第44話 幻想の森の妖精と、香魚の塩焼き
獣人帝国ガルディアを旅立ち、北の魔族の街を目指す平原の徒歩旅が始まってから、およそ一週間が経過していた。
その間、俺たちはどこまでも続くのどかな平原を歩き、夜になれば『魔導携帯テント』を張って、アイテムボックスに作り置きしてある絶品料理を食べるという、非常に快適なキャンプ生活を送っていた。
「どうやら、道を間違えちまったみたいだな。」
俺は足を止め、目の前に立ちはだかる巨大な緑の壁を見上げて呟いた。
平坦だった景色は一変し、視界の左右を完全に埋め尽くすほどの、途方もなく巨大な森が広がっている。
行商人が行き交うという魔族の街への正規ルートであれば、馬車が通れる程度の街道が整備されているはずだ。
しかし、足元にあるのは獣道すら怪しい、手つかずの自然の草むらだけだった。
「キュイッ?」
「ワフッ。」
頭の上の定位置にいるシルクと、足元のメイが、見上げるような巨木群を前にして不思議そうに首を傾げている。
「まあ、今さら一週間前の道まで引き返すのも面倒だし、このまま森を突っ切るか。」
俺たちは特に慌てることもなく、巨大な木々が鬱蒼と茂る森の中へと足を踏み入れた。
森の中は、獣人帝国の荒々しい森とは全く異なる空気に満ちていた。
木漏れ日が空気中の微小な魔力に反射し、キラキラと幻想的な光の粒となって宙を舞っている。
まるで神殿の中にいるような、清謐で神聖な雰囲気が漂っていた。
【探求者】の気配察知で周囲を探ってみても、生息しているのは角の生えたウサギなどの弱くて小さな魔物ばかりだ。
悪意のある気配は一切なく、むしろ森全体が穏やかな意思を持って俺たちを歓迎してくれているようにすら感じる。
木々の隙間を縫うようにのんびりと歩を進めていくと、やがて視界が開け、森の中心部らしき場所に巨大な湖が現れた。
水面は風ひとつなく鏡のように澄み渡り、周囲の幻想的な木々を美しく映し出している。
「今日は少し早いが、ここで野営にしよう。」
俺がそう提案すると、二匹は嬉しそうに湖畔の草むらへと駆け出していった。
俺は周囲の安全を確認した後、アイテムボックスから『魔導携帯テント』を取り出して、水辺から少し離れた平坦な場所に設営を済ませる。
ふと湖の水面を覗き込むと、浅瀬の透き通った水の中を、銀色の鱗を持つ魚の群れが泳いでいるのが見えた。
「夕飯には少し早いが、立派な魚が釣れそうだな。」
俺はアイテムボックスから釣り竿を取り出し、近くの草むらで捕まえた小さな虫を餌にして針を垂らした。
水が綺麗なせいか、魚たちは警戒心もなくすぐに餌に食いついてくる。
釣り上げたのは、日本の渓流で見るアユによく似た、二十センチほどの美しい銀色の魚だった。
すかさず【鑑定】を発動する。
【クリア・スウィートフィッシュ】
詳細:魔力の澄んだ湖にのみ生息する香魚。苔ではなく水中の魔力溜まりを食べて育つため、身にはスイカや胡瓜に似た清涼感のある上品な香りが宿る。内臓のほろ苦さが絶品。
「アユと同じなら、やはりここは塩焼きが一番だな。」
俺は釣ったばかりのクリア・スウィートフィッシュの腹を割かずに、そのまま大きめのボウルに入れた。
そこに南方大陸産の真っ赤な岩塩をたっぷりと振りかけ、指の腹を使って優しく揉み込むようにして数分間置く。
こうして塩の浸透圧を利用することで、川魚特有の余分な水分とヌメリ、そして微かな臭みを完全に抜き取るのだ。
表面に浮き出た水気を清潔な布で綺麗に拭き取ると、今度は鉄串を取り出す。
エラの下から串を刺し、身を縫うように波打たせて尾びれへと貫く。
まるで魚が清流を泳いでいるかのように見せる和食の技法、『踊り串』だ。
焦げやすいヒレにはたっぷりと塩をまぶす『化粧塩』を施し、準備は完了した。
俺はアイテムボックスから鉄製のバーベキュー台を取り出し、ユニークスキル『料理する者』の力を発動する。
「……ファイア・ヒート。」
指先から放たれた魔力が、バーベキュー台の底に最適な温度の熱源を作り出す。
強火の遠火になるように串を立てかけ、じっくりと時間をかけて焼き上げていった。
しばらくすると、魚の脂が熱せられてパチパチと弾け、周囲に清涼感のある上品な香りが漂い始めた。
「よし、完璧に焼き上がったぞ。」
皮はパリッと黄金色に焼け焦げ、化粧塩を施したヒレは真っ白な扇のように美しく広がっている。
俺は熱々の串を一本手に取り、湖の神聖な景色を眺めながら、頭からガブリとかぶりついた。
「……ッ、美味い。」
サクッとした皮を突き破ると、中から信じられないほどふっくらとした熱々の身が顔を出した。
