第70話 北の酪農都市ノース・グランと、王城の濃厚ディナー
あの平原でのあっけない殲滅劇によって、相手側も警戒を強めたのだろうか。
その後、街道沿いで数匹の魔物が突発的に襲い掛かってくることはあれど、百体を超えるような不自然な群れとの遭遇は一度もなかった。
窓の外を見やれば、木々の葉はすでに落ち、冷たい北風が草原の草を大きく揺らしている。
吐く息がうっすらと白さを帯びるほどの冷気を通り抜け、俺たちはついに目的地である北の都市ノース・グランへと到達した。
広大な牧草地を囲むようにそびえる、頑強な灰色の石造りの街並み。
各家の屋根に取り付けられた煙突からはモクモクと白い煙が立ち上がり、寒冷地特有の牧歌的でありながら厳かな雰囲気が漂っていた。
「やっと着いたわね! あー、空気がすっごくひんやりしてて気持ちいい!」
胸ポケットから飛び出したベルが、冷たい風を受けながら嬉しそうに羽を羽ばたかせている。
「ワフッ。」
「キュイッ!」
メイとシルクも馬車から降り立ち、アスファルトとは違う、霜の降りた土の感触を肉球で確かめていた。
「さて、それじゃあ俺たちは、この街で良さそうな宿を探そうか。」
ここまで護衛を任せてもらったイザベラ陛下とセバスさんにお礼を伝え、別れて宿を取ろうと足を踏み出した、その時のことだった。
「フトシ様、どうかお待ちください。」
セバスさんが柔らかな笑みを浮かべ、スッと俺の前に進み出てきた。
「何かあったんですか、セバスさん?」
「この街の王城には、使われていない上質な客室が山のようにございます。次も同様に我々の巡回のお供をして別の都市へ向かわれるのでしたら、同じ城内で寝泊まりをしていただいた方が、なにかと都合がよいでしょう。」
セバスさんはそこで一度言葉を切り、どこか悪戯っぽく目を細めた。
「それに、ノース・グラン王城の料理人の腕は、この都市内でも間違いなくトップクラスに位置しております。素晴らしい酪農食材を知り尽くした彼らの技ならば、フトシ様や相棒の皆様の舌をも、十分にうならせられると思いますよ。」
「…………ッ。」
俺は思わず言葉に詰まり、苦笑いを浮かべてしまった。
こちらの旅の安全性だけでなく、俺たちが何よりも料理の味を重視していることまで、セバスさんには完全にお見通しだったようだ。
「……なんだか、俺たちの考えていることは全部まるわかりですね。お言葉に甘えさせていただきます。」
俺が頷くと、セバスさんは「それは何よりでございます」と深く一礼し、俺たちを王城の奥へと案内してくれた。
時は少し巻き戻り、ノース・グランの裏通りに佇む、日の当たらない薄暗い地下室。
一台の粗末な木製テーブルが置かれた部屋の隅で、深く被ったローブのフードの奥から、ガリッ、ガリッと乾燥した爪を噛む耳障りな音が響いていた。
「……報告しろ。」
フードの男が低く濁った声で呟くと、その目の前に片膝をついていた黒装束の男が、緊張に喉を鳴らしながら頭を下げた。
「はっ。平原にて仕掛けた、召喚士による襲撃……完全に失敗いたしました。投入した百体超のゴブリンは全滅、向こうの被害はゼロでございます。」
「……なんだと?」
「王城の護衛たちではありません。あのターゲットの男が連れている従魔たち……特にあの珍しいピクシーや、白い獣どもの戦闘力が、予測を遥かに超えておりました。各個体が少なくとも、Aランク上位の冒険者に匹敵する規格外の魔力を秘めております。」
報告を聞きながら、フードの男が噛んでいた爪を鋭く噛みちぎり、ペッ、と床に吐き捨てた。
「……面白い。ただの旅の冒険者かと思えば、それほどの力を持った希少な妖精どもを複数も従えているとはな。」
男の口元が、フードの暗闇の中で歪な三日月形に吊り上がる。
