第76話 目覚める本能と、大精霊の鉄槌
時間はほんの少しだけ遡る。
廃棄された巨大なチーズ倉庫の地下空間にて、フトシがカルト集団『アドヴァース』の現場指揮役であるザルバフと対峙し、セバスが黒装束の暗殺者と刃を交え始めたその直後のこと。
フトシの足元から勢いよく飛び出したメイとシルクは、数十人にも及ぶ武装した部下たちの群れへと真っ直ぐに突撃していた。
相手は、魔神召喚の儀式のために人や魔物を躊躇なく攫い、魔力を抽出して使い捨ての生贄にするような外道の集団だ。
彼らの目には狂気と殺意が宿り、手にした粗悪な剣や槍の切先は、容赦なく二体の小さな体へと向けられていた。
「なんだこの犬とウサギは!」
「魔王の従魔か!? 構わん、殺して魔力を抽出しろ!」
怒号が飛び交う中、白い弾丸と化したシルクが前衛として敵陣に突っ込み、その後方から漆黒の神狼であるメイが後衛として魔法の支援を行う、見事な役割分担の陣形が組まれていた。
「キュイッ!!」
シルクは固有スキルである『幸運の加護』を自身に展開し、敵の武器が偶然同士討ちになったり、石につまずいて転んだりする絶対的な回避空間を作り出す。
そして、その強靭な脚力を活かしたドロップキックや回し蹴りを、次々と部下たちの体へと叩き込んでいた。
「ワオォォンッ!」
後方のメイは、周囲の空間から大気中の水分を凍らせて無数の氷の槍を生成し、シルクの死角を狙う敵に向けて正確に撃ち出していく。
一見すると、二体の連携は完璧であり、敵を圧倒しているように見えた。
しかし、実際の戦闘は、奇妙な膠着状態に陥っていたのだ。
「ぐはっ……!」
シルクの蹴りを腹に受けた男が、くの字に折れ曲がって石畳に倒れ伏す。
「ひぃっ!? あ、足が凍って……!」
メイの放った氷の槍が男の足元に命中し、太ももから下を分厚い氷塊の中に閉じ込める。
そう、二体の攻撃はどれも、敵の急所を完全に外していた。
首や心臓を狙えば一撃で絶命させられるだけの力と魔法の威力を持ちながら、シルクはあえて腹や背中を蹴って気絶させるにとどめ、メイは手足を凍らせて行動不能にするだけの威力に調整していたのだ。
その理由は明白だった。
シルクもメイも、自分の大好きな主人であるフトシと同じ『人間』という種族を相手に、殺し合いをした経験がほとんどなかったからだ。
普段、屋台で美味しそうに料理を頬張る労働者や、笑顔で話しかけてくれる冒険者たち。
そして何より、自分たちに美味しいご飯を作り、頭を撫で、温かい愛情を注いでくれる心優しいフトシの姿。
そんな温もりと優しさに触れて育ってきた二体は、たとえ相手が明確な殺意を向けてくる外道であっても、無意識のうちに人間を殺すことに強烈なブレーキをかけてしまっていたのだ。
「おい、起きろ! まだやれるだろ!」
「クソッ、ただの獣風情が舐めやがって!」
気絶した男たちは別の部下に揺り起こされてすぐに意識を取り戻し、足を凍らされた者も仲間に氷を砕かれて再び武器を構え直してくる。
いくら攻撃を当てても決定打にならず、倒れた端から起き上がってくる大群を前に、シルクとメイは次第に攻めあぐねていた。
人間の醜い執念と数の暴力が、優しすぎる二体の体力を少しずつ削り取ろうとしていたのだ。
そんな膠着状態の中、二体の視界の端に、信じられない光景が飛び込んできた。
ドガァァァァッ!!!
