第65話 湖畔のまどろみと、水を司る大精霊
木漏れ日が優しく差し込む、穏やかな森の昼下がり。
心地よい風の音と、微かな葉擦れの音に包まれながら、俺はゆっくりと目を覚ました。
「ふぁぁ……よく寝たな。」
少しだけ冷たさを帯びてきた空気が、頬を撫でていく。
ピクニックの満腹感も手伝って、どうやら俺は芝生の上で熟睡してしまっていたようだ。
体を起こして軽く伸びをした俺は、ふと視界の端に映ったものに目を留めた。
アイテムボックスにしまおうとして横に置いてあった、空っぽの重箱。
そのすぐそばで、青く透き通るような髪と透明な羽を持つ、手のひらサイズの可愛らしい妖精が、スースーと静かな寝息を立てていたのだ。
小さな両手で丸くなったお腹をさすりながら、幸せそうにまどろんでいる。
「ふふっ、本当によく寝てるな。」
そのあまりにも無防備な姿に、俺は思わず小さく笑声をこぼしてしまった。
どうやら俺が寝ている間も、この水辺の妖精は逃げることなく、お弁当の残りを堪能した後にそのまま眠りこけてしまったらしい。
だが、俺のその笑い声で、近くでまどろんでいた相棒の一人が目を覚ましてしまった。
「……ん、フトシ? もう起きる時間……って、ちょっと!!」
目をこすりながら起き上がったベルが、重箱のそばで寝ている青い妖精の姿を捉えた瞬間、羽を逆立てて空中に飛び上がった。
「なんでここに水の妖精がいるのよ! それに、重箱の隅っこに残ってたミートボールのソースを綺麗に舐め取ったわね!」
ベルのけたたましい声に驚き、足元で丸くなっていたメイと、俺の頭の近くで寝ていたシルクもパチリと目を覚ました。
「ワフッ!?」
「キュイッ?」
突然の騒ぎに、さすがの水の妖精もビクッと体を震わせ、ゆっくりと目を開けた。
彼女は眠たげに目をこすりながら起き上がると、空中でプンプンと怒っているベルを見上げ、それから俺の方へと視線を移した。
「……おはよう。おいしかった。」
彼女は全く悪びれる様子もなく、言葉足らずな短い感想を口にした。
「おいしかった、じゃないわよ! あんた、どこの森から来たの! ここはわたしたちがピクニックをしてる場所なんだからね!」
ベルが腰に両手を当てて説教を始めるが、水の妖精はそれを右から左へと聞き流しているようだった。
彼女はトコトコと空中を歩くように俺の目の前までやってくると、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。
「ごはん、おいしかった。……また、食べたい。」
透き通るような青い瞳には、純粋な食欲と期待だけが満ちている。
そのマイペースすぎる態度は、どこか初めて出会った頃のベルに似ていて、俺は少しだけ口元を緩めた。
「喜んでもらえてよかったよ。でも、俺たちはここにはもう来ないかもしれないし、ここに来た時じゃなきゃご飯はあげられないよ。」
相手がどこの誰であれ、初対面の相手には誠意を持って接するのが俺の流儀だ。
少しだけ丁寧な口調を交えつつ、俺が優しくそう伝えると、水の妖精は不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ……そこの森の妖精は、何で一緒にいるの?」
彼女が細い指でベルを指差すと、ベルは待っていましたとばかりに胸を張り、ドヤ顔で言い放った。
「ふふん! わたしはフトシのパートナーなんだから! だからこれからもずっと一緒にいて、毎日美味しいご飯を食べるのよ!」
ベルが得意げに自慢すると、水の妖精はしばらく黙り込み、何かを深く考えているようだった。
そして、ポフッと手を打つと、真顔のまま俺に向かって宣言した。
「……じゃあ、私も一緒にいる。だからごはんちょうだい。名前つけて。」
「えっ!?」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
ベルも「はあ!?」と羽をばたつかせて驚いている。
「一緒にいるって……ご飯を食べたいっていう、それだけの理由で俺についてきていいのか? それに、名前って……。」
俺が戸惑いながら尋ねると、水の妖精は静かに頷いた。
「うん。私、ここ数百年くらい、何もすることがなくて退屈だった。でも、このごはんがあればうれしい。」
ケチャップ風ソースの甘酸っぱさと、唐揚げから染み出た深い醤油のコク。
異世界の住人である彼女にとって、それは数百年の退屈を吹き飛ばすほどの衝撃的な美味しさだったのだろう。
