第17話 街の大衆食堂と、トマトと魚醤の絶品煮込みソース
ギルド裏の解体所に、夕暮れの赤い光が差し込んでいる。
巨大な解体台の上には、部位ごとに完璧に切り分けられた魔物の肉と、一片の肉も残さず綺麗に磨かれたような白い骨が並んでいた。
俺は、手の中で鈍く光る『ミスリル打ち込み特注解体ナイフ』の血糊を布で丁寧に拭き取り、鞘へと収めた。
「……見事だ。完璧な骨外しに、一切の無駄がない筋引き。ナイフの入れ方も、魔物の構造を完全に理解した動きになってる」
腕を組んで一部始終を見守っていたガルドさんが、深く息を吐き出して俺の肩をバンバンと力強く叩いた。
「もう俺から教えることは何もないぜ、フトシ。お前さんは今日で、解体所での修行は卒業だ。……まあ、お前の美味い飯が食えなくなるのは寂しいがな。もし冒険者稼業に行き詰まったら、いつでもうちの解体所に働きに来い。副責任者のポストを空けて待っててやるからよ」
「ガルドさん……。色々と丁寧に教えていただき、本当にありがとうございました。ここで学んだ魔物の身体構造の知識は、料理を作る上でも最高の財産になります」
俺が深く頭を下げると、頭の上をすっかり指定席にしている真っ白な相棒、フォーチュンラビットのシルクも、一緒に「キュイッ」と誇らしげに鳴いて頭を下げた。
こうして、俺の異世界での解体修行は、最高の形で一区切りを迎えたのだった。
―――
翌朝、俺は冒険者ギルド・マルタ支部の掲示板の前に立っていた。
Eランクに昇格したことで、隣町への護衛や少し遠方の森への討伐など、受けられる依頼の幅は大きく広がった。それに伴い、現在の手持ち資金である約十一万ゴールドという金額が、少し心許なく感じ始めていた。
一ゴールド一円の感覚で言えば十万円強。当面の生活には困らないが、俺の目標は『さすらいの料理人』として自分だけの屋台を持つことだ。
頑丈な屋台をオーダーメイドで造り、馬や魔獣を手配し、各地の珍しい食材を仕入れるとなれば、今の資金では全く足りないだろう。
「ん……? なんだ、これ」
討伐や採取の依頼書が並ぶ中、端の方に少し毛色の違う羊皮紙が貼られているのに気づいた。
『大衆食堂・海鳥の亭:昼ピーク時の厨房補助求む。体力に自信のある者、包丁が握れる者歓迎』
「ああ、フトシさん。それは『雑用依頼』ですね」
背後から声をかけてきたのは、受付嬢のセリアさんだった。
「雑用依頼、ですか?」
「はい。街の商店や職人さんが、人手が足りない時に数時間だけギルドを通して助っ人を募集するんです。単発のアルバイトのようなものですね。フトシさんなら料理もお得意ですし、ぴったりの依頼かもしれませんよ」
現代の日本でいう、スキマ時間のアルバイトのようなシステムが異世界にも存在することに驚きつつ、俺はその依頼書を手に取った。
自分の料理を作るのも好きだが、異世界のプロの厨房がどのように回っているのか、非常に興味がある。それに、街で長く愛されている大衆食堂の味を知ることは、料理人として大きなプラスになるはずだ。
「セリアさん、この依頼、受けてみたいと思います」
「かしこまりました! では、手続きをしますね」
―――
昼前、俺はマルタの商業区にある『大衆食堂・海鳥の亭』の勝手口の扉を叩いた。
「おう、ギルドからの助っ人かい! って、随分とガタイのいい兄ちゃんだな。包丁は握れるのかい?」
中から出てきたのは、白いエプロンを身につけた恰幅の良い親方だった。
「はい、料理の経験はあります。フトシと申します。本日はよろしくお願いします」
俺が帽子を脱いで丁寧に挨拶をすると、親方は「おう、礼儀正しいな」と破顔し、俺を厨房へと招き入れてくれた。シルクは衛生面を考慮して外で待たせようとしたが、親方が「うちの裏庭で野菜でも食ってな」と笑って許してくれたので、勝手口のすぐ外の特等席で待機している。
厨房に入った俺は、内部を見渡して密かに胸を撫で下ろした。
魔石を動力源とした魔導コンロや、水魔法の魔導具が組み込まれた蛇口など、ファンタジー特有の設備はあるものの、床には塵一つなく、使い込まれた木製のまな板も熱湯でしっかりと消毒されている。
俺のいた日本の飲食店と何ら遜色のない、素晴らしい衛生観念だった。
「よし、フトシ。まずはこの山盛りの玉ねぎを、全部微塵切りにしてくれ。昼のピークに向けて、煮込みソースのベースを作る」
「承知しました」
俺は手渡された包丁の重さと刃の角度を軽く確かめると、すぐさま作業に取り掛かった。
皮を剥き、根元を残したまま縦横に細かい切れ目を入れ、リズミカルに刃を落としていく。タンッ、タンッ、タンッ、という等間隔の心地よい音が厨房に響き渡る。
【探求者】のスキルによるミリ単位の身体制御と、持ち前の要領の良さが組み合わさり、玉ねぎは瞬く間に、一辺の狂いもない美しい極小の微塵切りへと姿を変えていった。
「……お、おいおい。冗談だろ?」
隣で鍋をかき混ぜていた親方が、目を丸くして俺の手元を凝視している。
「このスピードと均一さ……。お前さん、ただの冒険者じゃねえな? どこの高級店で修行してたんだ」
「いえ、ただの料理好きですよ。次はどうしますか?」
