第165話 熟しトマトと、二人の料理人
サミールさんに続いて廊下を進むと、香辛料と焼いた肉の匂いが少しずつ濃くなってきた。
扉を抜けた先には、いくつもの竈と大型の窯、広い作業台が並んでいる。
肉や野菜、乳製品を扱う場所も分けられ、壁際には洗浄用の水場があった。
水は流しっぱなしではなく、必要な時だけ手元の栓を開く仕組みらしい。
王城の厨房だから豪華というより、大人数の食事を毎日作るための場所という印象が強い。
料理人たちは俺たちが入ってきても手を止めなかった。
夕食の仕込みが始まっているらしく、野菜を刻む音や鍋を動かす音があちこちから聞こえる。
「ここを使え」
サミールさんが空いている作業台を示した。
「ありがとうございます」
ベルたちまで厨房の中へ立たせるのは邪魔になるため、すぐ隣にある料理確認用の小部屋を借りることになった。
小さな食卓があり、出来上がった料理を運べばそこで食べられる。
「じゃあ、わたしたちはこっちにいるね」
ベルたちが移動する。
メイとシルクも一緒だ。
リュエラさんも特に口を出さず、興味深そうに厨房を眺めてから小部屋へ入った。
作業台へ向き直ると、サミールさんが腕を組む。
「で、朝のあれをどうする?」
「あれ?」
「トマトだ」
俺はアイテムボックスから、朝の市場で買った熟したトマトを取り出した。
形は揃っていない。
一つは少し扁平で、別のものは縦に長い。
だが、どれも表面には張りがあり、傷みはない。
一つ切ってみる。
包丁を入れただけで果汁がまな板へ滲んだ。
果肉は柔らかく、香りも強い。
小さく切ったものを味見すると、酸味の奥にしっかり甘味もある。
「やっぱり、形を残して使うより煮た方がよさそうですね」
「ああ。火を入れて崩す」
そこまでは同じ意見だった。
俺は手持ちの大玉葱と、北方街道で買ったニンニクに近い香味野菜、オリーブ・スライムから採った油を出す。
朝買った香辛料も並べた。
その中から何を使うかは、サミールさんの方が早かった。
「こいつは最初だ。油へ香りを移す」
一種類を取る。
「こっちは長く煮ると香りが消える。最後でいい」
別の香辛料を脇へ避ける。
俺にはまだ馴染みのないものばかりだ。
香りを嗅ぎながら覚えていく。
俺は大玉葱を細かく刻み、香味野菜も準備する。
鍋へ油を入れ、サミールさんが選んだ香辛料を先に入れた。
焦がさないよう弱めの火で香りを移し、そこへ大玉葱と香味野菜を加える。
水分が飛んで甘い香りが出たところで、粗く刻んだトマトをまとめて入れた。
最初は鍋いっぱいに見えたトマトも、火を入れるうちに崩れていく。
「まだ詰めるか?」
サミールさんが聞く。
「もう少しです。このままだと水分が多いですね」
木べらで底をさらう。
酸味の尖った匂いが少しずつ丸くなり、玉葱の甘い香りと混ざってきた。
赤塩を加え、途中で一度味を見る。
「少し香りが平たいな」
サミールさんが別の香辛料を指で潰して加えた。
一気に香りの奥行きが増す。
「これ、仕上げに近い方がいいんですね」
「熱を入れすぎると消える」
俺は酸味と甘味、水分の濃さを見ながら火を調整する。
サミールさんは香辛料を足す順番と量を見る。
どちらか一人だけなら、たぶん違う味になっていた。
最後にもう一度味を見る。
熟したトマトの甘酸っぱさを中心に、大玉葱の甘味と香味野菜、何種類かの香辛料が重なっている。
濃いが、重すぎない。
「肉に合うな」
サミールさんが言う。
同時に、俺の頭には別のものが浮かんだ。
「卵も合いそうです」
少し間があった。
「両方やるか」
「そうしましょう」
最初から何品も作るつもりではなかったはずなのだが、もう一つ増えた。
まずは卵からだ。
王城厨房の卵を使わせてもらい、浅めの鍋へトマトソースを移す。
少量の水で濃さを調整して温め、表面へいくつか窪みを作った。
そこへ卵を割り入れる。
「そのまま入れるのか?」
「はい。白身だけ固めて、黄身は柔らかく残します」
蓋をする。
火を強くしすぎれば黄身まで固くなるので、鍋の縁と白身の状態を見ながら待つ。
白身が不透明になり、黄身の表面へ薄く熱が入ったところで火を止めた。
仕上げに香草を散らす。
【香辛トマトと卵の煮込み(シャクシュカ)】。
温めてもらった平焼きパンと一緒に一皿、小部屋へ運ぶ。
サミールさんも味を見るため、俺たちはその場で一口食べた。
