第4話 交易都市マルタの活気と、お目当ての香草焼き
ウルフとの遭遇戦を終えた馬車は、再び夕暮れの街道を滑るように走り出していた。
車内はすっかり落ち着きを取り戻し、それどころか俺に対する乗客たちの視線は、恐怖から深い畏敬の念へと変わっていた。
何しろ武器も持たずに魔物を一瞬で片付けたのだから無理もない。
だが、当の俺は御者台の後ろの席で、人知れず大いに反省していた。
(……やってしまった。完全に油断していたな)
思い返せば、あのウルフどもが襲ってきたとき、俺は自身の『直感』と自動強化された身体能力に頼り切り、ただ力任せに殴り倒してしまった。
せっかくユニークスキル『冒険する者』の中に、対象の情報を詳細に読み取る【鑑定】という便利な能力が含まれているというのに、それを使うのを完全に忘れていたのだ。
あのウルフは本当にただのウルフだったのか。
それとも、この世界特有の珍しい亜種だったのか。肉の性質や美味しく食べるための調理法、あるいは毒の有無など、鑑定していれば分かったはずの情報が山ほどあったに違いない。
日本食屋『味処・藤』のマスターからも、「料理人はな、扱う食材のすべてを知ろうとしなきゃ駄目だ。産地、育ち方、鮮度、全部だぞ」と耳にタコができるほど叩き込まれていた。
見知らぬ異世界に来たのだ。
これからは新しい魔物や、少しでも怪しいと感じたものに遭遇したら、まずは絶対に【鑑定】を通す。
それを徹底的に癖付けようと、俺は強く心に誓った。
そんな思考を巡らせているうちに、馬車の窓から見える景色が変わってきた。
地平線の向こうから、夕日を浴びてオレンジ色に輝く巨大な石造りの城壁が姿を現したのだ。
ロドリス王国の城下町よりも一回りは大きく、堅牢に見える。あれが目的地である交易都市マルタだ。
門の前には長蛇の列ができていたが、俺が冒険者ギルドで発行してもらったばかりの登録カードを提示すると、門兵は驚くほどあっさりと通してくれた。
「ギルドの身分証があれば大抵の街の検問はフリーパスだ」
別れ際にそう教えてくれた、あの串焼き屋の親父さんの言葉は本当だった。
一万ゴールドの出費は、身分証という意味でも完全に正解だったと言える。
門をくぐり、街の中へと足を踏み入れた瞬間、凄まじい熱気と活気が俺の五感を叩いた。
「さあさあ、獲れたての東部産の果物だよ! 甘くて瑞々しいよ!」
「そこのお兄さん、仕上がったばかりの頑強な革鎧はどうだい!」
大通りには色鮮やかな布を張った露店が果てしなく並び、行き交う人々の熱気で溢れ返っている。
人族だけでなく、獣の耳や尾を持った亜人らしき姿も多く見かけ、まさに『流通の要所』という名にふさわしい賑わいだ。
市場の近くを通りかかったときには、嗅いだことのない独特なスパイスの香りが漂ってきて、それだけで俺の胃袋が激しく自己主張を始めた。
「いやあ、無事に到着しましたね、フトシさん」
馬車を降りたところで、同じく荷を下ろしていたキースが、ほっとしたように汗を拭いながら声をかけてくれた。
「キースさん、色々と道中の情報をありがとうございました。お陰で助かりました」
「何を言いますか、ウルフから命を救ってもらったのはこちらの方ですよ。ところで、フトシさんは今夜の宿はもう決まっているのですか?」
「いえ、まだ何も。どこか手頃で、ご飯の美味い宿があると嬉しいんですが」
俺がそう尋ねると、キースは「お任せください!」と、商人の顔になって胸を叩いた。
「でしたら、中央広場から少し路地に入ったところにある『黄金の麦穂亭』という宿がお勧めです。あそこの女将さんとは古い付き合いでしてね。部屋は清潔ですし、何より食堂の料理が絶品なんです。私の名前を出してもらえれば、きっと良くしてくれますよ」
「『黄金の麦穂亭』ですね。ありがとうございます、行ってみます」
