第18話 女将の気遣いと、夢を広げる魔法のテント
異世界に召喚され、この交易都市マルタに腰を据えてからというもの、俺の毎日は目まぐるしく過ぎていった。
冒険者としての採取や討伐依頼、ガルドさんの下での解体修行、そして大衆食堂『海鳥の亭』での厨房の手伝い。
充実してはいたが、振り返ればゆっくりと羽を伸ばす時間は少なかったように思う。
だからこそ、今日は一切の予定を入れず、完全な休日と決めていた。
「おはよう、シルク」
「キュウゥ……」
宿『黄金の麦穂亭』の柔らかいベッドの上で、胸元に丸くなっていた真っ白な相棒が、長い耳をパタパタと揺らして目を覚ました。
のんびりと身支度を整え、部屋の丸テーブルに腰を下ろす。
休日の朝は、慌てずゆっくりと食事を楽しみたい。
アイテムボックスからストックしてある『オークベーコンのポトフ』を出そうとした時、部屋の扉がトントンとノックされた。
「フトシ、起きてるかい?」
聞き慣れた快活な声。
女将のマーサさんだ。
扉を開けると、湯気を立てる焼きたてのライ麦パンと、新鮮な野菜のサラダ、そして温かいお茶が乗ったお盆を持った彼女が立っていた。
「マーサさん? わざわざ部屋までどうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ。あんた、ここ最近ずっと自分の部屋でご飯を食べてるじゃないさ。ひょっとして、この可愛いシルクちゃんがいるから、食堂の他の客に気を使ってるんじゃないのかい?」
図星だった。
シルクは非常に賢くお行儀も良いが、他の客からすれば動物が食事の場にいることを良く思わない人間もいるかもしれない。
トラブルを避けるため、俺はアイテムボックスの料理を部屋でこっそりと食べるようにしていたのだ。
「すいません、気を使わせてしまって」
「謝るんじゃないよ! あんたのそういう優しいところは嫌いじゃないけどね。水臭いことしないで、これからは私に言いな。今日は特別にルームサービスってやつさ。パンは焼きたてだよ!」
「ありがとうございます。ちょうどスープを出そうとしていたところなんです。一緒にいただきます」
マーサさんの心温まる気遣いに感謝しながら、俺はアイテムボックスから『黒剛鉄の万能煮込み鍋』を取り出した。
時間が停止するアイテムボックスのおかげで、ポトフは火から下ろしたばかりの熱々状態だ。
蓋を開けると、オークベーコンの芳醇な燻製の香りと、野菜の甘い匂いが部屋いっぱいに広がった。
木製の深皿に琥珀色のスープを注ぎ、マーサさんのパンと一緒にテーブルに並べる。
スプーンでスープをすくい、口に運ぶ。
ベーコンの上質な脂と、じっくりと火を通した玉ねぎの甘みが渾然一体となり、寝起きの胃袋に優しく染み渡っていく。
厚切りのベーコンをかじれば、弾力のある肉から溢れる旨味が、マーサさんが焼いてくれたライ麦パンのほのかな酸味と絶妙に絡み合った。
シルクも自分の小皿に顔を突っ込み、ホロホロに煮崩れたじゃがいもをハフハフと幸せそうに頬張っている。
静かで穏やかな朝の空気の中、人の優しさに触れながら極上の朝食を味わう。これこそが休日の醍醐味だ。
―――
腹を満たした俺は、シルクを頭の上に乗せ、活気づくマルタの商業区を歩いていた。
今日足を運んだのは、街のメインストリートに面した一際立派な石造りの建物。王都からこの街へ向かう馬車で出会い、俺の腕力をいち早く評価してくれた商人、キースさんの商会だ。
重厚な扉を開けて中に入ると、様々な商品が整然と並ぶ広い店舗の奥から、身なりの良い初老の男性が姿を現した。
「いらっしゃいま……おや? フトシ君じゃないか!」
キースさんは俺の姿を認めると、人の良さそうな笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。
「お久しぶりです、キースさん。今日はご挨拶と、少し買い物をしたくて伺いました」
「それは嬉しいね。マルタに着いてからの君の活躍は、私の耳にも入っているよ。なんでも、ギルドの解体職人に高く評価され、すでにEランクに昇格したそうじゃないか。それに、その頭の可愛らしいスノーラビット……従魔まで手懐けるとは、大したものだ」
キースさんは目を細めてシルクを見た。
シルクは「キュッ」と短く鳴いて、愛想良く前足を振る。強力な認識阻害を持つ『フォーチュンラビット』の正体には、熟練の商人であっても全く気づいていないようだ。
「運良く良い出会いに恵まれただけですよ。今日は、商会が扱っている珍しい食材や、旅の道具を見せていただけませんか?」
「もちろんさ。さあ、奥の特別室へ案内しよう」
通された部屋には、世界中から集められたという香辛料や調味料がずらりと並んでいた。
「ここは我が商会が誇るスパイスの保管庫だ。南方大陸で採れる燃えるような辛さの赤い粉や、東方の島国で作られる大豆の発酵調味料など、何でも揃っているよ」
並べられた木箱やガラス瓶を前に、俺のグルメマニアとしての血が騒ぎ出した。
すかさず【鑑定】を駆使し、一つ一つの香りと効能を確かめていく。
