第24話 潮風の港町と、巨大海老の豪快バター焼き
ガタゴトと規則正しく揺れていた乗り合い馬車が、なだらかな丘の頂上を越えた瞬間だった。
それまで視界を遮っていた緑の平原と深い森が不意に途切れ、眼下にどこまでも青く輝く広大な海が広がった。
太陽の光を反射してキラキラと煌めく水面は、見渡す限りの地平線まで続いている。
「おお……海だ」
俺が思わず感嘆の声を漏らすと、開け放たれた窓から一陣の風が吹き込んできた。
マルタの重厚な石造りの街並みや、昨日まで滞在していた酪農の村の牧草の香りとは全く違う、磯の香りとほんのりとした塩気を帯びた独特の潮風だ。
俺の頭の上を定位置としている相棒、フォーチュンラビットのシルクも、初めて嗅ぐ海の匂いに鼻をヒクヒクさせ、長い耳をパタパタと揺らして興奮している。
「がはははっ! どうだフトシ、見事な景色だろう! あれが王国内でも有数の漁獲量を誇る港町、『ポルト・ラーラ』だ!」
隣の席で陽気に笑うのは、この馬車旅で道中を共にし、すっかり意気投合したBランク冒険者のギルズさんだ。
彼は腕組みをしながら、眼下の港町を嬉しそうに見下ろしている。
丘を下り、ポルト・ラーラの入り口に設けられた検問所へと馬車は進む。
荷物の検査や身分証の提示が求められたが、俺は冒険者ギルドで発行されたEランクの『魔石カード』と商人ギルドの『銀色の会員証』を提示するだけで、あっさりと通過することができた。
ギルズさんに至っては顔パスに近い扱いで、衛兵と気さくに挨拶を交わしている。
門をくぐると、そこはマルタとはまた異なる活気に満ちた街並みが広がっていた。
木造と石造りが混ざり合った建物がひしめき合い、大通りには荷車を引く商人や、巨大な魚を担いだ屈強な漁師たちの姿が行き交っている。
空にはカモメによく似た白い鳥が舞い、独特の鳴き声を響かせていた。
馬車の終点で降り立ち、俺はギルズさんに向かって深く頭を下げた。
「ギルズさん、道中は本当にありがとうございました。色々な話を聞かせていただいて、最高の馬車旅になりました」
「おうよ! 俺も美味い飯の話ができて楽しかったぜ。俺は早速、海釣りのために船主と交渉に行ってくる。フトシ、お前さんもこの街の美味いもんを片っ端から堪能しな!」
「はい。ギルズさんも、大物が釣れるといいですね。またどこかでお会いしましょう」
豪快に笑って手を振るギルズさんの背中を見送り、俺は彼が馬車の中で「あそこの飯は港町でも指折りだぜ」と熱弁していた宿を目指して歩き出した。
海沿いの大通りから一本入った路地裏。そこに、潮風に晒されていい具合に年季の入った木造の宿屋『潮騒の亭』はあった。
重い木製の扉を押し開けると、中からはすでに夕食の仕込みの匂い――香ばしく焼けた魚介類と、微かに焦げた魚醤の食欲をそそる匂いが漂ってきている。
「いらっしゃい。宿泊かい?」
カウンターの奥から顔を出したのは、日に焼けた肌と分厚い胸板を持つ、恰幅の良い宿の主人だった。
「はい。一人と、この従魔一匹です。フトシと申します。こちらで食事もいただけると聞いて来たんですが」
俺が帽子を取って丁寧に挨拶をすると、主人は俺の頭の上にちょこんと座るシルクを見て、少し驚いたように目を細めた。
「おや、珍しい真っ白なスノーラビットだね。おとなしいなら大歓迎だ。夕飯はちょうどこれからだぞ。長旅で腹が減ってるだろう、すぐに用意してやるから、食堂の空いてる席に座ってな」
シルクの『幸せを運ぶ兎』による認識阻害は、この街でも完璧に機能しているようだ。
俺は指定された食堂の隅のテーブルに腰を下ろし、期待に胸を膨らませて待った。
厨房からは、包丁がまな板を叩くリズミカルな音と、油が激しく跳ねる豪快な音が絶え間なく聞こえてくる。
「お待ちどう。うちの看板メニュー、ギルフィッシュの刺身と、大海老の直火焼きだ!」
主人がドンとテーブルに置いた料理を見て、俺は思わず息を呑んだ。
