第38話 獣人市場の朝と、殺到するプルドポークサンド
獣人帝国ガルディアの朝は、驚くほど早く、そして騒がしい。
太陽が顔を出すか出さないかの時間帯から、市場にはむせ返るような熱気と、売り手と買い手の豪快な怒号が飛び交っている。
俺は市場の入り口付近、昨日協業の約束を取り付けた熊の獣人のパン屋のすぐ隣に陣取り、スッと右手を前にかざした。
「【収納解除】」
空間がわずかに歪み、魔導コンロや作業台が完璧に配置された『特注の屋台』が音もなく展開される。
頭の上の定位置にはフォーチュンラビットのシルクが耳をピンと立てて座り、足元では黒豆柴の姿をした神獣・メイがパタパタと尻尾を振っていた。
「よし、いよいよ獣人帝国での初営業だ。」
俺は屋台のカウンターに、今日のために用意した食材を並べていく。
昨日、オークジェネラルやオークの塊肉に、南方大陸産の赤い岩塩や果実シロップ、そして数種類の強烈なスパイスをブレンドした特製スパイスラブを徹底的に揉み込んだ。
それを一晩寝かせ、魔導パン窯の極低温で数時間かけてじっくりと火を通し、フォークでホロホロに崩して『プルドポーク』へと仕上げたのだ。
この仕込みを、俺は時間を止めるアイテムボックスの特性を活かし、毎日毎日、凄まじい量の巨大肉を使ってストックし続けている。
崩した肉には、トマトと魚醤、スパイスの効いた特製濃厚ソースがたっぷりと絡められ、食欲を暴力的に刺激する香りを放っていた。
隣に置いた大鍋には、極細の千切りにしたガルディア特有の野菜『アイアンキャベジ』が山のように積まれている。
準備が整うと同時に、市場の通りを大勢の冒険者や労働者たちが行き交い始めた。
彼らは一日の過酷な労働に備え、手っ取り早く腹を満たせる朝飯を求めている。
「ん? なんだこのいい匂いは……って、おい!」
一人の虎の獣人の冒険者が、俺の屋台の前で足を止めた。
彼は目を丸くして、俺の顔と屋台を交互に指差した。
「お前さん、一昨日ギルドで『血塗られた牙』の連中を一撃で沈めたっていう、あの人間の実力者じゃないか! なんでこんなところで屋台なんかやってるんだ?」
その声を聞きつけ、周囲を歩いていた他の冒険者たちも「あいつが例の人間か」「Eランクなのにオークの集落を更地にしたっていう……」と囁き合いながら集まってきた。
「おはようございます。俺の本来の目的は、こうして色々な国で未知の食材を探求し、料理を振る舞うことなんです。」
俺が愛用の帽子を取り、丁寧に一礼して答えると、虎の獣人は豪快に笑った。
「がははっ! 強いだけじゃなく、料理もできるってのか! 面白い、その強者が作った飯、試しに一つ買わせてもらおうじゃねえか。」
「ありがとうございます。では、システムをご説明しますね。」
俺はカウンターの上の、湯気を立てるプルドポークの鍋を指し示した。
「このスパイスで煮込んだオークのホロホロ肉と、こちらのアイアンキャベジの千切りのセットで、五百ゴールドになります。単品でももちろん美味しいですが……。」
俺はそこで言葉を区切り、隣の屋台をスッと指差した。
「あちらの熊の店主さんの屋台で、一つ百ゴールドの『黒パン』を買ってきてくだされば、その場でパンを半分に切り、肉と野菜をたっぷりと挟んで提供いたしますよ。」
すると、タイミングを見計らっていたかのように、隣の屋台から熊の店主の野太い声が響き渡った。
「おうおう! 人間の兄ちゃんの極上肉を挟むなら、俺の焼いた黒パンが一番だぜ! 肉の汁を吸うように、今日は特別に少し水分を飛ばして焼き上げてあるからな!」
熊の店主が山積みの黒パンをバンバンと叩いてアピールする。
「なんだ、パンは別売りなのか。まあいい、腹も減ってるしな。おい親父、黒パンを一つくれ!」
虎の冒険者は百ゴールドを払って顔の大きさほどもある黒パンを受け取り、俺の屋台へと戻ってきた。
俺は彼から黒パンを受け取ると、素早い手つきで出刃包丁を入れ、横からパカッと半分に開いた。
そこに、爽やかな苦味とシャキシャキ感を持つアイアンキャベジの千切りを分厚く敷き詰める。
そして、その上に熱々のプルドポークを、トングでこれでもかと山盛りに乗せた。
――ジュワッ……。
オーク肉の極上の脂と、特製濃厚ソースの黒褐色の液体が、乾燥した黒パンの断面へとじんわりと染み込んでいく。
スパイスの強烈な香りが周囲に弾け飛び、虎の冒険者の喉がゴクリと大きく鳴るのが聞こえた。
「はい、お待たせいたしました。特製プルドポークの黒パンサンドです。熱いので気をつけてくださいね。」
紙に包んで手渡すと、虎の冒険者は両手でその巨大なサンドイッチを掴み、大きく口を開けて豪快にかぶりついた。
「――ッ!!?」
一口噛み締めた瞬間、虎の獣人の全身がビクンと跳ねた。
彼の鋭い瞳孔が限界まで見開き、信じられないものを見るように手元のパンを見つめている。
