第167話 白い湖へ続く道
馬車の下へ潜り込み、格納された【砂走橇輪】の支持部へ入り込んだ砂を細い刷毛で掻き出す。
昨日の砂嵐が過ぎた直後にも馬車そのものに問題がないことは確認しているが、こういう細かな場所に残った砂は別だ。
車輪の周囲や車軸、馬車の底も順に見ていく。
大きな傷や変形はない。
砂走橇輪も、砂を落として動きを確かめれば問題なく展開できそうだった。
「随分丁寧に見るんだな」
馬車の脇から声がした。
身体を起こして外へ出ると、昨日見た商人が立っている。
砂嵐の前に荷車の幌を押さえ、宿の中では西の塩湖について話を聞いた男だ。
「長く使う馬車なので、気づけるところは見ておこうと思いまして」
「悪くないな。砂は小さい隙間ほど入り込む」
男は中庭の反対側へ目を向けた。
昨日とは違い、そこには何台かの荷馬車が並び、商隊の人たちが荷を積み込んでいる。
そういえば、名前を聞いていなかった。
「昨日はありがとうございました。俺はフトシです」
「ナディムだ。礼を言うのはこっちだろ。幌の時は助かった」
ナディムさんは四十代後半くらいだろうか。
昨日も感じたが、話し方も動きも落ち着いている。
「塩を扱ってるって言ってましたよね」
「ああ。王都と西の塩湖を往復してる」
「じゃあ、あの荷馬車も?」
「俺の商隊だ」
全部で数台。
昨日運んできた塩の取引はもう済み、今度は王都から荷を持って戻るところらしい。
積まれているのは穀物や布、工具、生活用品などだった。
「塩を運んだ帰りは、空で戻るわけじゃないんですね」
「そんな勿体ないことはしない。向こうで要る物を王都から持っていく」
塩湖側から王都へ運ぶ物があれば、王都から塩湖側へ必要な物もある。
考えてみれば当然だが、実際に荷を積み替えているところを見ると分かりやすい。
俺は馬車の下から出した道具を片付ける。
昨日から頭に残っていたことを、もう少し聞いてみることにした。
「西の塩湖へ行くなら、ここから同じ交易路を進めばいいんですか?」
「ああ。ただし、今日すぐ出るのはやめておけ」
「砂嵐の影響ですか?」
ナディムさんが頷く。
「大きいのが通った後は、道見が戻るまで動かない」
聞き慣れない言葉だ。
「道見?」
「先に軽装で走って、道を確かめる連中だ。仕事の名前というより、俺たちはそう呼んでるだけだがな」
砂嵐が通っても、主要な交易路そのものが消えるわけではない。
ただ、砂丘の形が変わる。
吹き溜まりができる。
前日まで残っていた車輪跡が消え、道標の下半分が埋まることもある。
馬車では進みにくくなった場所があれば、使える迂回線も確認する。
「給水地点も見るんですか?」
「もちろんだ。道が通れても、水場に問題があれば商隊は出せん」
ナディムさんたちも、今は荷を積みながら報告を待っているらしい。
砂海を何度も往復している人たちでさえ、昨日まで通れたからとそのまま出発はしない。
「行くつもりなら、報告が戻ってからにしろ」
「分かりました」
ナディムさんと別れ、馬車の点検を終える。
レイの様子を見た後、俺たちは部屋へ戻った。
「俺は、西の塩湖へ行ってみたいと思ってる」
みんなが集まったところで話す。
昨日聞いた白い湖。
広い塩の地面。
採塩をする人たち。
塩漬けや乾燥を使った保存食。
湖へ流れ込む水路や、塩分の薄い場所ではまた違う環境があるという話も気になっている。
「わたしも見たい」
ウンディーネがすぐに答えた。
「今までの水路やオアシスとは違うもんね」
ベルも特に反対する様子はない。
キリコは少し考えてから口を開いた。
「白い地面がずっと続くって、どんな感じなんだろう」
