第77話 未熟者の気付きと、月夜のバルコニー
廃棄された巨大なチーズ倉庫の地下空間は、先ほどまでの狂騒と殺意が嘘のように静まり返っていた。
セバスは細身のレイピアの刀身についたわずかな血糊を、懐から取り出した純白の布で静かに拭き取り、燕尾服の内側へと音もなく収める。
そして、革靴の足音すら立てずに石畳の上を歩み、壁際で倒れているフトシのもとへと近づいた。
「……呼吸は安定していますね。打撲のみで、内臓への致命的な損傷はありません。」
セバスが静かな、だが確かな声で安否を告げると、不安そうにフトシの巨体を見つめていたメイとシルクの瞳から、ピンと張り詰めていた殺気と緊張の色がわずかに緩んだ。
「ワフゥ……。」
「キュイ……。」
二体は鼻を鳴らしながらフトシの体にすり寄り、その体温と規則正しい心音を確かめるように身を寄せている。
一方、空中に浮かんでいた大精霊ウンディーネは、静かに『水の結界』を解除し、テーブルの上で気を失っていたベルの小さな体を両手で優しく抱き起こした。
「……ベル、起きて。もう大丈夫。」
ウンディーネの涼やかな、それでいてどこか温かみのある声に促され、ベルはゆっくりと目を覚ました。
「ん……あれ、わたし……?」
ベルはぼんやりとした様子で周囲を見渡した。
絶対零度の氷に閉じ込められ、あるいは血の海に沈んだ暗殺者たちの凄惨な姿。空中に水の鞭で縛り上げられ、完全に気を失っているザルバフ。
そして何より、壁際でぐったりと倒れているフトシの姿を視界に捉えた瞬間、彼女の小さな体に雷に打たれたような震えが走った。
「フトシッ!!」
ベルは透明な羽を激しく羽ばたかせてフトシの顔のそばまで飛んでくると、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
「ごめんなさい、フトシ……! わたしが捕まったせいで、フトシがこんなに怪我をして……!」
自分が不覚を取って敵の暗殺者に攫われ、ウンディーネの結界の中でただ眠ることしかできなかった。
その間に、自分が心から愛する大切な家族が傷ついてしまったという事実が、ベルの心に深く重くのしかかっていたのだ。
「わたしがもっと強かったら、あんな奴らに捕まらなかったら……こんなことにはならなかったのに……ごめんなさい……っ。」
ベルの悲痛な泣き声と、頬に落ちる温かい涙。そして、メイやシルクが心配そうに顔を舐めるザラリとした感触。
それらの強い刺激によって、深く沈んでいた俺の意識は、ゆっくりと暗闇から浮上していった。
「……んっ……いてて……。」
俺が重い目を開けると同時に、脇腹にズキリとした鋭い鈍痛が走った。
ザルバフの放った、魔力を込めた強烈な回し蹴りの感触が、ありありと蘇ってくる。
「お目覚めですか、フトシ様。」
「セバスさん……。」
俺はセバスさんに肩を貸してもらいながら、痛む脇腹をさすりつつ、ゆっくりと上体を起こした。
周囲を見渡すと、ザルバフは空中でウンディーネの水の鞭に縛り上げられて完全に気を失っており、他の手下たちはメイとシルクによって跡形もなく殲滅されていた。
「みんな、無事だったんだな……。」
俺が心からの安堵の息を漏らすと、ベルが俺の鼻の頭に抱きついて激しく泣きじゃくった。
「ベル、泣かないでくれ。お前が無事で、本当に良かった。」
俺は太い指の腹で優しくベルの小さな背中を撫で、足元にいるメイとシルクの頭をぽんぽんと撫でた。
ウンディーネにも視線を向け、深く頭を下げる。
「ウンディーネ、ベルを守ってくれて、それに俺のことも助けてくれて……本当にありがとう。」
『……ううん。私は、当然のことをしただけ。』
ウンディーネは普段の眠たげな表情を少しだけ引き締め、静かに首を振った。
「セバスさんも、怪我をされているのに……俺のために一緒に戦ってくださって、感謝してもしきれません。みんながいなかったら、俺はあっという間にやられていたかもしれない。」
