第162話 水路の王都と、畑の男
砂の色ばかりだった景色に、はっきりとした緑が混じり始めた。
小さなオアシス集落を出てから数日。
遠くに見えた緑は、今まで立ち寄った水場とは比べものにならないほど広い。
近づくにつれて、水路が見えた。
その両側には畑が続き、果樹らしい木や背の低い防砂林も並んでいる。
さらに目立つのが、肉厚の棘植物だった。
国境の交易拠点で炭火焼きを食べ、砂海へ入る前の中継地点では似た植物の果実を使った飲み物も飲んだ。
それが畑一面に列を作って育っている。
「すごいね。砂しかなかったのに」
ベルが客室の窓から外を見る。
「水路もずっと続いてるな」
そのさらに奥には、大きな都市が広がっていた。
砂丘より少し低くなった広い土地を使って造られているらしい。
外周には砂を防ぐための壁があり、その内側には白や淡い砂色の石造建築が並ぶ。
屋根の上には、風を取り込むためなのか細長い塔がいくつも立っていた。
通りの上には大きな日除け布。
そして街の中にも、何本もの水路が伸びている。
砂漠の中へ無理に街を置いたというより、水を通せる場所を少しずつ街にしていったように見えた。
オアサリアへ入ってから初めて見る、本格的な大都市だ。
王都へ入る手前で、砂海側から来た馬車は専用の整備区画へ案内された。
まず【砂走橇輪】を格納する。
滑走板や車体の下には細かな砂がかなり入り込んでいた。
作業員たちは大きな刷毛と風を使い、先に乾いた砂を落としていく。
水を使うのは、最後まで残った汚れだけだった。
「水で全部流した方が早そうですけど、やらないんですね」
俺が聞くと、作業員が頷く。
「砂を流し込むと排水路へ溜まりますし、水も余計に使いますから」
なるほど。
水があるから好きに使うのではないらしい。
レイの砂踏魔馬具も外し、脚と蹄を確認する。
擦れや傷はない。
魔馬具の中へ入った砂も落としてから、普通の馬具だけに戻した。
整備を終えた後、入城手続きを済ませる。
冒険者カードと馬車の確認も問題なく、大市場や宿泊区画の大まかな場所だけ教えてもらった。
そのまま街の中心へ向かうつもりだった。
だが、馬車を動かす前に、俺の目は水路沿いの畑へ戻っていた。
「……あれ、やっぱり気になるな」
「棘のやつ?」
ベルが聞く。
「うん。実際に生えてるところを見るのは初めてだから」
街の外縁には、水路に沿ってかなり広い農地が造られていた。
馬車を邪魔にならない場所へ止め、畑の外から少し眺めていると、中で作業していた男がこちらへ顔を向けた。
「そんなに珍しいか?」
四十代後半か、五十代くらいだろうか。
日に焼けた肌に薄手の作業着。
頭には日除けの布を巻き、手には土が付いている。
体格は程よくがっしりしていた。
「すみません。前に食べたことはあるんですけど、育ってるところを見るのは初めてで」
「食べたことはあるのか」
「炭火焼きと、似た植物の果実を使った飲み物を」
男が少し笑った。
「なら、たぶん同じ仲間だな。こいつは【水棘掌】だ」
やはり食用の棘植物らしい。
品種によって葉状の部分を食べるもの、果実を多く取るものなど違いがあるという。
「料理人か?」
「フトシです。旅をしながら料理をしています」
「ハリードだ」
男も名前だけを返した。
「ハリードさん、この辺りの水棘掌は食用ですか?」
「ああ。だが、食うなら何でも同じじゃない」
そう言いながら、ハリードさんは畑の奥へ入る。
俺も許可をもらって近くまで行った。
「こっちを見ろ」
指したのは、大きく育った厚い部分ではない。
先端近くから伸びた、まだ明るい緑色の若い芽だった。
「育ちすぎると硬くなって繊維も強くなる。焼いたり煮たりするならそれでも使えるが、柔らかさを残したいなら若い方だ」
棘も、成熟したものより細い。
一枚切ってもらい、断面を見せてもらう。
中からすぐに水分が滲んできた。
触れるとしっかり張りがあり、切り口には僅かな粘りもある。
「前に炭火で食べたのは、これより少し育ったものだった気がします」
「分かるのか?」
「歯応えがもう少し強かったので」
ハリードさんが俺を見る。
さっきまでより少し興味を持ったようだった。
「珍しがって見てるだけじゃなさそうだな」