パンで黄身を崩し、トマトソースごとすくう。
柔らかな黄身が香辛料の効いたソースを包み、酸味を丸くする。
「なるほど」
サミールさんがもう一度パンをちぎった。
「パン、もう一枚持ってこい」
近くの料理人が少し笑いながら追加を持ってくる。
小部屋からはベルの声が聞こえた。
「これ、パンが止まらなくなるね」
どうやら向こうでも好評らしい。
「次は肉だ」
サミールさんはもう別の作業へ移っていた。
王城厨房にあった羊か山羊に近い家畜の挽肉を用意する。
そこへ細かくした大玉葱、赤塩、香草、サミールさんが選んだ香辛料を加えた。
肉の匂いを確かめながら、香辛料の量を変えている。
「この肉は脂の香りが強い。こいつを少し多めにする」
俺も少量を焼いて味を見る。
確かに香辛料が肉の癖を隠すのではなく、脂の香りと一緒になる。
小ぶりの肉団子へ丸めていると、サミールさんが鍋のトマトソースを見る。
「このまま煮る」
「一度、表面を焼きませんか?」
「焼く?」
「中まで火を通さなくていいです。外側だけ焼き色を付けてから入れると、香ばしさもソースに入ります」
サミールさんが少し考え、焼き台を空けた。
「やってみろ」
熱した鉄板へ肉団子を並べる。
転がしながら表面へ焼き色を付けると、香辛料を含んだ脂の匂いが立った。
余分に出た脂だけ避け、焼けた肉団子をトマトソースへ移す。
「なら、これも入れてみるか」
サミールさんが、朝買った小粒の乾燥果実を指した。
細かく刻み、ごく少量だけ加える。
夜市でも肉の煮込みへ乾燥果実を使っていた。
この土地では、肉の脂と香辛料の間へ甘酸っぱさを入れる使い方が珍しくないらしい。
肉団子へ火が通ったところで味を見る。
焼き目の香ばしさがソースへ移り、肉の旨味も加わっている。
乾燥果実は探さなければ分からないくらいだが、時々小さな甘酸っぱさが入って脂を軽くした。
【香辛肉団子のトマト煮込み】。
「焼いてから入れるのも悪くないな」
「香辛料の方は俺だけだと、この組み方にはならなかったです」
「肉が違えば変える。こいつにはこれだ」
サミールさんは香辛料の一つを指した。
その判断の速さは、さすがにこの土地で長く料理している人だ。
二皿目も小部屋へ運ぶ。
キリコが肉団子を食べ、少ししてから乾燥果実に気づいた。
「たまに甘酸っぱいのがある」
「少しだけ入れてるよ」
「これくらいなら好き」
皿はしばらくすると、ほとんど空になって戻ってきた。
作業台には、まだトマトソースが残っている。
俺は鍋を見ながら考える。
「魚介も合いそうですね」
「俺も今それを考えてた」
思わずサミールさんを見る。
向こうも少し笑った。
それなら使えるものがある。
アイテムボックスから、砂海の夜市で買った【黒艶貝】の残りを出す。
「貝まで持ってるのか」
「砂海の夜市で見つけたんです。海沿いから運ばれてきたらしくて」
サミールさんが一つ手に取る。
「状態がいいな」
「収納してる間は変わらないので」
それだけ説明して、下処理へ入る。
殻を洗い、割れや不自然に開いたものがないか確かめる。
問題のない黒艶貝だけを鍋へ入れ、少量の水を加えて蓋をした。
火が入るにつれて殻が開き始める。
同時に鍋底へ貝自身の汁が溜まった。
俺が貝を一度取り出す。
サミールさんが鍋の汁を見る。
「それは入れるぞ」
「ですよね」
ほぼ同時だった。
貝汁を濾し、残っていたトマトソースへ加える。
少し煮て味を見ると、今までのソースとは明らかに違った。
肉の時とは違う、海の旨味が土台へ入っている。
「塩はまだ足さない方がいいですね」
「ああ。先に酸味だ」
サミールさんが南方柑橘を見る。
俺が少量だけ搾る。
もう一度味を見てから赤塩を僅かに調整し、最後に黒艶貝を戻した。
長く煮込まず、ソースをまとわせる程度で火を止める。
【黒艶貝の香辛トマト蒸し】。
サミールさんが鍋を出せば、俺が皿を用意する。
俺が貝を盛れば、サミールさんが温めたパンを横へ置く。
いつの間にか、次に何をするか細かく確認しなくても作業が進むようになっていた。
小部屋へ運んだ黒艶貝を、ウンディーネが一つ食べる。
何も言わず、すぐに次の一つへ手を伸ばした。
リュエラさんも殻から身を外し、残ったソースをパンへ付けている。
それだけ見れば十分だった。
「料理長」
近くで仕込みをしていた料理人が声を掛ける。
「今日は何品作る予定だったんですか?」