「昔はあったけど、今が同じとは限らないわね」
リュエラさんも静かに頷く。
メイとシルクも、旅へ出る話だと分かったのかこちらを見ていた。
急ぐ理由はないが、王都へ来た目的は滞在することだけでもない。
知らない土地があるなら、見に行きたい。
「じゃあ、次は西の大塩湖へ行こう」
それで決まった。
中庭へ戻り、ナディムさんへそのことを伝える。
「塩湖へ行くことにしました」
「そうか」
少し考えた後、ナディムさんが荷馬車の列を見る。
「なら、俺たちと来るか?」
「いいんですか?」
「目的地は同じだ。そっちも砂海を走る装備は持ってるんだろ」
俺たちが今まで乗ってきた大型馬車と、砂走橇輪のことは中庭から見れば分かる。
レイ用の砂踏魔馬具もある。
「西の道は初めてですよね」
ベルが確認する。
「ああ。だから一緒に行けるなら助かる」
知らない土地で、わざわざ経験者と別れて進む理由はない。
「お願いします」
「分かった。ただ、護衛を頼むわけじゃないぞ」
「はい」
報酬も契約もない。
同じ場所へ向かう旅人同士で、商隊と一緒に進むだけだ。
もちろん何かあれば互いに手を貸すことにはなるだろうが、俺たちが商隊の仕事へ縛られるわけではない。
ナディムさんの商隊は荷馬車が数台。
御者と商隊員、それに護衛の冒険者も少人数いる。
大所帯というほどではないので、こちらの馬車が一台加わっても問題はなさそうだった。
道見が戻るまで時間がある。
水やレイの飼料、馬具の消耗部品、旅に必要な日用品だけ確認し、不足している分を補った。
砂海へ入るための装備を新しく買う必要はない。
その後、俺たちは王城へ向かった。
前日に訪れたばかりなので、今回は会談を求めたわけではない。
西の塩湖へ向かうことになったので、出発前に一言伝えておきたかった。
用件を伝えると、しばらくしてサミールさんに会うことができた。
「もう行くのか」
「はい。昨日聞いた塩湖が気になってしまって」
「お前らしいな」
厨房へ入る話にはならなかった。
俺も昨日かなり料理をしたばかりなので、今日は挨拶だけでいい。
「市場へ一緒に行く話、できませんでしたね」
「次に王都へ来た時でいい」
サミールさんは気にした様子もない。
「また来ます」
「ああ。その時は朝から空けとけ」
それから、西の塩湖へ行くと聞いたサミールさんが一人の名前を出した。
「塩湖へ行くなら、マルワンを訪ねてみろ」
「マルワンさん?」
「採塩集落にいる料理人だ。塩を使わせたら俺より詳しい」
単に味付けとして塩を使うという意味ではないらしい。
肉や魚介類へどこまで塩を入れるか。
どれだけ乾かすか。
保存した後、どこまで塩を抜くか。
そのまま食べる保存食と、後で料理へ使うための保存では処理も違う。
「保存した物を料理へ戻すところまで知ってる。興味があるなら話してみろ」
「かなり興味あります」
「だろうな」
サミールさんとは以前から何度か食材や保存食を通して会っているという。
師匠や弟子ではなく、土地の違う料理人同士らしい。
「サミールさんの名前を出しても?」
「それで分かる」
紹介状を書くほどのことでもないようだ。
サミールさんと別れ、ハリード王にも短く挨拶する。
「西の塩湖へ行くことにしました」
「やはり行くか」
特に驚かれなかった。
「ナディムさんの商隊と一緒に向かいます」
「ナディムか。それなら道については問題ないだろう」
王都と塩湖の間を何度も往復している商人として、ハリード王も知っているようだった。
ただ、一つだけ注意された。
「湖へ着いても、白い場所へ勝手に馬車を入れるな」