「食材を見るのは好きなので」
「なら、作ってみるか?」
「ここでですか?」
ハリードさんが水路の先を指す。
農地の一角に、屋根の付いた簡単な調理場所があった。
作業台と竈。
鍋や桶。
洗浄用の水場と排水溝もある。
収穫した物の状態を確かめたり、農家が食事をしたり、買い付けに来た人へ試食を出す時に使うらしい。
「料理人なんだろ。採れたてを使ってみろ」
「それなら、お願いします」
ハリードさんが若い水棘掌を何枚か収穫する。
さて、どうするか。
せっかく若くて瑞々しいものを使うなら、煮込みや焼き物より軽い料理がいい。
日本で知っていたノパレスのサラダを思い出した。
まずは一枚だけ、自分で下処理する。
洗って表面の状態を見ながら、細い棘とその根元を包丁で削ぐ。
縁の少し硬い部分も落とした。
棘の付き方と皮の厚みが分かったところで、残りは【調理の超加速】も使って手早く処理する。
食べやすい大きさへ切ると、断面から僅かに粘りのある汁が出た。
鍋へ水を張り、赤塩を少量入れる。
沸いたところへ水棘掌を加えた。
柔らかく煮切るつもりはない。
色と弾力を確かめながら火を通し、しゃくっとした歯触りが残るところで引き上げる。
しっかり湯を切り、清水でさっと冷ました。
表面へ出た余分な粘りも一緒に流していく。
「ずいぶん軽く茹でるんだな」
「若いものなので、食感を残したいんです」
次に手持ちの食材を出す。
大玉葱。
トマト。
【涼香草】の葉。
南方柑橘。
オリーブ・スライムから採った油。
赤塩。
最後に、ノース・グランで買ったフレッシュチーズ。
トマトを取り出したところで、ハリードさんの手が止まった。
「……そのトマト、どこで買った?」
「アストラーレです」
「アストラーレ?」
ハリードさんが一つ手に取り、表面を見る。
「それをここまで持ってきて、その張りか」
「収納していたので」
「収納持ちか」
そこまでは珍しくないらしい。
だが、切ったトマトの断面を見た後、ハリードさんが続けた。
「しかも、中の時間がほとんど進まない類だな?」
少し驚いた。
「分かるんですか?」
「収納持ちは何人も見たことがある。生鮮品は分かりやすい」
農家なら鮮度を見る目もあるのだろう。
それにしても、ずいぶん収納能力者を見ているらしい。
「俺の収納は、基本的には中の時間が止まっています」
「完全にか?」
「はい」
ハリードさんの表情が少しだけ真面目になる。
「それは珍しいな」
俺は大玉葱を切りながら続けた。
「必要な場所だけ時間を進めることもできます。漬け込みや発酵に使う時はそっちですね。必要なら少し早めることもできます」
「保存する場所と、育てる場所を中で分けてるのか」
一度聞いただけで、すぐ意味を理解した。
「食料を運ぶだけでも相当便利だな」
「俺はほとんど料理に使ってますけど」
「容量は?」
「今まで限界を感じたことはないです」
ハリードさんが一瞬黙った。
「……時間だけじゃないのか」
それ以上、細かく聞いてくることはなかった。
「便利なのは間違いないが、お前個人の力だ。国や大勢が最初から当てにして回すようなものじゃないな」
農家が言うにしては、妙に話の規模が大きい。
「持ってる本人が動けなくなったら、それで終わりだ。便利だからって詰め込みすぎるなよ」
「はい。気をつけます」
変わった人だなと思いながら、料理へ戻る。
冷ました水棘掌へ、刻んだトマトと薄切りの大玉葱を合わせる。
涼香草も刻んで加えた。
南方柑橘を搾り、オリーブ・スライムの油と赤塩を絡める。
辛味は入れない。
最後にフレッシュチーズを粗く崩して散らした。
【水棘掌の香味サラダ(エンサラダ・デ・ノパレス)】。
一口食べてみる。
水棘掌は柔らかくなりすぎず、しゃくっとした軽い歯触りが残っている。
噛めば中から水分が出て、僅かな粘りも感じた。
青い香りはあるが強すぎない。
そこへトマトの甘酸っぱさと大玉葱の刺激。
南方柑橘の酸味と涼香草の香りが加わる。
油は全体をまとめる程度。
フレッシュチーズの乳のコクと淡い塩気が入ると、酸味の強さも少し丸くなった。
暑い場所でも重くない。
「どうぞ」
ハリードさんへ皿を渡す。
一口。
水棘掌を噛み、もう一口食べる。