彼らの標的は、アストラーレ魔王国のトップである魔王イザベラではなかった。
あの珍しいピクシーと、正体不明の強力な従魔たち、そしてそれを率いる男――フトシ一行そのものだったのだ。
男の背後にあるのは、世界を滅ぼすほどの邪悪な魔神をこの世に召喚しようと企む、狂気のカルト集団だった。
強力な魔神を現世へと呼び降ろす儀式には、莫大な魔力と、純度の高い自然の魔素を身に宿した希少な触媒が必要となる。
「次は街中で、あの者が単独になっているところをすかさず狙うぞ。」
男は椅子から立ち上がり、黒装束の手下に向けて冷たい視線を投げつけた。
「召喚士のような大雑把な手駒ではなく、腕利きの暗殺者を手配しろ。……ただし、絶対に命までは奪うな。あの従魔どもにも、あの男にも、我らが主が望む魔神召喚の儀式のために、最高の利用価値があるからな。」
「はっ……! 直ちに手配いたします。」
黒装束の男が闇に溶けるように消え去った後も、地下室には爪を噛み砕く無気味な音だけが長く響き続けていた。
そんな陰謀が動いていることなど知る由もなく、俺たちはノース・グラン王城の立派な客室で、暖炉の火に当たりながら心地よい休息を取っていた。
窓の外に夜の帳が降り始めた頃、控えめなノックの音と共にセバスさんが部屋を訪れた。
「フトシ様。イザベラ陛下が、今宵の夕食をご一緒にいかがかと誘っておられます。」
「ありがとうございます。すぐに向かいますね。」
俺は相棒たちを連れて客室を出ると、セバスさんの案内で王城の上層階にある、少人数用の落ち着いた個室ダイニングへと足を踏み入れさせた。
部屋の中央の大きなオーク材のテーブルには、すでに美しい赤ワインのグラスを傾けるイザベラ陛下が腰を下ろしていた。
「おお、フトシよ。よく来たな。ここへ座るがいい。」
「お招きいただきありがとうございます、陛下。」
俺たちがそれぞれの席(シルクは俺の頭の上、ベルはテーブルの真ん中、メイは足元の専用シート、ウンディーネは空中の水の枕)についた後、セバスさんが俺のお茶を注ぎながら静かに口を開いた。
「フトシ様。念のためのお願いなのですが……今後、このノース・グランの街中へ出られる際には、十分にご注意なさってください。」
「襲撃の件ですか?」
「はい。平原での一件は退けましたが、相手の素性や本当の狙いがまだ見えておりません。不自然に人気のない路地や、単独行動での無理は避けていただけますよう、お願いいたします。」
「確かに、あの召喚魔法の使い手がまだ街にいる可能性もありますしね。わかりました、十分に警戒します。」
俺が真剣に頷くと、イザベラ陛下もワイングラスを置いて満足そうに微笑んだ。
「うむ。何か怪しい影があれば、いつでも妾やセバス、そしてこの城の近衛たちを頼るのだぞ。」
そんなやり取りを終えた絶妙なタイミングで、個室の扉が開き、純白の給仕服を着た料理人たちが次々と最初の皿を運び込んできた。
「ノース・グラン特産、とれたて牛乳と発酵バターのコンソメポタージュでございます。」
目の前に置かれた温かい陶器のスープ皿から、芳醇な発酵バターの甘い香りと、丁寧な仕事を思わせるクリアな出汁の香りが立ち昇った。
「これは……いい香りだ。」
スプーンで一口すくって口に運ぶ。
舌の上で滑らかにほどける牛乳の圧倒的なコクと、発酵バターならではの深い甘み。
だが、決して重すぎないのは、ベースとなる鶏と野菜のコンソメ出汁の油脂が完璧に引き算され、寒冷地特有の香草の香りがかすかに漂っているからだ。
「おいしいっ……! なにこれ、すっごく濃厚なのに、お口の中がサラッとしてるわ!」
ベルが小さなスプーンを両手で抱え込み、目を細めてスープを飲んでいる。