まずは大皿に美しく並べられた『ギルフィッシュ』の刺身。
ほんのりと桜色を帯びた透き通るような白身は、表面がたっぷりの脂でテラテラと輝いている。横には、真っ白な粗塩と、鮮やかな黄色の柑橘が添えられていた。
「ギルズさんが言っていた通りだ……」
俺は柑橘をキュッと軽く絞り、粗塩をほんの少しだけ刺身につけて口に運んだ。
噛み締めた瞬間、コリッとした新鮮な弾力と共に、魚特有の生臭さが一切ない上品な甘みと、驚くほど濃厚な脂が口の中でとろけ出した。
そこに柑橘の爽やかな酸味と塩のミネラル感が加わることで、脂のしつこさが完全に洗い流され、噛むほどに旨味が無限に溢れてくる。
醤油の存在しないこの世界で、魚のポテンシャルを極限まで引き出す究極のカルパッチョ。その洗練された味わいに、俺は静かに感動を覚えていた。
だが、驚くのはまだ早かった。
「異世界の海は……スケールが違うな」
メインディッシュとして提供された皿の上には、現代日本の最高級伊勢海老を優に超える、丸太のように太く巨大なエビが鎮座していたのだ。
それが豪快に縦半分に割られ、分厚い殻ごと直火でこんがりと焼かれている。味付けは、パラリと振られた塩胡椒と、たっぷりのバターのみだという。
熱々に熱された殻の隙間から、溶けた黄金色のバターがジュワジュワと音を立てて煮え立ち、海老の殻が焼ける圧倒的な香ばしさと、暴力的なまでに食欲を刺激する匂いがもうもうと立ち上っている。
俺はナイフとフォークを手に取り、真っ白で分厚い身を殻から外そうとした。
――ぶりんっ!
ナイフ越しにもはっきりと伝わってくる、凄まじい筋肉の抵抗感。巨大な身を大きく切り分け、立ち上る湯気ごと口いっぱいに頬張った。
「――ッ!!」
凄まじい弾力だ。
歯を押し返してくるようなブリブリの食感の奥から、海老特有の圧倒的な甘みが爆発するように溢れ出した。
そこに、濃厚なバターの芳醇なコクと、ピリッとした胡椒の刺激が完璧に絡みつき、素材の旨味を何倍、何十倍にも跳ね上げている。
さらに俺は、頭の部分にたっぷりと詰まった濃厚な海老味噌に、切り分けた身をくぐらせて口に運んだ。
口の中に広がったのは、海の恵みが極限まで凝縮された最高のエッセンスだ。複雑で奥深いミソの旨味と熱々のバターが見事に乳化し、最強の黄金ソースと化している。
凝ったスパイスも、複雑な調理法もいらない。シンプル・イズ・ベスト。小細工など一切不要の、素材そのものが持つ暴力的なまでの力強さと完成度に、俺はただただ圧倒されていた。
「キュイッ! キュイイィィッ!」
隣の席を見ると、俺が取り分けた海老の身を、シルクが小さな口で一心不乱に頬張っていた。
あまりの美味しさに長い耳をピンと立て、幸せそうに身をよじらせている。その愛らしい姿に、俺は自然と頬を緩ませた。
「ごちそうさまでした。信じられないくらい美味しかったです。素材の味が凄まじいですね」
食後、空になった皿を下げに来た主人に心からの賛辞を送ると、彼は白い歯を見せて誇らしげに笑った。
「おう! ポルト・ラーラの海産物は世界一だからな。明日になれば、市場にはもっと色んな魚介が並ぶぜ」
俺は満ち足りた腹をさすりながら、静かに決意を固めていた。
この港町には、俺の想像を絶するポテンシャルを秘めた未知の食材が、まだまだ山のように眠っているはずだ。
明日は朝一番で市場に向かい、この街の海産物を徹底的に見て回ろう。
そして、アイテムボックスの中で出番を待っている俺の特注屋台と、選び抜いた相棒の調理器具たちを使って、この海の恵みを俺なりの最高の一皿へと昇華させるのだ。
窓の外からは、夜の港に打ち寄せる静かな波の音が聞こえてくる。
新しい街で出会う未知の味覚と、これから始まる料理人としての果てしない探求。
胸の奥から静かに湧き上がる、素朴で温かい期待を抱きながら、俺はポルト・ラーラの夜風を心地よく肌に感じていた。




