第75話 元Sランクの執事長と、初めての殺し合い
夜の帳が完全に下りたノース・グランの街は、北風が肌を刺すほどに冷え込んでいた。
だが、俺の体内では怒りと焦燥感がマグマのように煮えたぎり、寒さなど微塵も感じなかった。
ウンディーネから送られてきた思念の座標を頼りに、俺たちは内周の工場地帯へと全速力で駆け抜けていた。
「ワオォォンッ!」
「キュイッ!」
俺の足元では、漆黒の神狼であるメイと、白い弾丸のようなシルクが、俺の速度に合わせてピタリと並走している。
【探求者】の規格外の補正がかかった俺の身体能力は、本気で走れば馬車の全速力すらも置き去りにするほどだ。
だが、それ以上に俺の度肝を抜いたのは、俺のすぐ隣を走る執事長セバスさんの姿だった。
「…………ッ。」
俺が必死に地面を蹴って跳躍するように走っているというのに、セバスさんは背筋をピンと伸ばし、燕尾服の裾を翻しながら『軽く走っている』だけに見えるのだ。
息一つ乱さず、足音すら全く立てないその無駄のない足運びは、洗練された技術の結晶だった。
(セバスさん……これだけ速く移動しているのに、全く息すら切らしていない。)
ただの王室の執事長ではないことは察していたが、一体何者なんだと、俺は内心で驚愕せざるを得なかった。
あっという間に、俺たちは目的の場所へと到達した。
そこは、工場地帯の片隅に佇む、長年使われていない巨大な廃棄チーズ倉庫だった。
俺は普段、自分自身のことをそこまで強いとは思っておらず、未知の戦いに対しては常に不安を抱えていた。
しかし今は、大切な家族であるベルが攫われたという事実が、俺の中から一切の恐怖と不安を消し飛ばしていた。
頭の中は驚くほどに冷静でありながら、ただ純粋な怒りだけが静かに燃え上がっていたのだ。
「ウンディーネが結界でベルを守ってくれているはずです。隠れる必要はありません、正面から行きましょう。」
「承知いたしました、フトシ様。」
俺が金剛棒を握り締めて重厚な倉庫の扉を蹴り破ると、中には長年放置されたカビと、古びた乳製品の匂いが充満していた。
警戒しながら地下へと続く石造りの階段を降りていく。
だが不思議なことに、アジトの奥へ進んでも、見張りの兵や罠などの敵の姿は一切なく、拍子抜けするほど静かだった。
「……静かすぎますね。」
「ええ。我々を迎え撃つために、最深部に戦力を集結させているのでしょう。」
セバスさんの言葉通り、重厚な鉄格子の扉を抜けた先にある巨大な地下空間に、奴らは待ち構えていた。
薄暗い魔石ランプに照らされたその部屋には、数十人もの武装したカルト集団の手下たちが並んでいた。
そして部屋の奥のテーブルには、青く透き通るウンディーネの『水の結界』に守られたまま、気を失っているベルの姿があった。
「ベル……!」
俺が思わず叫ぶと、テーブルの前にふんぞり返っていたフードの男――現場指揮役のザルバフが、下劣な笑みを浮かべて立ち上がった。
「くっくっく……わざわざ自ら死地に赴くとは、愚かな冒険者だ。」
ザルバフは俺たちを見下し、ワイングラスを片手に傲慢な態度で言い放った。
「ちょうど生贄の魔力がもっと必要だったところだ。お前たちも、そしてその獣どもも、みな良い魔力の餌になりそうだな。」
その狂気に満ちた言葉に、俺はこいつらとまともな対話をするのは不可能だと即座に悟った。
完全に話が通じない、純粋な悪意と外道の集団だ。
「……メイ、シルク! お前たちはあそこにいる大勢の部下たちの相手を頼む!」
「ワフッ!」
「キュイッ!」
俺の指示に、相棒たちは力強く応え、すぐさま手下たちの群れへと突撃していった。
「フトシ様、あの黒装束の暗殺者は私が担当いたします。」
セバスさんが静かに前に進み出ながら、燕尾服の内側からすらりとした細いレイピアを引き抜いた。
「速さには、いささか自信がございますので。」
その構えを見た瞬間、俺はセバスさんがかつてSランク冒険者として名を馳せたほどの、凄腕の俊敏ファイターであることを理解した。
年齢を重ねてはいるが、その分積み上げられた圧倒的な経験値が、彼の一挙手一投足に隙のない完璧な技量を与えているのだ。
「ありがとうございます。なら、あの一番偉そうなリーダーは……俺がやります。」
俺は如意の金剛棒を両手で構え、ザルバフを見据えた。
その瞬間、俺の心の中に、これまで感じたことのない重い葛藤が生まれた。
異世界に来てから、俺は生きるために多くの魔物を倒し、解体してきた。
だが、同じ言葉を話し、同じ形をした『人間』と殺し合いをするのは、これが初めてだったのだ。
(本当に、人間をこの手で叩きのめせるのか……?)