「ワフッ、ワフッ!」
「キュイッ!」
メイとシルクも、自分の皿に注がれたスープをあっという間に平らげ、嬉しそうに尻尾や耳を揺らしていた。
続いて運ばれてきたのは、寒冷地の澄んだ川で獲れる香魚『クリア・スウィートフィッシュ』の冷製前菜だった。
塩と柑橘の果汁で身を締め、表面だけを軽く燻製にした魚の上に、ノース・グラン産の新鮮なフレッシュチーズが繊細に盛り付けられている。
「いただきます。」
フォークで魚とチーズを一緒にすくい、砕いたワイルド・ピンクペッパーを絡めてかじりつく。
サクラの木を思わせる軽やかな燻製の香りの直後、フレッシュチーズの爽やかな酸味とミルクの旨味が、脂の乗った香魚の甘みと完璧に融合した。
口の中で乳脂肪がとろけるが、ピンクペッパーの華やかな辛味と柑橘の酸味オイルが余分な脂を鋭く洗い流し、驚くほど軽やかな余韻だけを残していく。
「すごいな……チーズやバターをふんだんに使っているのに、全部の皿にキレがある。」
「だろう? ここの料理人たちは、濃厚な酪農素材を最後まで飽きさせずに食べさせるための『酸味』と『香草』の使い方が、実に巧みなのだ。」
イザベラ陛下が誇らしげに語り、俺もその職人技に深く感嘆した。
そして、メインの肉料理がテーブルの中央へと飾られた。
「ヒツジのロース肉と寒冷地根菜のソテー、三年熟成ハードチーズのソース添えでございます。」
分厚くカットされたヒツジ肉は、絶妙なミディアムレアの火入れによって美しいルビー色を見せており、その表面には焦がし発酵バターと芳醇な肉汁がキラキラと光っている。
その隣には、雪の下で甘みを凝縮させた大根のような根菜と、シャキシャキの葉野菜が添えられ、皿の端に黄色いトロリとしたチーズソースが引かれていた。
ナイフを入れると、抵抗感なくすんなりと肉が切れ、断面から温かい肉汁が滲み出してくる。
チーズソースをたっぷりと絡め、口へと運んだ。
「…………ッ!!」
噛み締めた瞬間、ヒツジ肉特有の力強い旨味と野生味が、三年熟成されたハードチーズの凝縮された旨味の爆発によって、極上の味覚へと引き上げられた。
チーズに含まれるアミノ酸の結晶がかすかにシャリッと響き、肉汁の甘みと交わり合って深いコクを生み出す。
だが、そこでもまた、ソースの隠し味に使われた白ワインの酸味と、レモングラスに似たハーブの香りが、後味を鮮やかに引き締めていた。
「ワォォォォンッ!!」
ヒツジ肉の強烈な美味しさに、メイが我を忘れて喜びの声を上げている。
「キュイッ、キュイイッ!」
シルクも柔らかく煮込まれた甘い根菜とチーズの組み合わせに夢中になり、小さく跳ねながら食べていた。
「……お肉、やわらかい。ごはんなら、毎日起きてあげてもいい……。」
普段は食べる時以外ほとんど寝ているウンディーネすら、水の枕に寄りかかったまま、極上のチーズソースを絡めたヒツジ肉を次々と口に運んでいた。
完璧な技術で作られた絶品の酪農フルコースを味わううちに、いつしか俺の頭の中からは、昼間の襲撃や不穏な陰謀の影は綺麗に消え去っていた。
「どうだフトシ。ノース・グランの味は楽しんでおるか?」
「ええ、陛下。最高です。牛乳やチーズでここまで奥深い構成ができるなんて、本当に勉強になります。」
俺たちが心から料理を賞賛すると、イザベラ陛下とセバスさんも嬉しそうに赤ワインのグラスを合わせ、温かい笑顔を向けてくれた。
暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てる個室の中で、俺と相棒たちは北の都市ならではの極上の味わいを心ゆくまで楽しみ、笑い合いながら深い夜の安らぎへと浸っていった。




