第164話 夜明けの市場と、王からの手紙
空はまだ青くなりきっていなかった。
それでも王都の大市場は、昨夜遠くから見た時より明るい。
入口へ近づくにつれて、荷車の車輪が石畳を転がる音が増えていく。
騎獣の足音。
木箱を地面へ下ろす音。
短く値段を確認する声。
荷を運ぶ人たちの掛け声。
昼間の市場で聞くような、客を呼び込む大きな声はほとんどなかった。
俺たちは七人で歩いている。
レイは宿の厩舎へ残し、馬車も中庭へ置いてきた。
今日は市場を歩くだけなので、その方が身軽だ。
中へ入って最初に驚いたのは、品物の種類より量だった。
昨日畑で見た【水棘掌】が木箱単位で積まれている。
採れたばかりらしい野菜や果実。
豆や雑穀の大袋。
乾燥果実。
香辛料。
発酵乳やチーズ。
肉。
保存食。
砂海を越えてきた商隊の荷もある。
一つずつ珍しがって見ている暇がないくらい、物が動いていた。
それ以上に面白いのは、買う側だ。
料理人らしい人が、水棘掌の若く形の揃ったものだけを選んでいる。
少し離れたところでは、もっと育って硬そうな水棘掌を大量に買っていた。
煮込みや加工に使うのだろう。
小ぶりで形の悪い野菜を安くまとめる屋台の人。
表面に少し傷があっても、香りが強く熟した果実を選ぶ人。
豆を大袋ごと何袋も買っていく宿の仕入れ人。
一番きれいな物が、一番いいとは限らない。
何を作るかで欲しい状態が変わる。
料理人として見ているだけでも面白かった。
「みんな選ぶの速いね」
ベルが俺の横で言う。
「毎日やってるんだろうね」
箱を開ける。
一つ持つ。
表面を見る。
匂いを確かめる。
値段を聞く。
買うか決める。
本当に早い。
俺たちも流れを邪魔しないよう歩いていると、トマトを並べた一角で足が止まった。
木箱がいくつもある。
大きさも色も揃った見栄えのいいもの。
少し若く、日持ちしそうなもの。
熟して香りが強いもの。
値段もそれぞれ違う。
俺が見たのは、端の箱だった。
形は少し不揃いだが、よく熟している。
表面に傷みはない。
近くまで来ると、トマトらしい青さの残る甘い香りが分かった。
煮たり、ソースにしたりするならこっちがいい。
その箱へ手を伸ばしかけたところで、反対側からも同じ箱へ視線が向いた。
四十代後半くらいの男だった。
服装は普通だが、腰には仕事用らしい布を巻いている。
一つだけトマトを持ち、重さを確かめる。
表面を軽く見て、すぐ戻した。
必要以上に触らない。
その手つきだけで、食材を扱い慣れているのが分かった。
男が俺を見る。
「そっちを見るか」
「煮るなら、こっちかなと思いまして」
「形は悪いぞ」
「鍋に入れたら分からないですから。熟し方と香りの方が大事です」
男の口元が少し動いた。
「ソースか?」
「その辺りですね」
「俺もだ」
やっぱり料理人らしい。
「料理をされるんですか?」
「ああ。お前もだろ」
「はい。旅をしながら料理しています」
それだけで話は通じた。
男はその箱からかなりの量を買うらしい。
俺は全部必要なわけではないので、店主へ頼んで少量だけ分けてもらった。
アイテムボックスがあるから、買おうと思えば箱ごと何箱でも持っていける。
金にも困っていない。
だからといって、ここで働く料理人や店が使う物まで持っていく理由はない。
今使ってみたい分だけで十分だ。
水棘掌の若いもの。
乾燥果実。
いくつかの香辛料も、同じように少量ずつ買う。
正式な名前を全部覚えるのは、また必要になってからでいい。
市場の奥では、人が輪を作っていた。
覗くと、少量だけ入荷した品を競りに掛けているらしい。
珍しい伝説の食材というわけではない。
ただ、その朝入った中でも状態が特にいいものが、少ししかないようだった。
値段が上がっていく。
何人かの料理人や商人が声を出す。
途中で一人が降りる。
少し上がる。
また一人降りる。
さっきの男も近くにいたが、あるところで口を閉じた。
結局、別の料理人が買った。
「もっと出せたんじゃないですか?」
俺が何となく聞くと、男はこちらを見る。
「出せるのと、出すのは別だ」
「というと?」
「仕入れは勝負じゃない。料理の値段を越えてまで買えば、店が持たん」
短い答えだった。
「何を作って、いくらで出すか。その中で欲しい物を選ぶ」
「確かに」
高ければいいわけではない。
買い付けに勝つことが目的でもない。