鈍い衝撃音と共に、フトシの巨体が石畳を削りながら倉庫の壁際へと無様に吹き飛ばされる瞬間だった。
ザルバフの紐付き短剣の変則的な連撃を金剛棒で凌ぎ、セバスの勝利に一瞬安堵したフトシの隙を突き、魔力を込めた強烈な回し蹴りがその脇腹に深く突き刺さったのだ。
「ぐあっ……!?」
痛みに顔を歪め、そのまま壁に激突して動かなくなるフトシの姿。
それを見た瞬間、メイとシルクの中で、何かが完全に弾け飛んだ。
自分たちに美味しいご飯を作ってくれる、一番大切な大好きな人が、目の前で傷つけられ、倒れ伏している。
自分たちが手加減などという生ぬるいことをして敵の足止めに手間取っている間に、主人が敵の攻撃を受けてしまった。
自分たちは、なんて愚かな真似をしていたのだろう。
(この人間たちは、すぐに殺さなければならない敵だ。)
二体の思考から、フトシに対する配慮や人間への慈悲が、砂の城が崩れるように跡形もなく消え去った。
「…………グルルルルルッ。」
メイの喉の奥から、これまで聞いたこともないような低く禍々しい唸り声が響いた。
漆黒の毛並みが逆立ち、神獣フェンリル亜種としての本能が完全に目覚める。
メイの全身から、光すらも呑み込むような黒く深いオーラが立ち昇り始めた。
「な、なんだこの尋常じゃない魔力は……!?」
「ひ、ひぃぃっ!?」
部下たちがメイの放つ圧倒的なプレッシャーに恐れをなし、後ずさりを始めた。
しかし、もう遅い。
メイが前足をドンッ!と石畳に打ち付けると、絶対零度の冷気が大爆発を起こしたように地下空間へ広がった。
『氷と闇の魔法』の完全な解放。
これまで手加減して足元だけを狙っていた氷が、今度は部下たちの全身を瞬く間に包み込み、悲鳴を上げる間も与えずに、数十人の人間を完璧な美しい氷の彫像へと変えてしまった。
さらに、メイが禍々しいオーラを放ちながら黒い瞳を細めると、凍りついた部下たちの背後に、空間を歪めるような漆黒の闇の渦――まるで小さなブラックホールのような穴が出現した。
ズズズズズッ!!
「…………ッ!?」
声にならない絶望を氷の中に閉じ込めたまま、氷の彫像と化した部下たちは次々とその闇の渦の中へと吸い込まれていく。
彼らの体は跡形もなく消滅し、二度とこの世界に帰ってくることはなくなった。
一方、前衛で戦っていたシルクの体にも、メイと同じように冷酷で禍々しいオーラが宿っていた。
「キュイイイイイイッ!!」
Sランク魔物に匹敵する聖獣フォーチュンラビットの真の力。
シルクの長い耳がピンと立ち、赤い瞳が獲物を狩る捕食者のそれへと変わる。
『強力な認識阻害』のスキルがフル稼働し、生き残っていた十人以上の部下たちの視覚と平衡感覚を完全にバグらせた。
「ああっ!? どこだ、見えな……!」
部下が混乱して剣を振り回した次の瞬間、シルクは音すら置き去りにするトップスピードで空間を跳躍していた。
バキィィィッ!!
石畳を蹴り砕くほどの踏み込みから放たれた回し蹴りが、男の首の骨を乾いた音と共に粉砕する。
「がぼっ……!」
ドゴォォォッ!!
休む間もなく壁を蹴って方向を変え、次の男の胸ぐらに強烈な膝蹴りを叩き込み、肋骨を内臓ごとへし折る。
ただ気絶させるための攻撃から、確実に命を奪うための殺意を持った一撃へ。
白い残像だけを残しながら、シルクは瞬きをする間に十人以上の部下たちの急所を次々と打ち砕き、床に血溜まりを作っていった。
数十人いたはずのカルト集団の手下たちは、覚醒した二体の圧倒的な力によって、ものの数秒で完全に殲滅されたのだ。
「ハァッ……ハァッ……。」
壁際でフトシが倒れているのを確認した二体は、彼の胸が上下に動き、命に別状がないことを匂いと音で察知した。
そして、その視線をゆっくりと、主を蹴り飛ばした張本人であるザルバフへと向けた。
ザルバフは、セバスが元Sランク冒険者の実力で暗殺者を仕留めたのを見て内心焦っていたが、すぐさまフトシを蹴り飛ばしたことで、状況を優位に戻せたと錯覚していた。
「くっくっく、見たか。これが俺の実力だ。あの爺さんもかなり消耗しているようだし、あとは……」
ザルバフが勝ち誇ったように言いかけたその時、彼は自分の背後で起きた惨状に気付いた。
数十人いたはずの部下たちが、影も形もなく消滅し、あるいは血の海に沈んでピクリとも動かなくなっているのだ。
「なっ……!? なんだと!? 貴様ら、一体何をした……!」
ザルバフが驚愕に目を見開いた瞬間、禍々しいオーラをまとったメイとシルクが、弾かれたようにトップスピードで彼に向かって突進してきた。
「グルアァァァァッ!!」
「キュイイイイッ!!」
それは、自分たちの大切な家族を傷つけた外道に対する、純粋な怒りと殺意の塊だった。
「チィッ! この獣どもがッ!」
ザルバフは慌てて二本の紐付き短剣を構え直し、迎撃の体勢をとった。
だが、彼はここで致命的な相性の悪さに直面することになる。
ザルバフは、これまで人間を相手にした戦闘経験は豊富であり、暗殺術や対人用の心理戦には長けていた。
しかし、四足歩行で極端に背が低く、常識外れのスピードと機動力で死角から襲いかかってくる高ランクの魔物を相手にした経験は、ほとんどなかったのだ。
これまでは、魔物相手の面倒な戦闘はすべて下っ端の部下たちに任せきりにしていたのが仇となった。
カキンッ! ギィンッ!!