俺は心からの感謝を告げると共に、自分の不甲斐なさを深く恥じた。
俺はこれまで、神話級の武器である金剛棒の絶対的な威力と、スキルによって規格外に強化された身体能力に任せて、ただ力任せに魔物を殴り倒してきただけだった。
だが、今回のように対人戦闘に特化した技術と経験を持つ人間を相手にすると、俺の力押しの戦法は驚くほど通用しなかった。
変則的な武器の軌道や、心理的な駆け引き、そして急所を的確に狙う洗練された技量。
それらを押し付けられた時、俺は自分がこれほどまでに脆く、弱い存在なのだということを、骨の髄まで思い知らされたのだ。
「セバスさん……恥を忍んで、お願いがあります。」
俺は姿勢を正し、真っ直ぐにセバスさんの目を見つめた。
「俺は、大切な家族を守るための『本当の戦い方』を知りません。どうか、俺を鍛えてくれませんか。」
俺の真剣な懇願を受け、セバスさんはその完璧な執事の顔をわずかに和らげ、どこか嬉しそうな光を瞳に宿した。
「……ええ。私でお役に立てるのでしたら、喜んで引き受けさせていただきますよ。」
セバスさんは優しく微笑み、俺の肩を軽く叩いてくれた。
「ですが、まずはこの場をなんとかしなければなりませんね。」
セバスさんが懐から通信用の魔導具を取り出して合図を送ると、地上で待機していた数十人の王国近衛兵たちが一斉に地下空間へとなだれ込んできた。
彼らは手際よく気を失っているザルバフや生き残りのカルト集団を拘束し、アジトの事後処理を始めてくれた。
俺たちは近衛兵たちに後を任せ、冷え込む夜の街路を抜けて、ノース・グラン王城へと帰還した。
あてがわれた客室に戻ると、張り詰めていた緊張の糸が切れ、急激な疲労と空腹が襲ってきた。
「何か、お腹に優しいものを軽く食べようか。」
俺は簡易キッチンに立ち、アイテムボックスから食材を取り出した。
用意したのは、肉付きの良いフォレスト・フォウルの鶏ガラだ。
まずはたっぷりの熱湯を全体にかけ、表面のタンパク質を素早く凝固させてアクと臭みを閉じ込める。
その後、すぐに冷水にさらし、骨の間に残った血合いや汚れを指先で丁寧に洗い落とす『霜降り』という下処理を完璧に施した。
このひと手間を惜しまないことで、雑味の全くない澄み切った黄金色の出汁を抽出することができるのだ。
そこに、乾燥させて旨味を極限まで凝縮させた干しジャイアント・マッシュの戻し汁を掛け合わせる。
動物性のイノシン酸と、キノコの植物性グアニル酸が融合し、爆発的な相乗効果を生み出す。
味付けは、ほんの少しの赤塩と、俺が手作りした極上の『天然醸造醤油』だけだ。
火を入れることで生醤油の芳醇な香りがふわりと立ち昇り、極上の和風スープが完成した。
それを深めの器によそい、以前炊いてストックしておいたインディカ米の『塩むすび』を、黒剛鉄のフライパンでこんがりと焼き目をつけてからスープの中へと落とす。
仕上げに、砕いたワイルド・ピンクペッパーを散らして完成だ。
「よし、特製出汁茶漬けだ。みんな、食べてくれ。」
「……おいしい。」
「ワフッ。」
「キュイッ。」
相棒たちは温かいスープを飲み、ホロホロに崩れた香ばしいご飯を頬張って、ホッと息をついていた。
胃の粘膜に染み渡るような鶏とキノコの深い旨味と、生醤油のキリッとした塩気が、疲弊した体と心を優しく解きほぐしていく。
食事を終えると、相棒たちはよほど疲れていたのか、すぐにベッドや枕の上で深い眠りについた。
俺もベッドに横たわったが、どうしても眠りにつくことができなかった。
目を閉じると、ザルバフの蹴りをまともに受けて吹き飛ばされた時の無力感や、ベルを攫われた時の絶望感が、フラッシュバックのように脳裏をよぎるのだ。
「……少し、外の空気を吸ってくるか。」
俺は静かにベッドを抜け出し、木刀代わりのただの木の棒をアイテムボックスから取り出すと、軽く素振りでもしようと客室のバルコニーへと出た。