「ええ。私も商会の用事がありますので、今回はここで。また市場のどこかでお会いしましょう! 良い旅を、フトシさん!」
キースは人当たりの良い笑みを浮かべて手を振ると、迎えにきていた商会の若者たちと共に去っていった。本当に最初から最後まで人の良い商人だった。
教えられた通りに大通りを進み、中央広場の喧騒を抜けて一本路地裏へ入る。
しばらく歩くと、麦の穂が描かれたお洒落な木製の看板が見つかった。ここが『黄金の麦穂亭』だ。
扉を開けて中に入ると、一階の広い食堂スペースからは、すでに香ばしいにんにくとハーブの香りが漂っていた。それだけで名宿だと確信できる。
奥の受付カウンターへ向かうと、恰幅の良い、エプロン姿の面倒見の良そうな女将さんが出迎えてくれた。
「いらっしゃい。一晩かい? それとも何日か泊まっていくかい?」
「一晩お願いしたいんですが……実は、商人のキースさんから、ここが良い宿だと紹介されて来ました」
「おや、キースの紹介だって?」
女将さんは一瞬目を丸くしたが、すぐに豪快な笑顔を浮かべた。
「あいつの紹介なら大歓迎だよ! いつも大口の宿泊客を連れてきてくれるからねぇ。よし、あいつの顔に免じて、一泊二食付きで通常五〇〇〇ゴールドのところを、半額の二五〇〇ゴールドでいいよ!」
「半額、ですか? ありがとうございます、助かります」
一泊二五〇〇ゴールドほどで、夕食と朝食までついてくるのは破格すぎる。
俺はアイテムボックスから二五〇〇ゴールド分の金貨を取り出して支払いを済ませ、部屋の鍵を受け取った。
案内された二階の部屋は、こじんまりとしてはいるが、掃除が行き届いていて非常に快適だった。
ずっしりと重いゴールドの入った革袋を机の上に置き、ベッドに腰を下ろす。
ロドリス王国のあの冷酷な城から追放されてから、まだ一日も経っていないというのに、ずっしりとした充実感がある。
光条カイトや坂本トウマ、東堂リンに清水カオリの四人は、今頃あの胡散臭い王宮で、お仕着せの豪華な晩餐でも食べているのだろうか。
彼らの選択を否定するつもりはないが、俺は自分の足で歩き、自分の意志で美味いものを探すこの生活が、たまらなく気に入っていた。
「よし……腹も減ったし、一階へ行くか」
旅の荷物を整理し、俺は一階の食堂へと下りた。
夕食時の食堂は、地元の住人や旅の冒険者たちで程よく賑わっていた。
空いている壁際の席に腰を下ろすと、先ほどの女将さんが注文を取りにやってきた。
「はいよ、お兄さん。今夜の日替わりは、うちの名物の『ロックバードの香草焼き』だけど、それでいいかい?」
「はい、それを楽しみに来ました。それと、お米を使った主食があれば、それも付けてください」
「わかってるじゃないかい! ロックバードには、この街の特産である麦飯が一番合うんだよ。すぐ持ってくるから、待ってな!」
女将さんが厨房へと引っ込んでいく。
待っている間、俺は周囲の様子を観察しながら、先ほどの誓いを実行することにした。
運ばれていく他の客の料理や、厨房の入り口を意識し、ユニークスキル『冒険する者』の【鑑定】を発動させる。
【エール(黄金の麦穂亭特製)】
詳細:大麦を発酵させて作られた一般的な酒。炭酸は弱めだが、深いコクと爽やかな苦味があり、肉料理との相性が非常に良い。
頭の中に浮かび上がる文字を確認し、俺は小さく頷いた。これならどんな未知の食材に出会っても、その正体を正確に把握できる。
やはり神話クラスのスキルを内包しているだけあって、鑑定の精度も極めて高いようだ。
そうしてスキルの感触を確かめているうちに、厨房の奥から凄まじく食欲をそそる音が響いてきた。
ジュージューという、熱い鉄板の上で肉の脂が激しく弾ける音。