サミールさんが手を止める。
「決めてない」
「俺も最初は、トマトソースくらいのつもりだったんですが……」
作業台には空いた鍋と皿が増えている。
料理人が小さく笑って自分の仕事へ戻った。
そこでサミールさんが、作業台の端を見る。
朝買った若い水棘掌がまだ残っていた。
「これも使うんだろ?」
「そうですね」
昨日はサラダにした。
今回は別の食べ方にしたい。
水棘掌の表面を見る。
若くて水分が多い。
「焼きましょうか」
棘と根元、硬い縁を処理する。
縦長に切り、表面の水分だけ軽く拭いた。
よく熱した焼き台へ置く。
じっくり焼きすぎず、両面へ香ばしい焼き目が付いたところで上げた。
中の瑞々しさはまだ残っている。
皿へ並べ、熟しトマトの香辛ソースを薄く掛ける。
「全部掛けないのか?」
「水棘掌の味も残したいので」
サミールさんが王城厨房のフレッシュチーズを持ってきた。
「なら、これを少しだ」
「合いそうですね」
粗く崩して上へ散らす。
【焼き水棘掌のトマトソース添え】。
焼いたことで青い香りは少し穏やかになったが、しゃくっとした食感と水分は残っている。
トマトソースの酸味と香辛料、フレッシュチーズのコクが加わっても、水棘掌そのものが埋もれない。
「昨日の畑でもこれを食わせればよかったな」
声に振り返る。
厨房の入口にハリード王が立っていた。
「陛下?」
サミールさんが顔を上げる。
「戻ってこないと思ったら、随分増えたな」
ハリード王が作業台を見る。
卵を使った鍋。
肉団子のソース。
黒艶貝の殻。
焼いた水棘掌。
「……お前たち、一品作る話ではなかったのか?」
「そんな話だったか?」
サミールさんが俺を見る。
「最初はそのくらいのつもりだったんですが」
気づけば四品だ。
ハリード王は呆れたような顔をしたが、そのまま小部屋へ向かった。
少量ずつ残してあった料理を出す。
一番気に入ったのは肉団子らしい。
平焼きパンへ肉団子を一つ乗せ、トマトソースごと食べている。
「これなら畑仕事の後でも食いやすいな」
次に焼いた水棘掌も取った。
「こっちは若いやつで作れるな」
王だから特別な料理を選ぶという感じではない。
昨日まで畑で見ていた食材が別の形になったことの方が気になるようだった。
料理を一通り出し終え、俺たちは使った道具を片付け始めた。
「お前、知ってる料理をそのまま作るわけじゃないんだな」
サミールさんが鍋を洗いながら言う。
「材料が同じじゃないですから。似たものを作ることはありますけど、最後は目の前の食材を見ます」
「その方がいい」
サミールさんも、王城で料理を出す時は味だけを考えているわけではないらしい。
毎日使える食材か。
安定して仕入れられるか。
何十人、何百人分へ増やしても同じように作れるか。
値段に無理がないか。
そこまで考えて献立を組む。
朝の市場で競りを途中で降りた理由も、改めて分かった。
「一皿だけなら、いい物を集めれば何とかなる」
サミールさんが言う。
「だが王城の食事は一皿で終わらん」
「人数分を毎日ですもんね」
「ああ。味が良くても続けられなければ意味がない」
俺は旅先で、その時に手に入ったものを使って料理することが多い。
サミールさんは、この王都で安定して料理を出し続ける。
同じ料理人でも、考える範囲が違う。
面白い。
片付けが終わる頃には、厨房へ差し込む光が少し傾いていた。
周りの料理人たちは、変わらず夕食の準備を続けている。
「王都にいる間、暇ならまた来い」
サミールさんが言った。
「今度は俺の料理を最初から食わせる」
「ぜひお願いします。俺もまだ使ってみたい食材があります」
「朝の市場へ行くなら声を掛けろ。仕入れを見るなら、一人より話が早い」
「分かりました」
客として招かれているというより、普通に料理人同士で次の予定を話している感じだった。
最後に残った熟しトマトの香辛ソースを、サミールさんが小さな匙で味見する。
「次は別の肉で試すか」
俺も鍋を見る。
肉が変わるなら、同じ香辛料の組み方では少し強いかもしれない。
「それなら香辛料も変えてみたいですね」
「ああ。脂の少ない肉なら――」
サミールさんが香辛料棚へ目を向ける。
俺も同じ方を見た。
厨房では夕食の仕込みが続いている。
その中で、さっきまで借りていたはずの作業台に、俺はまだサミールさんと並んで立っていた。