ノース・グランの冷たい北風が、火照った頭を冷ましてくれる。
バルコニーから続く城の広い空中庭園に出ると、そこには思いがけない人物の姿があった。
「……おや、フトシではないか。」
月明かりの下、豪奢なナイトガウンを羽織り、燃えるような赤い髪を風に揺らしているのは、魔王イザベラ陛下だった。
彼女は手すりに寄りかかり、一人静かに夜の街を見下ろして黄昏れていた。
「イザベラ陛下……夜分遅くに申し訳ありません。邪魔をしてしまいましたか。」
「いや、構わん。ここは考え事をするのにちょうどいい場所だからな。お主も眠れないのであれば、隣に来ないか?」
イザベラ陛下が優しく手招きをしてくれたので、俺はお言葉に甘えて彼女の隣に並んだ。
「お主たちに何かトラブルがあったことは、セバスからの報告で聞いておる。相棒の妖精が無事で何よりだったな。」
「はい……。でも、俺の弱さのせいで、あわやというところでした。」
俺は手すりに両腕を乗せ、ぽつぽつと、今日の出来事や自分の不甲斐なさについて語り始めた。
そして、夜風の静けさと彼女の持つ不思議な包容力に背中を押されるように、俺はこれまで誰にも話していなかった『秘密』を打ち明けることにした。
「実は俺……この世界の人間じゃないんです。」
「ほう?」
イザベラ陛下は驚いた様子もなく、ただ静かに俺の次の言葉を待ってくれた。
「俺は、別の世界からロドリス王国に召喚された、ただの十七歳の高校生です。でも、戦闘に特化した力を持っていなかったせいで、無能扱いされて城を追い出されました。」
俺は夜空の月を見上げながら、これまでの道のりを振り返るように言葉を紡いだ。
「一人で旅をして、美味しいものを探しながら各地を回り……シルクやメイ、ベルやウンディーネをはじめ、たくさんの大切な仲間ができました。でも……。」
俺は自分の両手を見つめ、ギュッと拳を握り締めた。
「今日、対人戦の確かな技術を持った人間を相手に手も足も出ず、自分の決定的な弱さを思い知らされました。もしみんなが助けてくれなかったら、俺のせいで大切な家族を失っていたかもしれない……。その事実に気づいたら、急に足がすくむほど怖くなったんです。今回はみんながいてくれたから良かったけど、正直……本当に怖かった。」
これまで強引に力でねじ伏せてきたツケが回り、大切なものを守りきれないかもしれないという恐怖。
俺が偽りない弱音を吐き出すと、イザベラ陛下は少しの間沈黙し、やがて俺の頭にポンと温かい手を乗せた。
「……よく、一人でここまで歩んできたな。」
その言葉には、一国の王としての絶対的な度量と、大人の女性としての深い慈愛が満ちていた。
「フトシには、フトシを思って共に戦ってくれる、立派な相棒たちがいるではないか。それに、妾やセバスといった大人の存在もな。」
イザベラ陛下は俺の目を見つめ、力強く微笑んだ。
「一人で全てを抱え込む必要はない。聞いたぞ、セバスに鍛えてほしいと頼み込んだらしいな。」
「……はい。自分の弱さを自覚したので、恥を忍んでお願いしました。」
「うむ。セバスの指導は骨が折れるだろうが、あやつに頼めば何とかなる。これからも、何かあれば遠慮なく我らを頼るがいい。」
イザベラ陛下はそこで言葉を切り、赤い髪をかき上げながら、どこか妖艶な笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んだ。
「なにせ、妾はお主のことが、ひどく気に入っておるからな。」
月明かりに照らされた彼女の黄金色の瞳と、大人びた色香を放つその表情に、俺の心臓は思わずドクンと大きな音を立てた。
「あ、ありがとうございます……。」
俺が照れ隠しに視線を逸らすと、イザベラ陛下はフフッと小さく笑い、再び夜の街並みへと視線を戻した。
冷たい夜風が吹き抜ける中、俺の心の中に渦巻いていた不安と恐怖は、確かな決意と温もりによって、少しずつ溶かされていくのを感じていた。