だが、俺は彼女の言葉の端にあった『数百年』という単語に引っかかりを覚えた。
「なぁ、水の妖精って、俺は初めて見たんだけど……そんなに長く生きているものなのか?」
ベルのような力のある妖精ならともかく、一般的な妖精の寿命がどれくらいなのか、俺は全く知らなかった。
俺の疑問に対し、水の妖精はあっさりと首を横に振った。
「私、妖精じゃない。私は水の精霊。水を司る精霊なの。」
「……精霊?」
その言葉に、俺の脳裏にあの巨大なヒグマの姿が浮かんだ。
ガルディア帝国へと向かう道中で出会った、大地の守護熊。
自然の秩序や法則を維持する、この世界において極めて上位に位置する偉大な存在だ。
俺の体には、彼から贈られた『精霊の加護』が宿っている。
「そんなすごい存在が、ご飯目当てで俺についてきて問題ないのか? この森の湖の管理とか、色々あるんじゃないのか?」
俺が焦って確認すると、水の精霊は全く気にした様子もなく答えた。
「平気。水のお世話とかお仕事は、全部部下の精霊たちにまかせるから大丈夫。私、ずっと暇だったし。」
完全に職務放棄の宣言だった。
だが、大地の守護熊の時もそうだったが、精霊という存在は総じてマイペースで、自分の直感や好意に正直なところがあるらしい。
「それに、あなたから大地の匂いがする。……だから、だいじょうぶ。」
彼女は俺の加護を感じ取ったのか、少しだけ安心したように目を細めた。
「ちょっと、わたしという女王がいながら、こんなポッと出の精霊を仲間にするつもり!?」
ベルが不満そうに抗議してきたが、メイとシルクは新しい仲間が増えることを歓迎しているのか、興味津々で精霊の匂いを嗅いでいる。
俺としても、料理人として自分の作ったお弁当をそこまで評価されたことは、純粋に誇らしく、嬉しいことだった。
「……わかった。それなら、まずは名前を考えないとな。」
俺がそう言うと、精霊は期待に満ちた目で俺を見つめ返してきた。
手のひらサイズの可愛らしい姿だが、その本質は水を司る偉大な精霊だ。
相応しい、美しくて神秘的な名前がいいだろう。
俺は地球の神話や伝承に登場する、水を司る美しい存在の名を思い浮かべた。
「美しい水の精霊……『ウンディーネ』なんて名前は、どうかな?」
俺がその名を口にした瞬間、精霊は目を丸くし、それから嬉しそうにこくりと頷いた。
「ウンディーネ。……うん、しっくり来た。いいよ、私、ウンディーネ。」
彼女がその名を受け入れ、唇に紡いだ直後だった。
カッ!!
眩いばかりの青い光が、ウンディーネの小さな体を唐突に包み込んだのだ。
「えっ!?」
俺は思わず腕で顔を庇った。
青い光は瞬く間に膨れ上がり、手のひらサイズだった妖精のシルエットが、人間の成人女性ほどの大きさへと急激に成長していく。
光が弾けて収まると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……これが、私の本来の姿。」
そこに浮かんでいたのは、透き通るような青い長髪を風になびかせ、神秘的な水の衣をまとった、絶世の美女だった。
完璧なプロポーションと、どこか人間離れした神秘的な美貌。
先ほどまでの可愛らしい妖精の姿は、魔力を抑えるための仮の姿だったのだ。
醸し出す圧倒的な魔力と神々しさは、まさに自然の法則を司る大精霊そのものである。
「す、すごいな……。」
俺がその美しさと威厳に圧倒され、言葉を失っていた、その時のことだった。
ウンディーネはポンッと細い指を鳴らした。
すると、彼女の背後の空中に、水でできたような巨大でふかふかの『枕』が出現したのだ。
「ウンディーネ、おなかいっぱい。……おやすみ。」
彼女は言葉足らずな口調のまま、空中の枕に向かって勢いよくダイブした。
ムギュッ、と枕に顔を埋め、そのまま幸せそうな顔でスースーと寝息を立て始める。
圧倒的な神々しさは一瞬で消え去り、残されたのは、ただ満腹になって二度寝をむさぼるマイペースな居候の姿だけだった。
「……えぇっと。」
俺は完全に呆気にとられ、空中で寝ている絶世の美女と、同じく口を開けてぽかんとしているベルたちを交互に見比べた。
どうやら俺の異世界での探求の旅は、未知の食材だけでなく、とんでもなくマイペースな精霊まで引き寄せてしまったらしい。
俺はやれやれと苦笑しながら、アイテムボックスから毛布を取り出し、空中で無防備に寝ているウンディーネにそっと掛けてやるのだった。