「ぐおっ……速すぎる!」
シルクの鋭い蹴りがザルバフの脛を砕きにかかり、メイの放つ氷の槍が彼の退路を容赦なく塞ぐ。
人間相手の関節や急所を狙うために特化した彼の短剣の軌道は、小さな二体には全く通用しなかった。
ザルバフは完全に防戦一方に追い込まれ、二体の猛攻をいなしたり回避したりすることに専念するしかなくなった。
(クソッ、なんて出鱈目な力とスピードだ! このままでは俺がやられる……!)
息を切らし、冷や汗を流しながら、ザルバフの外道な頭脳が、この窮地を脱するための卑劣な手段を弾き出した。
(そうだ、あの気絶している大男……! あいつを囮にして、この獣どもの動きを止めてやる!)
ザルバフは、メイの放った氷の刃を短剣で辛うじて弾き落とすと、その反動を利用して体を大きく捻った。
そして、メイとシルクへの牽制の攻撃を放つふりをしながら、右手で握っていたもう一本の短剣を、壁際で気を失って倒れているフトシの心臓へ向けて、全力で投擲したのだ。
「死ねェッ!!」
ヒュンッ!!
魔力を纏った短剣が、空気を切り裂きながら、無防備なフトシの胸元へと一直線に吸い込まれていく。
「ワオォォンッ!?」
「キュイッ!?」
メイとシルクがその卑劣な凶行に気づき、悲痛な叫び声を上げてフトシのもとへ駆け寄ろうとする。
だが、どんなに速い二体であっても、すでに放たれた短剣の速度に追いつくことは絶対に不可能だった。
短剣の鋭い切先が、フトシの服を引き裂き、心臓を貫こうとしたその刹那。
カキィィンッ!!!!
高く澄んだ硬質な音が、地下空間に響き渡った。
「……な、なんだと!?」
ザルバフの顔が、信じられないものを見たように強張った。
気絶しているフトシの体の表面を、青く透き通ったドーム状の『水の結界』が覆い尽くし、必殺の短剣をいとも容易く弾き飛ばしていたのだ。
「ば、馬鹿な! あの結界は、向こうのテーブルで気絶している妖精のものではないのか!? それなら、一体誰が……!」
ザルバフが混乱と驚愕に顔を歪め、周囲をギョロギョロと見渡した。
だが、その思考が次の答えに辿り着くよりも早く、彼の運命は決定づけられた。
『……本当に、最低のクズ。』
地下空間の空気に、氷のように冷たく、一切の感情を排した女性の思念が響き渡った。
「誰だ!? どこにいる!!」
ザルバフが叫んだ直後、彼の足元の石畳から、突如として尋常ではない量の水が噴き出した。
ズガァァァァンッ!!
「ぐあっ!?」
それは、ウンディーネの『水流操作』による、超高圧に圧縮された水流の鞭だった。
ウンディーネは、フトシたちの背後で起きた戦闘の一部始終を、ずっと『不可視の魔法』で姿を消したまま見つめていたのだ。
彼女がこれまで一切の手を出さず、静観に徹していたのには明確な理由があった。
敵の部下たちが大勢いる状況で、もし大精霊である自分が強大な魔法を放って姿を現せば、混乱した敵の流れ弾や意図的な攻撃によって、結界の中にいるとはいえベルが傷つけられる可能性が万が一にもあったからだ。
だが、今は違う。
メイとシルクが部下たちを完全に殲滅し、この空間に立っている敵はザルバフただ一人となった。
これならば、ベルへの被害を一切考慮することなく、自分の魔法でザルバフを確実に無力化することができると判断したのだ。
「ガァァァッ! い、息が……!」
ウンディーネの放った水流の鞭は、まるで生き物のようにザルバフの四肢に巻きつき、彼の体を空中に高く吊り上げた。
強烈な水圧が骨を軋ませ、二本の短剣は無残にも床へとポロリとこぼれ落ちた。
『フトシを傷つけて、ベルを攫った。……万死に値する。』
ウンディーネの冷酷な宣告と共に、水の鞭がさらに強く締め付けられ、ザルバフの口から悲鳴すらも絞り出せなくなる。
フトシが壁際で気を失っている間に、彼が心から大切に思い、愛情を注いできた相棒たちは、自らの力で主を守り抜き、そして仇である外道を完全に打ち倒していたのだった。
薄暗いチーズ倉庫の地下空間は、冷たい水の音と、メイとシルクの安堵の吐息だけが静かに響き渡っていた。




