第66話 見えない同行者と、狼狽する完璧な執事
湖畔のピクニック広場は、穏やかな昼下がりの静寂に包まれていた。
俺はアイテムボックスから空になった重箱や遊び道具を回収し、撤収の準備を整えた。
「さて、そろそろ街に帰るか。」
「キュイッ!」
「ワフッ。」
シルクが俺の頭の上の定位置に飛び乗り、メイが元気よく尻尾を振って立ち上がる。
ベルも大きく伸びをして、俺の胸ポケットへと潜り込んだ。
「ねえ、フトシ。この新入りはどうするのよ?」
ポケットの中から顔を出したベルが、空中で水の枕を抱きしめてスースーと二度寝を満喫している絶世の美女――ウンディーネを指差した。
「そうだな……。なあ、ウンディーネ。起きろー。」
俺が声をかけると、ウンディーネは「んん……」と艶めかしい声を漏らし、ゆっくりと青い瞳を開けた。
「ごはん……? まだおなかいっぱい……。」
「いや、ご飯じゃなくて帰る時間なんだよ。このままだと、俺と一緒に空中に女性が浮いてる状態になるんだけど……街の中で注目の的にならないか?」
絶世の美女が空中に浮いて移動しているとなれば、イル・ソーレの街中で騒動になるのは目に見えている。
だが、ウンディーネは眠たげに目をこすりながら、不思議そうに首を傾げた。
「平気。私の姿は、精霊の加護が見えるくらい自然に近い者か、私が許可を出した者にしか見えない。もちろん、触ることもできない。」
「なるほど、姿を隠せるのか。」
それなら街中で騒がれる心配はない。
「ただ、それだと俺が何もない空中に向かって変な独り言を言ってるヤバい奴に見えるから、気をつけなきゃな……。」
俺が苦笑いすると、ウンディーネは「ふふっ」と小さく笑って、また枕に顔を埋めた。
「一つ相談なんだけどさ。お世話になっているこの国の魔王様や、セバスさんたちには君のことを伝えてもいいか?」
「国の偉い人?」
「ああ。俺たちによくしてくれている恩人だし、こっそり大精霊を連れ回しているのが後でバレたら、ちょっと気まずいからな。」
ウンディーネは少しだけ考える素振りを見せた後、あっさりと頷いた。
「この国の偉い人なら、私を悪いことに利用しようとはしないと思う。いいよ。」
「ありがとう。じゃあ、まずは王城のセバスさんに挨拶に行こう。」
俺たちは湖畔を後にし、イル・ソーレの街へと続く道を歩き始めた。
道中、ウンディーネは空中に浮いたまま、珍しそうに周囲の景色を見回していた。
「ずっと湖で寝てたから、こういう人間の街並みとか、久しぶりに見た。」
「そうなのか? 街の近くの湖にいたのに。」
「うん。部下の精霊たちが、水の流れとか近況報告をしてくれてたけど……私、いつも眠くてあんまり覚えてない。」
「おいおい……。」
俺が呆れたようにツッコミを入れると、ウンディーネは悪びれる様子もなく続けた。
「でも、緊急の悪いこととか、魔物の大発生みたいなことはなかったから、平和でよかった。」
マイペースすぎるが、その圧倒的な力でこの自然豊かなアストラーレの環境を守ってきた存在であることには違いないのだろう。
イル・ソーレの街に入り、俺たちは一直線に白亜の王城へと向かった。
顔なじみになった門番に挨拶をして城内に入り、すぐに対応してくれたセバスに案内され、いつもの貴賓室へと通された。
「フトシ様、本日はどのようなご用件でしょうか。ピクニックの道具は、お気に召しましたかな?」
完璧な燕尾服を着こなしたセバスが、温かいお茶を淹れながら優雅に微笑みかけてくる。
「ええ、エルラドさんに作ってもらった道具のおかげで、最高のピクニックになりました。本当にありがとうございました。」
俺が深く頭を下げると、セバスは「それは何よりでございます」と嬉しそうに目を細めた。
「実は今日伺ったのは、そのお礼と……もう一つ、新しい仲間ができたので、念のためセバスさんたちに紹介しておこうと思いまして。」
俺が切り出すと、セバスは不思議そうに室内を見回した。
「新しいお仲間、ですか? シルク様とメイ様、そしてポケットの中にいらっしゃるベル様の他に、どこにいらっしゃるのですか?」
ウンディーネは俺のすぐ隣の空中に浮いているのだが、セバスには全く見えていないようだ。
「実は、今まさにこの部屋の、俺の隣にいるんです。ウンディーネ、姿を現してくれないか。」
俺が声をかけると、空中の何もない空間が、不意に水面のように揺らいだ。
カッ!!
