段からの振り下ろし、突き、横薙ぎと、怒涛の連続攻撃を繰り出した。
しかし、どれほど速く重い一撃を放っても、セバスさんは最小限の足捌きと、レイピアの『面』を使った完璧な受け流しによって、俺の攻撃をすべて空の彼方へと逃がし続けた。
一発たりとも、クリティカルヒットしないのだ。
「ハァッ……ハァッ……!」
十分ほど一方的に攻撃を続けただけで、俺の息は大きく乱れていた。
これが、『技術』という名の途方もなく高く分厚い壁なのだ。
「では、次の段階に進みましょう。ここからは、私が受け流した直後の『隙』を見て、反撃の打突を織り交ぜていきます。」
セバスさんの声のトーンが、わずかに一段階下がった。
俺が再び右から木棒を振り抜いた瞬間、セバスさんはそれを下からすくい上げるように逸らし、俺の右半身のガードが完全に空いたその一瞬の隙を突いた。
ピシッ!!
「痛っ!」
木製レイピアの先端が、俺の右肩の筋肉を正確に、しかし怪我をしない絶妙な力加減で打ち抜いた。
「攻撃の終わりの硬直。そして、重心が前足に偏りすぎている瞬間。人間が最も無防備になるのは、自らが攻撃を放った直後なのです。」
セバスさんの指導は、恐ろしいほどに的確で、実践的だった。
俺は打たれるたびに痛みを噛み殺し、自分の体のどこに隙があるのか、どうすれば重心を崩さずに連続して動けるのかを、頭と体で必死に学習していった。
「素晴らしい吸収力です。では最後は、お互いに自由に攻撃し合う、本格的な模擬戦といたしましょう。」
セバスさんがレイピアの切先を真っ直ぐに俺へと向け、これまでにない鋭い剣気を放った。
俺は荒い息を吐きながらも、木棒を両手でしっかりと握り直し、セバスさんの足の動きと肩の筋肉の収縮から、次の動きを予測しようと意識を集中させた。
力任せに振るのではなく、相手を見て、無駄な力を抜く。
ガァンッ!! キィィンッ!!
王城の地下訓練場には、俺とセバスさんの激しい打ち合いの音と、相棒たちの気合いの入った声が、いつまでも響き渡っていた。
その日から、俺たちのノース・グランでの生活は、明確なルーティンへと変わった。
日中は広場で屋台を展開し、『チーズいももち』や『あげいも』を労働者や冒険者の方々に笑顔で提供して、商売の経験と対価をしっかりと稼ぐ。
そして夕方、屋台の営業を終えると、そのまま真っ直ぐに王城の地下訓練場へと直行し、セバスさんや騎士団の方々の胸を借りて、ひたすらに汗を流して修行に打ち込むのだ。
「ハァッ……ハァッ……今日も、こてんぱんにされたな……。」
「キュイィ……。」
「ワフゥ……。」
数日後。
夜の客室に戻ってきた俺たちは、全身の筋肉の疲労と心地よい倦怠感に包まれながら、絨毯の上に大の字になって倒れ込んでいた。
「お疲れ様、みんな。修行の後は、しっかりと栄養補給をしないとな。」
俺は重い体を起こして簡易キッチンへと向かい、アイテムボックスからあらかじめ仕込んでおいた食材を取り出した。
用意したのは、小麦粉と少量の赤塩、そして水を合わせて丁寧に練り上げた生地だ。
それを分厚い布で包み、足でしっかりと体重をかけて何度も踏み込むことで、強靭なグルテンの網目構造を形成させた『特製の手打ち極太麺』である。
日本のうどんに限りなく近い、圧倒的なコシを持つ麺だ。
これをたっぷりの熱湯が沸く大鍋に投入し、踊らせるようにして茹で上げる。
芯まで火が通ったところでザルに上げ、冷水で一気に表面をキュッと締めることで、噛み返すほどの強い弾力と滑らかな喉越しを生み出した。
「次は、スタミナ満点の熱々つけ汁だ。」
別の小鍋を取り出し、つけ汁のベースとなるフォレスト・フォウルの鶏ガラ出汁を作る。
まずはたっぷりの熱湯を鶏ガラ全体にかけ、表面のタンパク質を素早く凝固させる。
その後すぐに冷水にさらし、骨の間に残った血合いや汚れを指先で丁寧に洗い落とす『霜降り』という下処理を施す。
だが、これだけでは骨の髄から滲み出る細かな臭みは完全に抜けきらない。
俺は下処理を終えた鶏ガラを、たっぷりの水と共に小鍋に入れてじっくりと火にかけた。
温度が上がり、沸騰する直前の絶妙な温度になったところで火を弱める。
すると、表面に白く濁ったアクと余分な脂がふつふつと浮き上がってくる。
「ここからが勝負だ。」
俺は『微細な水流操作』の魔法と目の細かいお玉を駆使し、浮いてきたアクを執拗なまでに、そして徹底的に掬い取り続けた。
少しでもアクが残っていれば、スープ全体に獣臭さが移ってしまうからだ。
この『霜降りと徹底したアク取り』の二段構えの工程を経ることで、初めて雑味と臭みが完全に消え去り、旨味だけが抽出された透明な極上鶏ガラ出汁が完成するのだ。
完璧な出汁が引けたところに、特製スパイスラブを擦り込んでホロホロになるまで低温調理しておいた『プルドポーク』を、濃厚な肉汁ごとたっぷりと投入した。
味の決め手は、俺が魔法と温度管理を駆使し、数分で半年分の発酵を終わらせた『天然醸造生醤油』だ。
火を入れることで醤油の芳醇な香りが爆発的に立ち昇り、豚の脂の深い甘みと完璧に融合していく。
仕上げに、ネギに似た青い香草を大量に刻み入れ、ピリ石の粉を軽く振って完成だ。
「よし、特製プルドポークの肉汁つけうどんだ。たっぷり食べてくれ。」
「いっただっきまーす!」
俺たちは大皿に盛られた冷たくて艶やかな極太麺を箸でごっそりと掴み、熱々の濃厚なつけ汁へと潜らせた。
ズズズッ!!
勢いよくすすると、強靭なコシを持つ麺が口の中で暴れ回り、そこにプルドポークのホロホロとした豚肉の旨味と、生醤油のキリッとした塩気が完璧に絡みついてくる。
「うまっ……!!」
「ワフッ、ワフッ!」
「キュイッ!」
噛み締めるたびに豚の脂の甘みが溢れ出し、ピリ石の粉のスパイシーな刺激が、酷使して熱を持った筋肉の隅々にまで染み渡っていくような感覚に陥る。
臭みを一切感じさせない極上の鶏スープが、全ての具材の旨味をまとめ上げている。
冷たく締められた麺と熱いつけ汁の温度差が食欲を無限に増進させ、俺たちは無言のまま、あっという間に大量の極太麺を平らげてしまった。
「ぷはぁーっ、食った食った。これなら、明日もまた全力で修行に打ち込めるぞ。」
俺が満足げにお腹をさすると、ベルやシルクたちも、満腹の幸せそうな表情でこくりと頷いた。
強くなるための道は、まだ始まったばかりだ。
このノース・グランの街はもちろんのこと、これから先の二つの都市を巡る旅の中でも、俺たちの大切な家族を守るためのこの修行は、一日たりとも休むことなく継続していくつもりだった。