料理として出すところまで含めて仕入れだ。
当たり前のことだが、この場所で聞くとよく分かる。
男はそれ以上話さず、別の売り場へ向かった。
俺たちも市場を歩き続ける。
しばらくすると腹が減ってきた。
市場の端には、働いている人向けらしい朝食の屋台がいくつか出ていた。
豪華な料理ではない。
平焼きパンへ豆のペーストを塗り、焼いた肉と刻んだ野菜を挟み、発酵乳を使った酸味のあるソースを掛けたものを頼む。
手に持ったまま食べられる。
味もしっかりしていて、朝から動く人にはちょうどいい。
メイとシルクにも串や食べにくい部分を外し、同じものを量と大きさだけ調整して渡した。
市場の隅で食べている間にも、周囲では荷が動き続けている。
だが、食べ終える頃には少しずつ雰囲気が変わってきた。
空が明るくなり、日差しが建物の上へ当たり始める。
農家の荷車が減った。
買い付けを終えた料理人たちが、市場の外へ戻っていく。
代わりに一般の客が増え始めた。
店から聞こえる声も大きくなる。
同じ市場なのに、夜明け前とは別の場所みたいだった。
「入れ替わるんだね」
キリコが周囲を見る。
「仕入れの時間が終わったんだろうね」
俺たちも市場を出た。
宿へ戻って少し休み、午後。
今度は王城へ向かった。
レイはそのまま厩舎で過ごしてもらう。
門で名前と昨日届いた招待について伝えると、確認はすぐに取れた。
武器など必要な手続きを済ませ、七人で中へ案内される。
大きな謁見室ではなかった。
通されたのは、落ち着いた広さの会談室だ。
そこにいたハリード王を見て、少しだけ違和感があった。
昨日は作業着で土の付いた手をしていた。
今はきちんとした王の服装をしている。
同じ人なのに、印象がかなり違う。
「来たか」
本人の話し方は昨日と変わらなかった。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「座ってくれ。正式な謁見じゃない」
俺たちが席へ着く。
王都までの道や、砂海で困ったことがなかったかなどを少し話した。
レイの正体やリュエラさんのことへ踏み込むような質問はない。
しばらくして、ハリード王が机の上へ一通の書簡を置いた。
「まず、お前に見せておくものがある」
封に押されている印へ目が行く。
見覚えがあった。
アストラーレ王家の印だ。
「イザベラさんから?」
「ああ。お前たちがここへ来るより随分前に届いた」
ハリード王が書簡をこちらへ向ける。
差出人は間違いなくイザベラさんだった。
俺がメリディアを出る前、次の目的地をオアサリアに決めたことは本人へ伝えている。
その後、国同士の正式な経路で手紙を送っていたらしい。
「内容は、お前たちがこちらへ向かう予定だという話から始まっていた」
ハリード王が要点だけ話す。
フトシという旅人が、仲間とともにオアサリアを訪れる予定であること。
アストラーレでは何度か国や民へ力を貸してもらい、王家として信頼していること。
旅の途中で本当に困ることがあれば、可能な範囲で助けてほしいこと。
そこまでは、国から国へ送る紹介として分からなくもない。
「だが、後半が変わっていた」
「後半?」
「お前はアストラーレの臣下ではない。自由に旅をしている者だから、実績や能力を理由に囲い込むな、と書いてある」
思わず書簡を見る。
ハリード王は続ける。
「外交や政争へ使うな。本人が望まない仕事を押しつけるな。アストラーレとの関係を理由に、必要以上の特別扱いもいらない」
「そこまで書いてたんですか」
「ああ」
ただし、困っているなら助けてやってほしい。
そう締められているらしい。
王家の短剣についても、臣下として与えたものではなく、アストラーレ王家が後ろ盾となる証だと書かれていた。
俺が知らない土地を見て、食材を探して、料理をしながら旅することを望んでいることも。
能力についての細かな説明はない。
神造迷宮のことも。
放浪神の加護も。
リュエラさんの正体も。
アイテムボックスの性質も書かれていなかった。
「少々普通ではないところもあるが、本人が話さぬことを無理に詮索する必要はない、とは書いてあったがな」
ハリード王が笑う。
昨日、俺のトマトを見て収納の性質へ気づいたのは、やはりこの人自身だったらしい。
「じゃあ、畑で俺が名乗った時には……」
「分かっていた」
あっさり返ってくる。