「見た目と地面が違う場所があるんですか?」
「ある」
湖岸は遠くから見ると白く乾いて固そうに見える。
しかし、表面だけ乾いていて、その下に塩水や泥を含んでいる場所もあるという。
足なら通れても、大型馬車の重さでは沈むところもある。
「現地の車輪跡と案内に従え。特にお前の馬車は大きいからな」
「分かりました。気をつけます」
「それくらいだ。行って見てくればいい」
特別な紹介状を渡されることもない。
王の名前を出せとも言われなかった。
普通の旅人として行けばいいということだろう。
王城を出る前、サミールさんが最後に言った。
「フトシ」
「はい?」
「また料理しよう」
「はい。ぜひ」
それだけで別れた。
旅宿へ戻ると、中庭の様子が朝とは変わっていた。
ナディムさんの商隊員たちが荷の固定を確かめ、御者も騎獣の準備を始めている。
「道見が戻ったんですか?」
「ああ」
報告では、西側の主要交易路は通れるらしい。
給水地点にも問題はない。
ただ、一か所だけ昨日の砂嵐で大きな吹き溜まりができ、荷馬車では通りにくくなっていた。
「そこは昔から使ってる迂回線へ回る。他は大丈夫だ」
ナディムさんはそれだけ確認すると、出発を決めた。
日差しの強い時間は過ぎている。
今日は無理に距離を稼がず、王都西側の最初の休憩地点まで進む予定らしい。
俺たちも馬車へ荷をまとめ、レイを厩舎から連れ出す。
王都の固い道では通常の状態で進む。
西門を抜け、砂地へ入る手前で一度止まった。
レイへ【砂踏魔馬具】を取り付ける。
締め付けと魔導部だけ確認する。
馬車の【砂走橇輪】も展開し、支持部に異常がないことを見て御者台へ戻った。
先頭ではナディムさんたちの荷馬車が動き出している。
俺たちもその後へ続いた。
振り返ると、王都の防砂壁と淡い色の建物が見えた。
水路沿いの緑も、少しずつ小さくなっていく。
畑にいたハリード王。
朝市場で会ったサミールさん。
思っていたより色々な人と知り合った王都だった。
けれど、今はもう前を見る。
昨日の砂嵐は、街の外にもはっきり跡を残していた。
砂の表面には新しい風紋が続き、それまでの車輪跡が完全に消えている場所もある。
道標の一本は下の方まで砂に埋まっていた。
その代わり、砂の上には新しい騎獣の足跡が残っている。
「道見の跡だ」
近くを進むナディムさんが教えてくれた。
しばらく進むと、前方に大きな砂の盛り上がりが見えた。
交易路の一部へ砂が大量に吹き溜まっている。
ナディムさんたちは迷わず手前で進路を変えた。
少し離れた砂丘の間へ入り、緩い斜面を回り込んでいく。
道標だけを見て進んでいたら、たぶん俺は一度止まって確認していただろう。
経験のある商隊と一緒に来た意味が、もう一つ分かった。
王都が見えなくなってから、さらに西へ進む。
夕日が低くなり、砂の影が長く伸び始めた頃だった。
俺は御者台から地面を見て、少し違和感を覚えた。
「……白い?」
黄金色から薄茶色だった砂の中に、白っぽい粒が混じっている。
一面ではない。
細かな粒が点々と光り、場所によっては細い筋のようになっていた。
ナディムさんの荷馬車へ近づいたところで聞く。
「この白いの、塩ですか?」
「ああ。この辺りから少しずつ増える」
「もう塩湖が近いんですか?」
「いや。まだ先だ」
それでも、昨日までは話でしか知らなかった白い土地の気配が、もう足元へ現れていた。
夕日の光を受けるたび、茶色い砂の間で細かな白い粒が小さく光る。
ナディムさんたちの荷馬車が、その上へ新しい車輪跡を残して西へ進む。
俺たちの馬車も、その跡を追って白の混じり始めた砂海を進んでいった。