金剛棒を握る手に、一瞬だけわずかな迷いが生じる。
だが、テーブルの上で意識を失っている小さなベルの姿が目に入った瞬間、その迷いは完全に消え去った。
俺の大切なものを不当に傷つけ、利用しようとする外道。
ここで俺が覚悟を決めなければ、家族を守ることなど絶対にできない。
「……いくぞッ!!」
俺は地面の石畳を砕くほどの踏み込みで一気に間合いを詰め、ザルバフの胴体に向けて渾身の横薙ぎを放った。
初見であれば、この重量と腕力から放たれる金剛棒の一撃で、どんな防具ごとでも確実にダウンを奪えるはずだった。
「ふんッ!」
しかし、ザルバフは嘲笑を浮かべたまま、まるで羽虫のように軽く飛び上がり、金剛棒の軌道を紙一重で回避したのだ。
「なっ……!」
「力任せに振り回すだけの攻撃など、当たらなければ意味がないぞ。」
一見すると、ザルバフはそこまで戦闘に長けているようには見えなかった。
だが、彼は余裕の笑みを浮かべながら、懐から二本の奇妙な短剣を取り出した。
「流石にこの俺自身が強くなければ、あの荒くれ者の下っ端どもをまとめ上げることなどできないからな。」
ザルバフが持つ短剣の柄には、細く強靭な鋼鉄の紐が結びつけられていた。
彼はそれを両手で器用に振り回し、予備動作のない鋭い投擲で俺へと襲いかかってきた。
ギィンッ!!
俺が金剛棒で弾き飛ばすと、短剣は紐に引かれてブーメランのようにザルバフの手元へと戻っていく。
それだけでなく、彼は紐を鞭のようにしならせ、俺の足元を払おうとしたり、金剛棒に巻きつけて武器を奪おうと絡め手を使ってきたのだ。
「くそっ、なんて戦いにくい武器だ……!」
これまで、圧倒的な筋力と武器の性能に任せて魔物を殴り飛ばすことしかしてこなかった俺は、対人特有のテクニカルな戦法に初めて苦戦を強いられていた。
相手の変則的な軌道の攻撃に対し、持ち前の強化された身体能力で間一髪の迎撃を繰り返すことしかできず、ただ時間だけが過ぎていく。
一方、その頃。
地下空間の反対側では、セバスと黒装束の暗殺者による、常人には目で追うことすら不可能な超高速の戦闘が繰り広げられていた。
ガキンッ! キィィンッ!!