スイカのような爽やかな香りが鼻を抜け、岩塩の塩気が淡白な白身の上品な甘みを極限まで引き立てている。
そして何より、腹のワタの部分のほろ苦さがたまらない。
大人の味覚を刺激するその深い苦味が、魚全体の味をキリッと引き締め、次の一口を強烈に欲求させるのだ。
「キュイッ。」
「ワフッ。」
シルクとメイも、俺が串から外して皿に盛ってやった身を、ハフハフと美味しそうに食べている。
「最高のロケーションで食べる塩焼きは格別だな。」
俺は湖に視線を向けながら、もう一口食べようと手元の串に顔を近づけた。
「……あれ?」
手元にあるはずの、半分ほど残っていたクリア・スウィートフィッシュの塩焼きが、串から綺麗に消え失せている。
ポキッと折れたわけでもなく、骨ごと忽然と姿を消したのだ。
「シルク、メイ。もしかして俺の魚を食べたか?」
俺が疑いの目を向けると、二匹は口の周りに塩をつけたまま、フルフルと勢いよく首を横に振った。
彼らは俺の許可なく食べ物を奪うようなことは絶対にしない、賢い相棒たちだ。
「おかしいな……。」
俺は首を傾げながら、バーベキュー台から新しい串をもう一本手に取った。
一口だけかじり、再び湖の方へと視線を向け、のんびりと景色を楽しんでいるふりをする。
そして、手元に微かな空気の揺らぎを感じた瞬間、俺は凄まじいスピードで視線を串へと戻した。
「あむっ。」
そこには、背中に透明な羽を生やした、手のひらサイズの小さな女の子が宙に浮いていた。
彼女は両手で俺の塩焼きの尻尾の部分をしっかりと掴み、小さな口をいっぱいに開けてもぐもぐと頬張っているところだった。
俺と目が合った瞬間、小さな女の子は「ビクッ!」と全身を硬直させた。
「見つかってしまいましたね。」
俺が慌てずに静かな声で話しかけると、女の子は串を手放し、空中でペコペコと何度も頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! あんまりにもいい匂いがしたから、つい手が出ちゃって……でも、すっごく美味しかったから、もっと食べたいの!」
彼女は涙目で謝りながらも、食欲には勝てないらしく、チラチラとバーベキュー台の上の魚を盗み見ている。
俺は少し呆れながらも、その愛らしい姿に警戒心を解いた。
「俺はフトシと言います。あなたは、この湖に住んでいる妖精ですか?」
「うん! わたしはピクシー。この森と湖で、ずーっと遊んで暮らしてるの!」
ピクシーと名乗った彼女は、羽をパタパタと動かして俺の目の前まで飛んできた。
妖精という存在を目の当たりにし、俺の【探求者】としての知的好奇心がうずき始める。
俺は無意識のうちに、彼女に向けて【鑑定】を発動してしまっていた。
【ピクシー】
詳細:自然の魔力から生まれる妖精の一種。イタズラ好きだが悪意はない。
隠し称号:【妖精の女王】
(ん? 隠し称号? 妖精の女王って……)
俺がその詳細をさらに深く読み解こうと、鑑定の魔力を強めた瞬間だった。
「……ちょっと、フトシ!」
ピクシーの小さな顔が、みるみるうちに真っ赤に染まった。
彼女は小さな両手で自分の胸元を隠すように抱え込み、俺をジロリと睨みつけた。
「今、わたしのこと変な魔法でコッソリ覗き見したでしょ! レディーの秘密を勝手に覗くのはダメなんだからね!」
「……っ! 申し訳ありません!」
俺はハッとして鑑定を解除し、深く頭を下げた。
相手のステータスや隠し称号を見るという行為は、こちらの世界ではプライバシーを侵害する無礼な振る舞いに当たる。
完全に俺の探求心が暴走してしまった結果だった。
「初対面の方に対して、大変失礼なことをしてしまいました。どうかお許しください。」
俺が誠心誠意謝罪すると、ピクシーは腕を組み、ふんぞり返るようなポーズをとった。
「もー、本当に失礼なんだから。……でも、このすっごく美味しいお魚に免じて、今回だけは特別に許してあげる!」
彼女はちゃっかりとバーベキュー台から新しい串を一本持ち上げ、嬉しそうにかじりついた。
俺は胸を撫で下ろしながら、深く反省した。
(未知の存在だからといって、むやみに【鑑定】を使うのは控えよう。敵意のない相手には、ちゃんと対話で知っていくべきだ。)
俺の能力は、使い方を間違えれば相手を丸裸にしてしまう危険なものだ。
その戒めを胸に刻み、俺はピクシーに向けて再び微笑みかけた。
「許していただき、ありがとうございます。お詫びと言ってはなんですが、魚以外にも美味しいものがたくさんあるんです。一緒にパーティをしませんか?」
俺がそう提案してアイテムボックスから様々な料理を取り出し始めると、ピクシーの瞳が星のようにキラキラと輝き始めた。