「お、おう……じゃあ、そっちの肉の筋切りと下処理を頼む」
親方が用意していたのは、この食堂の名物である『魔豚のトマトと魚醤煮込み』に使う肉だった。
俺は肉の表面に浮き出た余分な水分とドリップを清潔な布で徹底的に拭き取り、赤身と脂身の境界にある筋に的確に刃を入れていく。
水分を拭き取ることで生臭さを消し、筋を切ることで焼いた時の反り返りを防ぐ、料理の基本にして極意だ。
俺の流れるような下処理を見て、親方はもう感心するのを通り越して、どこか嬉しそうな顔になっていた。
「よし、焼いていくぞ」
熱した厚手の鉄フライパンに油を引き、下処理を終えた魔豚の肉を並べる。
強火で一気に表面を焼き固める。
ジューッという激しい音と共に、肉の表面にきつね色の美しい焦げ目――メイラード反応による圧倒的な香ばしさが生まれる。
両面がカリッと焼けたところで、親方は肉を一度バットに取り出した。
そして、肉の旨味と脂が残ったフライパンに、マルタ特産の酸味の強いトマトを潰したものと、大量の玉ねぎの微塵切りを放り込む。
「ここがうちの味の決め手だ。ただ煮込むんじゃねえぞ」
親方は木べらを使い、フライパンの底にこびりついた肉の旨味の結晶を、トマトの水分で溶かし出すように丁寧にこそげ落としていく。
フランス料理でいう『デグラセ』の技法だ。
そこへ、先日俺も市場で手に入れたあの独特な『魚醤』をひと回し加える。
強火で炒めることで、トマトの尖った酸味がみるみるうちに飛んでいき、深く濃厚な甘みへと変化していく。
そこに魚醤の発酵した旨味が加わり、加熱によって生臭さが完全に消え去り、暴力的なまでに食欲をそそる香ばしいソースへと昇華した。
最後に、先ほど焼いた肉をソースの中に戻し入れ、弱火でコトコトと煮込んでいくのだ。
「なるほど……トマトの酸味を強火で飛ばしてから煮込むんですね。それに魚醤のコクの合わせ方、すごく勉強になります」
「へへっ、どうだ。これが海鳥の亭、自慢の味だ」
その後も、怒涛のように押し寄せる昼のピークタイムを、俺と親方は完璧な連携で乗り切った。
俺が的確に下準備と火入れの補助を行うことで、料理の提供スピードは普段の倍以上になっていたらしい。
―――
ピークが過ぎ、嵐の去ったような静寂が戻った厨房の隅で、俺は親方から労いのまかないをご馳走になっていた。
出されたのはもちろん、一緒に仕込んだ『魔豚のトマトと魚醤煮込み』だ。
フォークで肉を刺し、口に運ぶ。
「……美味い」
思わず声が漏れた。
表面を香ばしく焼き固められた魔豚の肉は、噛み締めると驚くほど柔らかく、内側に閉じ込められていた肉汁がジュワリと溢れ出す。
そこに、酸味を完全に飛ばして甘みと旨味の塊となったトマトソースが絡みつく。
魚醤の深いコクが、魔物肉特有の力強い野性味を見事にまとめ上げ、後引く美味しさを演出していた。
添えられた焼きたてのパンで、皿に残ったソースを最後の一滴まで拭い取って食べてしまうほどの絶品だった。
裏庭へと続く勝手口の開いた扉のそばでは、シルクが親方にもらった新鮮なキャベツの葉を、目を細めながらシャクシャクと嬉しそうに頬張っている。
「どうだ、美味いか?」
「はい、最高です。トマトの酸味の飛ばし方、本当に勉強になりました」
「ハハハ! あの下処理の腕前を持つお前さんにそう言ってもらえると、作った甲斐があるってもんだ」
親方は俺に、依頼の報酬である銀貨を数枚手渡すと、少し真剣な顔つきになった。
「なあ、フトシ。お前さん、明日からうちの専属料理人として働かないか? 給料は今の倍……いや、三倍は弾むぞ。お前さんとなら、この店をもっと大きくできる」
冗談交じりの口調の中に、料理人としての確かな本気が見えた。
その評価はとても光栄だったが、俺は真っ直ぐに親方の目を見て、静かに首を横に振った。
「ありがとうございます。その言葉は本当に嬉しいです。ですが、俺には『自分の屋台を持って旅をする』という夢があるんです。色々な街を巡って、未知の食材に出会いたいんです」
俺の返答を聞いた親方は、一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに納得したように豪快に笑った。
「そうか! お前さんほどの腕があれば、きっと最高の屋台ができるさ。いつかお前の屋台がマルタに来た時は、絶対に食いに行くからな。それまで腕を磨いておけよ!」
「はい、約束します。今日は本当にありがとうございました」
大衆食堂を後にした俺の頭の上で、キャベツでお腹を満たしたシルクが「キュイッ」と満足そうに鳴いた。
夕暮れ時のマルタの街は、家路につく人々の活気と、あちこちから漂う夕食の良い匂いに満ちていた。
今日、異世界の厨房で教わったトマトの酸味の飛ばし方や魚醤の使い方は、俺の料理の引き出しをさらに広げてくれた。
街の料理人との交流は、解体所での修行とはまた違う、確かな経験値だ。
夕焼けに染まる石畳を踏み締めながら、俺は大きく息を吸い込んだ。
明日はどんな未知の食材に出会い、自分の手でどんな極上の一皿を作れるだろうか。
胸の奥に灯る素朴で温かい期待を抱きながら、俺とシルクは拠点である『黄金の麦穂亭』への帰路についた。