それと同時に、にんにくのガツンとした風味と、爽やかでありながらどこかスパイシーな数種類のハーブの香りが、爆弾のように食堂全体に広がった。
「はいよ、お待たせ! うちの名物『ロックバードの香草焼き』だよ!」
女将さんが運んできたのは、黒い素焼きの皿に乗った、暴力的なまでに美味そうな肉の塊だった。
その瞬間、俺はすかさず【鑑定】を走らせた。
【ロックバードの香草焼き】
詳細:非常に発達した脚力を持つ大型鳥型魔獣のモモ肉。締まった赤身と分厚い皮が特徴。ローズマリーに似た『トルの葉』と、黒胡椒に酷似した『ピリ石の粉』、そしておろしニンニクと岩塩で半日漬け込み、強火で一気に焼き上げられている。
「これは……凄いな」
ゴリ、と喉が鳴る。
肉の表面は、これでもかというほど綺麗な黄金色に焼き上げられており、分厚い皮が熱でパリパリに縮んでいる。
その隙間から、透明な美しい肉汁が絶え間なく溢れ出し、皿の底で小さな池を作っていた。
肉の上には、細かく刻まれた緑色のハーブがたっぷりと塗され、焦げたにんにくの粒が最高のアクセントとして散りばめられている。
添えられているのは、大粒の麦をふっくらと炊き上げた、温かい麦飯だ。
「いただきます」
俺はナイフとフォークを握り締め、ロックバードの肉に刃を入れた。
ザクッ、という心地よい感触と共に、パリパリの皮が弾ける。
自動強化された肉体の力加減に気をつけながら優しく切り進めると、断面から信じられないほどの量の肉汁が噴き出してきた。
大きめの一切れをフォークで突き刺し、一気に口の中へと放り込む。
「――ッ!!」
口に入れた瞬間、あまりの美味さに脳が震えた。
まず襲ってきたのは、皮の圧倒的な香ばしさと、赤身肉の規格外な旨味だ。
地球の鶏肉とは比較にならないほど筋肉が引き締まっており、噛むたびにギチギチと力強い弾力を返す。
しかし決して硬すぎることはなく、噛めば噛んでいくほど、中に閉じ込められていた濃厚な旨味のエキスが、洪水のように溢れ出してくるのだ。
そこへ、完璧に計算された味付けが追い打ちをかける。
ガツンと効いたにんにくのパンチと、岩塩の鋭い塩気。そして、『ピリ石の粉』のピリッとした強烈な辛味が、肉の濃厚な脂っぽさを完璧に引き締め、次の一口を誘う。
何より素晴らしいのは、『トルの葉』のハーブだ。
清涼感のある爽やかな香りが、鼻から抜ける瞬間に肉の野性味あふれる臭みを完全に消し去り、旨味だけを極限まで引き立てている。
「美味すぎる……!」
俺はすぐさま、大きなスプーンで麦飯をすくい、口に放り込んだ。
ふっくらと炊かれた麦飯の素朴な甘みとプチプチとした食感が、肉の濃厚なタレと肉汁を完璧に受け止める。
肉、麦飯、肉、麦飯という至高のループが止まらない。皿の底に溜まった肉汁を麦飯に絡めて食べると、それだけで一品の完成された料理のようだった。
無我夢中で食べ進め、気づけばあれほど大きかった肉の塊も、山盛りだった麦飯も、綺麗に胃袋へと消え去っていた。
皿の上の肉汁一滴すら残っていない。
「ふぅ……」
お腹の底から、じんわりと温かい幸福感が広がっていく。
これほどの技術と食材が、この交易都市マルタには転がっているのだ。
宿屋の料理でこれなら、明日の市場には一体どれほどの未知の美味が眠っているのだろうか。
【探求者】としての本能が、早くも歓喜に震えていた。
「あら、綺麗に食べてくれたねぇ! 料理人冥利に尽きるよ」
空になった皿を下げにきた女将さんが、嬉しそうに目を細めた。
「最高に美味しかったです。ごちそうさまでした」
俺は、心からの満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
王宮を追い出され、ハズレ扱いされた男のグルメ旅。だが、俺は今、世界中の誰よりも贅沢で、最高の夜を過ごしていると確信していた。