「名前と同行者については聞いていたからな。六人で来る予定だったが、旅なら人数が変わることもあるとも書いてあった」
その手紙が送られた頃、リュエラさんはまだ一緒にいなかった。
ハリード王が彼女について知らなかったのも当然だ。
「どうして言わなかったんですか?」
「最初から王として名乗ったら、お前は昨日みたいに話さなかっただろう」
否定できない。
国王だと知っていれば、畑で普通に水棘掌を触りながら、あそこまで気軽に話したかは分からない。
「試すつもりだったわけじゃない」
ハリード王が言う。
「イザベラがあそこまで変な手紙を送ってくる相手を、自分で一度見てみたかっただけだ」
「変な手紙ですか」
「普通、国王から紹介状が来れば、丁重に扱ってくれとか、便宜を図ってくれとか、協力してくれとか、その辺りが中心だ」
確かにそうかもしれない。
「ところが一番強く書いてあるのが、助けてやってくれ、だが利用するな、だからな」
ハリード王が書簡の末尾を指した。
「最後にはこんなことまで書いてある」
見せてもらう。
少し私的な書き方になっていた。
『王というものは、使えそうな者を見ると手元へ置きたくなるものじゃ。妾も一度断られておるゆえ、お主も気をつけよ』
「……そんなことまで」
直属の料理人にならないかと誘われ、旅を続けたいと断った時のことだろう。
ハリード王が笑った。
「本人が一度やって失敗したことまで書いてあった」
いかにもイザベラさんらしい。
自分が断られたことまで使って、こっちへ釘を刺している。
「昨日聞いた収納の力は、国から見れば欲しい能力だ」
ハリード王が今度は真面目に言う。
「食料保存。緊急時の輸送。遠征。使い道はいくらでもある」
俺は黙って聞く。
「だが、便利な一人へ国の仕組みを預けるのは違う。昨日言った通りだ」
その考えは、手紙を読む前から変わらなかったらしい。
「安心して好きに歩けばいい。畑でも市場でも見て、好きなものを食っていけ」
「ありがとうございます」
大物として他国へ売り込まれていたわけではなかった。
むしろ反対だ。
普通に旅を続けられるよう、知らないところで先に話を通してくれていた。
「イザベラさんらしいな……」
書簡を見ながら、そう思った。
その時、部屋の扉が叩かれた。
「入れ」
ハリード王の声で扉が開く。
入ってきた男を見て、俺は少し驚いた。
向こうも足を止める。
朝、市場で同じトマトの箱を見ていた料理人だった。
「……朝の」
「お前か」
ハリード王が俺たちを交互に見る。
「なんだ。知り合いか?」
「朝、市場で少し話しました」
男が答える。
「食材を見る目が悪くなかったので、少し」
「それはこっちの台詞です」
ハリード王が面白そうに男を見る。
「なら、ちょうどいい。こいつは王城料理長のサミールだ」
「料理長?」
さすがにそこまでは思っていなかった。
男――サミールさんは、朝と同じ落ち着いた顔でこちらを見る。
「サミールだ。朝は名乗らなかったな」
「フトシです。改めて、よろしくお願いします」
「ああ」
王城料理長が、自分で卸売市場へ仕入れに行っていたらしい。
「部下だけに任せる日もある。だが、自分で見たい日もある」
サミールさんが言う。
「陛下と似てますね」
思わず言うと、サミールさんが少しだけハリード王を見る。
「一緒にされるのはどうかと思いますが」
「何が違う」
ハリード王は気にした様子もない。
畑へ出る王と、市場へ出る料理長。
やっていることは違うが、自分の仕事の根本を自分で見に行くという点では確かに似ている。
サミールさんが俺を見る。
「朝、何を買った?」
「水棘掌とトマト、乾燥果実、それに香辛料を少しです」
「やはり、あの箱のトマトも買ったか」
「少しだけですけど」
「それで何を作る?」
「まだ決めてません」
サミールさんが少し考える。
「なら、厨房で考えるか」
「厨房で?」
「ここには厨房がある」
王城なのだから当然だ。
だが、まさか入った当日に使う話になるとは思わなかった。
ハリード王も止めない。
「お前たち二人なら、その方が話は早そうだな」
サミールさんはもう扉の方へ向かっている。
俺も立ち上がった。
王都へ来てから、畑では国王と知らずに料理をして、市場では王城料理長と知らずに食材の話をした。
肩書きより先に本人と会うことが続いている。
サミールさんが扉を開ける。
その向こうの廊下へ続いて、俺も王城の厨房へ向かった。