セバスの流麗なレイピアの突きと、暗殺者の短刀が激しく火花を散らす。
相手の暗殺者は、元Sランク冒険者であるセバスと対等、もしくはそれ以上の恐るべきスピードを持っていた。
(この男……真っ当に生きていれば、間違いなくSランク冒険者にでもなっていたであろう素質の持ち主。)
セバスは相手の刃を紙一重で捌きながら、その戦い方の癖に既視感を覚えた。
「……思い出した。お前は数年前、イザベラ陛下を暗殺しようと王城に忍び込み、私が撃退した愚か者ですね。」
セバスが静かな声で語りかけると、暗殺者はフードの奥で不気味に笑った。
「ヒヒッ……あの時のジジイか。生きてまた殺し合えるとはな。」
「何故お前ほどの腕を持つ者が、このような邪悪なカルト集団に仕えているのですか?」
セバスの問いに、暗殺者は両手から複数の毒針を連射しながら吐き捨てた。
「俺はただ、強い奴らを一方的にいたぶって殺したかっただけだからな! ここに入れば、お前やあの魔王みたいな強い奴も合法的に殺せると思ったからいるだけだ!」
その返答を聞き、セバスの目に氷のような冷酷な光が宿った。
「……なるほど。救いようのないクズだということは、よくわかりました。」
暗殺者は服の至る所に隠していた多種多様な暗器を取り出し、その圧倒的なスピードを活かして、縦横無尽かつテクニカルに襲いかかってくる。
セバスは、純粋な走力と手数では相手が上回っていることを冷静に悟った。
(ならば、こちらから追う必要はありませんね。)
セバスはあえて大きく動くことをやめ、その場に留まって相手の攻撃を待ち受ける『後の先』、すなわちカウンター戦法へと切り替えた。
だが、暗殺者の立体的な機動力と絶え間ない暗器の猛攻によって、セバスは徐々に部屋の壁際へと追い込まれていく。
「ヒャハハハッ! どうしたジジイ! もう息切れかァ!?」
壁を背にし、逃げ場を失ったセバス。
暗殺者が勝利を確信し、必殺の一撃を放とうと一直線に突っ込んできた、その瞬間。
「……かかりましたね。」
セバスの姿が、ブレるようにブレた。
壁を蹴る反動を利用し、相手が突っ込んでくる勢いと自らの前進を掛け合わせ、常識外れの速度で一気に暗殺者の懐へと潜り込んだのだ。
「なっ……!?」
あまりの急接近に、セバス自身もレイピアを振りかぶって斬りつける時間はなかった。
だが、彼は全く焦ることなく、握り締めたレイピアの硬い『柄頭』を、暗殺者の無防備なみぞおちへと正確無比に叩き込んだ。
ゴグシャァッ!!
「ガッ…………ァァッ!?」
内臓を激しく揺さぶる強烈な一撃。
肺の空気をすべて吐き出し、暗殺者の動きが完全に停止した。
スピードという最大の武器を失い、著しく動きが落ちた相手に対し、今度はセバスがその洗練された足捌きで完全に翻弄し始めた。
「これで、終わりです。」
拮抗した攻防の末、セバスは肩に浅い切り傷を負いながらも、銀閃のようなレイピアの一撃で暗殺者の急所を正確に貫き、完全なとどめを刺した。
暗殺者は糸の切れた操り人形のように、静かに石の床へと崩れ落ちた。
一方、ザルバフと対峙していた俺は、相手の変則的な紐付き短剣の連撃をなんとか金剛棒で凌いでいた。
(すごい……セバスさんが勝った!)
横目でセバスさんの勝利を捉え、この状況なら必ず勝てると、一瞬だけ安堵し、自分も頑張るしかないと気を引き締め直そうとした。
だが、そのわずかな視線の動きを、現場の修羅場を潜り抜けてきたザルバフが見逃すはずがなかった。
「命のやり取りの最中に、余所見をするとはいい度胸だな!!」
「しまっ……!」
俺が視線を戻した時には、ザルバフの姿は目の前から消えていた。
紐の遠心力を利用して自身の体を無理やり死角へと引き寄せた彼は、俺の無防備な脇腹に向けて、魔力を込めた強烈な回し蹴りを放ってきた。
ドガァァァァッ!!!
「ぐあっ……!?」
内臓を抉るような鋭い痛みが走り、俺の巨大な体は石畳を削りながら、倉庫の壁際へと無様に吹っ飛ばされてしまった。