「茹ですぎてないのがいいな」
「若い芽だったので、このくらいが合うと思いました」
「粘りは全部取らないんだな」
「残っていても嫌な感じじゃなかったので」
ハリードさんが頷く。
「焼く、炒める、煮る、漬ける。この辺じゃその辺りが多い。こうやって冷やして、生の野菜と酸味を合わせるのはあまり見ないな」
ベルも一口食べる。
「これ、暑い時にいいね」
キリコも頷きながら次を取った。
メイとシルクには同じものを食べやすい大きさにして渡す。
味付けは変えていない。
ウンディーネとリュエラさんも一緒に食べている。
ハリードさんは畑の方へ目を向けた。
「採ったばかりの物を、採った場所で食う。これは贅沢だ」
「分かります」
そこは料理人として、かなり同意できる。
収穫直後だからこそ残る水分や香りはある。
しばらく食べた後、ハリードさんが作業道具を片付け始めた。
「そろそろ戻らないとな」
「俺たちも、まだ宿を決めてないので街へ行きます」
「この街にいるなら、また畑を見に来ればいい」
「ありがとうございます、ハリードさん」
そこで別れた。
俺たちは馬車へ戻り、王都の中心側へ進む。
街の中へ入るほど、水路の数が増えた。
白い石造りの建物の間を水が流れ、その上には小さな橋が架かっている。
日除け布の下には人が多く、市場へ向かうらしい荷車も行き交っていた。
外の砂海より少し涼しく感じる。
宿を探しながら通りを進んでいると、前方に見覚えのある姿を見つけた。
「……ハリードさん?」
さっきまで畑にいた作業着の男だ。
別の通りから街の中心へ向かって歩いている。
ちょうどその時、近くにいた衛兵たちが一斉に姿勢を正した。
役人らしい服装の男も道の端へ寄り、頭を下げる。
「陛下」
俺の足が止まった。
「……陛下?」
ベルたちも同じ方向を見る。
ハリードさんがこちらに気づいた。
「ああ、フトシ。宿は見つかったか?」
畑にいた時と何も変わらない調子だった。
「まだですけど……」
一度、頭の中を整理する。
「……ハリードさん、国王陛下だったんですか?」
「言ってなかったか?」
「聞いてません」
周囲の反応を見る限り、冗談ではない。
砂水王国オアサリアの国王。
その本人が、少し前まで土の付いた手で水棘掌を収穫していたらしい。
さすがに今までと同じ話し方を続けるわけにもいかない。
「失礼しました。知らなかったとはいえ――」
「畑では今まで通りでいい」
ハリード王が途中で止める。
「身分を言わずにいたのは俺の方だ」
「でも、どうして国王陛下が畑に?」
俺が聞くと、ハリード王は少しだけ笑った。
「毎朝、短い時間だけ自分の畑を見るようにしている」
趣味でもあるらしい。
ただ、それだけではない。
「この国は水が止まれば困る。水が届いても土が駄目なら作物は育たん。報告書を読めば量や収穫は分かるが、数字だけ見てると忘れるものもある」
だから日の出前後の短い時間だけ、自分で水と土と作物を見る。
その後は王城へ戻って政務をする。
大きな農園を王が経営しているわけでも、一日中畑にいるわけでもないらしい。
そこで、さっきのことも腑に落ちた。
商隊や軍、食料輸送を扱う立場なら、収納能力者を見る機会も多いだろう。
そのうえ本人が野菜の状態を見慣れている。
トマトを見ただけで収納内部の時間に気づいたのも、その両方があったからか。
「今日は着いたばかりなんだろう?」
「はい」
「なら、まず街を見ればいい」
ハリード王が水路の先へ続く通りを見る。
「滞在中に一度、城へ顔を出してくれ。旅の話も、もう少し聞きたい」
「分かりました。伺います」
「急がなくていい」
そう言って、ハリード王は待っていた役人たちの方へ向かった。
俺たちも宿泊区画へ歩き出す。
少し前まで一緒に水棘掌を茹で、同じ皿のサラダを食べていた男が、この国の王だった。
けれど、衛兵に頭を下げられている姿よりも、土の付いた手で若い芽を示しながら、
「食うならこっちだ」
と言っていた姿の方が、まだ強く頭に残っていた。
通りの脇では水路が流れている。
日除けの向こうからは香辛料の匂いが漂い、大勢の人が市場の方へ行き交っていた。
俺たちも、その人波の中へ入っていった。