「……素晴らしい品揃えですね。この柑橘系の爽やかな香りがする『レモングラス』に似た香草と、肉の臭みを消して甘みを引き出す『クローブ』に似たスパイス……それと、この真っ赤な岩塩もいただきたいです」
「ほう、君は料理もするんだったね。相変わらず見事な目利きだ。どれも一流の料理人がこぞって買い求める一級品だよ」
俺は料理の幅を広げてくれそうなスパイス類を次々と選び出し、まとめて購入した。これだけでも休日の目的の半分は達成されたようなものだ。
「キースさん、もう一つ相談があります。俺は将来、自分の屋台を持って各地を旅したいと考えているんです。そのための準備として、野外で寝泊まりできる頑丈なテントや、調理に使える野営具を探しているんですが」
俺の言葉を聞いたキースさんは、少し考えるように顎を撫でた後、ニヤリと商人らしい笑みを浮かべた。
「なるほど、屋台旅か。君らしいスケールの大きな夢だ。普通の麻布のテントでもいいが……君なら、あれを使いこなせるかもしれないな。ちょっと待っててくれ」
キースさんが部屋の奥の厳重な金庫から取り出してきたのは、長さ五十センチほどの、黒い金属製の円筒だった。
表面には複雑な魔力回路のような幾何学模様が刻まれている。
「これは王都の魔導具ギルドが最新技術で作った『魔導携帯テント』だ。筒の端にある魔石に魔力を流し込むだけで、自動で骨組みが展開し、雨風を完全に防ぐ特殊な防刃布のテントが一瞬で組み上がる。しまう時も魔力を流すだけ、いわゆるワンボタンの優れものだよ」
俺は目を見張った。現代日本のワンタッチテントを、魔法の技術でさらに進化させたような代物だ。
屋台旅において、設営と撤収の手間が省けるのは計り知れないメリットになる。
「すごい技術ですね……。でも、お高いんでしょう?」
「正直に言おう。材料費と付加魔術の代金で、市場に出せば最低でも十万ゴールドは下らない品だ。それに、魔力を流す必要があるため、魔力を持たない一般の商人には扱いきれないのが難点なんだ」
十万ゴールド。現在の手持ち資金である約十一万ゴールドのほとんどが飛んでしまう金額だ。
さすがに手が出ないと諦めかけたその時、キースさんが俺の肩をポンと叩いた。
「だが、君には馬車旅の道中、山賊まがいのゴロツキから商品を護ってもらった恩がある。その腕力と誠実さに免じて……特別に『五万ゴールド』で譲ろうじゃないか。それに、野外で使える折りたたみの頑丈なテーブルと椅子のセットも、サービスでつけておくよ」
「五、五万ゴールドで……!? 本当にいいんですか、そんなに安くしていただいて」
「構わないさ。未来の凄腕の屋台料理人への、私からの先行投資だよ。いつか君の屋台が完成したら、一番の特等席で美味いものを食べさせてくれ」
キースさんの懐の深さと心意気に、胸の奥が熱くなる。
俺は深く頭を下げ、手持ちの革袋から五万ゴールドをきっちりと支払った。
「ありがとうございます、キースさん。この恩は、絶対に最高の料理で返します」
「楽しみにしているよ、フトシ君」
―――
商会を後にした俺は、マルタの街を一望できる少し小高い丘の上の公園へと足を運んだ。
爽やかな風が吹き抜ける芝生の上で、さっそくキースさんから譲り受けた道具を試してみることにした。
サービスでつけてもらった木製の折りたたみテーブルと椅子を広げる。非常に頑丈な作りで、俺の体重を預けても軋むことはない。
テーブルの上に、今日買ったばかりのスパイスの瓶を並べ、その鮮やかな色と香りを確かめる。
柑橘の爽やかな香りと、大地の力強さを感じるスパイスの匂い。これらをどう組み合わせ、どんな異世界の食材と合わせるか。
想像するだけで、料理人としての探求心が果てしなく刺激される。
俺はアイテムボックスから、ポットに入れた温かいお茶と、昨日宿の厨房で少しだけ揚げておいた『フォレスト・フォウルの唐揚げ』の残りを取り出した。
冷めてもサクッとした衣の食感は失われておらず、魚醤とジンジャーの下味がしっかりと肉に染み込んでいる。
「美味いな……」
椅子に深く腰掛け、唐揚げをかじりながらお茶をすする。
二度揚げされたフォレスト・フォウルの唐揚げは、噛むほどにジンジャーの爽やかな辛味と肉汁が口の中に弾け、お茶の渋みと完璧な相性を見せた。
テーブルの向かいでは、シルクが器用にお茶の入った小皿を舐め、満足そうに鼻をヒクヒクさせている。
手元には、大金をはたいて手に入れた『魔導携帯テント』の黒い筒がある。
一生モノの調理器具に加え、旅の拠点となる快適な住居も手に入れた。
「なあ、シルク。いつか最高の屋台を作って、色んな街を回ろうな」
「キュイッ!」
シルクが力強く返事をするように鳴いた。
穏やかな休日の午後。丘を吹き抜ける風は優しく、眼下に広がる交易都市マルタの街並みは、どこまでも活気に満ちている。
人々の気遣いに触れ、新しいスパイスや道具と出会えた、これ以上ないほど有意義な休日。
明日はどんな依頼を受け、どんな新しい食材と出会えるだろうか。そんな素朴で胸躍る期待を抱きながら、俺は相棒と共に、ゆったりとした時間の流れを心ゆくまで堪能していた。