「な、なんだこりゃあ……!? 肉が、噛まなくても口の中でホロホロと溶けていきやがる! オークの脂の甘みと、今まで嗅いだこともない強烈なスパイスの香りが鼻を突き抜けて……!」
「低温で数時間かけて火を通し、特製のスパイスとソースを絡めてありますから。」
俺が静かに説明する間も、虎の冒険者は無我夢中で二口目、三口目と食らいついていく。
「それに、このパサパサで酸っぱいはずの黒パンが! 肉の脂とソースの旨味を全部吸い込んで、信じられないくらいしっとりした極上のパンに化けやがった! キャベツのシャキシャキ感のおかげで、油っぽさが全然残らねえ!」
「美味えっ! 美味すぎるぞ人間!! おい、ちょっと待ってろ!」
虎の冒険者はサンドイッチを頬張ったまま猛ダッシュで隣の屋台へ走り、熊の店主のカウンターに銀貨を叩きつけた。
「親父! 黒パンをあと三個追加だ! 早くしろ!」
「がははっ! だから言っただろうが! ほらよ!」
追加の黒パンを三つ抱え、虎の冒険者は再び俺の屋台へと戻ってきて、五百ゴールド硬貨を三枚カウンターに置いた。
「兄ちゃん、全部にあの肉と野菜を限界まで挟んでくれ! これならいくらでも腹に入るぜ!」
彼の常軌を逸した食べっぷりと、屋台周辺に漂う暴力的なまでに食欲をそそるスパイスと肉の香り。
それは、周囲で様子を窺っていた他の獣人たちを動かすのに、十分すぎる宣伝効果だった。
「おい、そんなに美味いのか! 俺もパンを買ってくる!」
「俺はパン五個だ! 兄ちゃん、こっちにも肉をたっぷり頼むぞ!」
「わたしも! あんなホロホロのオーク肉、見たことないわ!」
怒号のような歓声と共に、冒険者や労働者たちが一斉に熊のパン屋へと殺到し、黒パンを買っては俺の屋台へと並び始めた。
あっという間に、市場の通りを塞ぐほどの長蛇の列が形成されていく。
「はい、順番に伺います! パンをお預かりしますね!」
俺は【探求者】の身体能力と、料理人としての反射神経をフル稼働させ、凄まじいスピードで黒パンを切り、アイアンキャベジを敷き、熱々のプルドポークを挟み込んでいった。
「ワフッ!」
「キュイッ!」
足元のメイと頭の上のシルクも、列をなす客たちに愛嬌を振りまき、屋台の看板娘としての役割を完璧に果たしてくれている。
「すげえ……本当にパンが溶けるように美味え!」
「このスパイス、体がカッカしてきて力が湧いてくるぞ!」
広場のあちこちで、巨大なサンドイッチにかぶりつき、満面の笑みを浮かべる獣人たちの姿があった。
「腹がいっぱいになればいい」と、大雑把な塩焼きばかりを食べていた彼らが、スパイスの奥深さと、肉を柔らかく煮込むという調理技法の虜になっている。
俺が狙った通り、彼らの日常にある黒パンの存在を否定せず、それに寄り添う形で提供したことが、この爆発的な反響を生んだのだ。
熊の店主も、飛ぶように売れていく黒パンを補充しながら「人間の兄ちゃん、あんた最高だぜ!」と汗だくで笑っている。
飛ぶように肉が減っていき、アイテムボックスから追加の寸胴鍋を次々と取り出しては対応を続けた。
――そして、営業開始からわずか二時間後。
「申し訳ありません! 用意していたプルドポーク、全て完売となりました!」
俺がカウンターの上の空になった大鍋を見せて大声で告げると、列の後ろに並んでいた数十人の獣人たちから、「マジかよォ!」「俺のパンはどうなるんだ!」と悲痛な叫び声が上がった。
今日のために、アイテムボックスのストックから数十キログラムはあろうかという大量の肉を取り出して仕込んでいたのだが、まさかこれほどのスピードで売り切れてしまうとは。
獣人たちの食欲と口コミの広がるスピードを、俺は少し甘く見ていたようだ。
「皆さん、本当にすみません。また明日、今日よりもたくさんの肉を仕込んで、同じ場所でお待ちしていますから!」
俺が深く頭を下げると、獣人たちは残念そうにしながらも、「絶対だぞ!」「明日は夜明け前から並んでやる!」と笑いながら手を振って去っていった。
嵐のような営業が終わり、静けさを取り戻しつつある市場の通り。
俺は心地よい疲労感と共に小さく息を吐き、満杯になった金庫の重みを感じていた。
「兄ちゃん、お疲れさん! まさか俺の黒パンが、午前中で全部売り切れる日が来るとは思わなかったぜ。」
隣の屋台の片付けを終えた熊の店主が、嬉しそうに冷えた水の入った水筒を差し入れてくれた。
「店主さんのパンが、あの濃厚な肉の汁をしっかりと受け止めてくれたおかげですよ。」
俺は水筒を受け取り、冷たい水で乾いた喉を潤した。
異世界の荒々しい市場で、地元の商人たちと協力し、彼らの食文化に新しい風を吹き込むことができた。
その事実が、俺の料理人としての探求心をこの上なく満たしてくれている。
俺は足元で満足そうに丸くなるメイと、頭の上で耳を揺らすシルクの温もりを感じながら、熱気冷めやらぬ市場の風景を穏やかな目で見つめていた。