微かな青い光と共に、透き通るような青い長髪と神秘的な水の衣をまとった絶世の美女が、音もなく空中に姿を現した。
「っ……!?」
その姿を見た瞬間、セバスの動きが完全に停止した。
持っていたティーポットを持つ手が震え、目が見開かれ、完璧な執事の仮面が音を立てて崩れ落ちる。
「……み、水の大精霊様、ですか……!?」
セバスはティーポットをテーブルに置くのももどかしく、その場に深々と跪き、床に額を擦り付けるような最上級の敬礼姿勢をとった。
「お、おお……このような身に余る光栄……! 我らアストラーレの民の恩人たる大精霊様に、直接お目にかかれる日が来ようとは……!!」
普段の冷静沈着なセバスからは想像もつかないほどの、激しい狼狽と歓喜の入り混じった声だった。
「水の大精霊じゃない。私の名前は、ウンディーネ。……フトシにもらった。」
ウンディーネが空中の枕に寄りかかったまま、淡々とした声で告げる。
その言葉を聞いたセバスは、弾かれたように顔を上げ、信じられないものを見る目で俺を凝視した。
「お、お名前を……!? フトシ様が、あの大精霊様に、お名前をつけられたのですか……!?」
セバスの声が完全に裏返っている。
「なんと偉大な……いや、恐ろしいほどの御業……!! 精霊に名を与えるなど、神話の時代の英雄にしか成し得ない偉業にございますぞ……!!」
セバスがブツブツと呟きながら、俺とウンディーネを交互に見上げては深々と頭を下げるという、珍しくパニック状態に陥っていた。
(名付けって、そんなにすごいことだったのか……。)
俺は少し冷や汗を流しながら、ウンディーネの方を見た。
「そういえば、以前、門番のハルトさんに教えてもらったことがあるんです。この国がかつて災害に見舞われた時、大精霊様の力によって国が救われたって。」
俺が尋ねると、ウンディーネは少しだけ面倒くさそうに青い髪を揺らした。
「ああ……昔、海の方から悪い気配を持った大きな魔物がたくさん来て、この街が危なかったことがあった。だから、海ごと少しだけ押し返しただけ。別に、たいしたことじゃない。」
大津波のような魔法で国を救った大精霊の英雄譚。
それを「少しだけ押し返しただけ」とあっさり言ってのける彼女の姿に、俺は改めて大精霊という存在の規格外さを思い知らされた。
「そうか。やっぱり、心優しい大精霊様だったんだな。」
俺が感心して頷くと、ウンディーネは「ごはんをくれる人の国がなくなるのは、困るから」と、どこまでもマイペースな理由を口にした。
「おお……なんという慈悲深きお言葉……!」
一方のセバスは、ウンディーネのその言葉すらも都合よく解釈し、感激の涙を流してさらに深く平伏していた。
「あ、あの、セバスさん。大精霊様……いや、ウンディーネは、これからしばらく俺の仲間として一緒に旅をすることになったんです。だから、あまり気を遣わなくて大丈夫ですよ。」
俺が苦笑いしながら宥めても、セバスのパニックはしばらく収まりそうになかった。
美味しいお弁当とピクニックがもたらした、思いがけない出会い。
俺の異世界での探求の旅は、この日からさらに予測不可能な、賑やかなものへと加速していくのだった。




