第161話 昔、砂海を歩いた馬
「……いや、そんなはずはない」
低い声が聞こえた。
レイの【砂踏魔馬具】を外そうとしていた俺は、厩舎の奥を見る。
年老いた男性が、手にしていた革紐を握ったままこちらを見ていた。
正確には、俺ではない。
レイを見ている。
一夜だけの夜市を離れてから、半日ほど砂海を進んだ。
昼過ぎに見つけた小さなオアシス集落へ立ち寄り、人とレイを休ませながら、水場とこの先の道を確認することにしたところだった。
馬車は集落の外れにある厩舎近くへ止めてある。
レイを連れてきた俺たちは、若い厩務員に水場を教えてもらった。
その奥で道具を手入れしていたのが、今の老人だ。
「どうかしましたか?」
声を掛けると、老人はすぐには答えなかった。
ゆっくり立ち上がり、少し離れたところからレイを見る。
顔。
耳。
脚。
立ち方。
そして、俺が近くにいる時の様子まで確かめるように視線を動かした。
「いや……昔、よく似た馬を見たことがあってな」
「昔ですか?」
「ああ。わしがまだ子供だった頃だ」
老人はレイへ近づいたが、勝手に手を伸ばすことはしなかった。
この辺りでずっと馬や旅の騎獣を見てきた人らしい。
今は若い者へ仕事を教えながら、時々厩舎を手伝っているという。
「五十年以上前になるか」
その言葉に、俺はレイを見る。
レイは静かに老人を見返していた。
「今ほど、ここも便利じゃなかった。水路も少なかったし、砂海を渡る商隊も今ほど多くなかった」
老人の父親たちは、この集落で旅人や馬の世話をしていたらしい。
ある日、砂海から一頭の馬がやって来た。
飼い主はいない。
荷物もない。
手綱を持つ人間もいない。
一頭だけで歩いてきた。
「それが不思議な馬でな。砂海を越えてきたはずなのに、痩せてもいなければ、怪我もしていなかった」
水を求めてふらつく様子もなかった。
それでも水を出せば普通に飲み、穀物や野菜を出せば食べたという。
近くを通った商隊へ聞いても、持ち主は見つからなかった。
「結局、しばらくうちで預かることになった」
「どのくらいいたんです?」
「そこまでは覚えとらんな。何日か……十日もいなかったと思うが」
随分昔のことだ。
日数まで正確に覚えていないのは当然だろう。
ただ、その馬のことだけはよく覚えているという。
「人の言葉が分かってるような馬だった」
老人が少し笑う。
「子供のわしが『こっちへ来い』と言えば、本当に来る。『そこで待ってろ』と言えば、勝手に動かん」
大人が馬具を持って近づけば、自分から付けやすい位置へ身体を寄せたこともあった。
普通の馬でも人の声や合図を覚えることはある。
それでも子供だった老人には、ただ訓練されているのとは少し違って見えたらしい。
「一度だけ、あいつには助けられたこともある」
老人が砂海の方を見る。
夕方、水場から戻る途中だった。
子供だった老人は、少し遠くの砂丘まで歩いてしまったという。
大した距離ではなかった。
けれど、一つ砂丘を越えただけで集落の建物が見えなくなった。
似た景色ばかりで、戻る方向が分からなくなった。
「怖くなって、その辺をうろうろしていたらな。あいつが来た」
誰かが乗っていたわけでもない。
綱も付けていない。
ただ一頭で老人のところまで歩いてきた。
「首に掴まったら、そのまま集落まで連れて帰ってくれた」
「誰かが探しに出したわけじゃなかったんですか?」
「ああ。後で親父に聞いたが、誰も馬を出してないと言われた」
自分から来た。
老人には、それが一番強く残っているらしい。
話を聞きながら、俺はもう一度レイを見る。
神界から地上へ落ちた後、長い間、普通の馬に近い姿で暮らしてきた。
人に飼われたこともある。
場所を移りながら、今まで生きてきた。
五十年以上前に、この砂海を一頭で歩いていたとしても不思議ではない。
「それで、その馬はどうなったんですか?」
「いなくなった」
ある朝、いつもいた場所から姿を消していたという。
綱を切った跡もない。
何かに襲われた様子もない。
砂には、集落から外へ向かう蹄の跡だけが残っていた。
「親父たちは、また旅に出たんだろうと言ってたよ」
それきり。
老人は二度とその馬を見なかった。
「名前はあったんですか?」
「本当の名は知らん」
老人は首を横に振る。
「子供らは勝手に『砂駆け』って呼んでた」
「砂駆け?」
「砂の上でも妙に足取りが軽かったからな」
もちろん、八本脚で走ったわけではない。
神獣としての力を見せたわけでもない。
老人たちが知っているのは、今と同じ普通の馬に近い姿だけだ。
老人が苦笑する。
「だが、同じ馬のはずがない」
五十年以上前。
普通の馬なら、今ここに同じ姿で立っているはずがない。
「似てるだけなんだろう」
そう言いながらも、老人はまだレイを見ている。
「顔もそうだが……人を見る目まで似てる」
レイは何もせず立っていた。
老人が昔の話をしている間も、静かに聞いているように見える。
少し間が空いた。
老人が小さく呟く。
「……砂駆け」
レイの耳が僅かに動いた。
俺も気づいた。
ベルもレイを見る。
レイはそのまま数秒動かなかった。
それから、自分から老人へ一歩近づいた。
老人の表情が止まる。
ゆっくり片手を差し出した。
レイはその手の匂いを確かめるように鼻先を寄せる。
そして、軽く触れた。
それだけだった。
老人へ擦り寄ることもない。
鳴き声を上げるわけでもない。
けれど俺には、それで十分に思えた。
ベルが俺の近くまで来る。
「たぶん、覚えてるね」
「俺もそう思う」
小声で答える。
リュエラさんも少し離れたところから見ていた。
何も断定しない。
レイ自身の反応だけを見ている。
「この馬、いくつなんだ?」
老人が俺へ聞いた。
「正確には、俺も分からないんです」
嘘ではない。
レイが地上へ落ちた正確な時期は知らない。
「どこで手に入れた?」
「少し変わった縁で、一緒に旅することになりました」
老人は俺を見た後、もう一度レイを見る。
それ以上は聞かなかった。
「今は、何ていうんだ?」
「レイです」
「レイか」
老人が呼ぶ。
レイが顔を向けた。
少しして、俺は外していた砂踏魔馬具を持ち上げる。
「レイ、脚を見せてください」
呼ぶと、レイはすぐにこちらを向いた。
自分から一歩寄り、いつものように脚を上げる。
老人がその様子を見ていた。
「そうか」
小さく笑う。
「今はちゃんと名前があるんだな」
俺は何も返さず、レイの脚を確認した。
蹄に傷はない。
擦れも見当たらない。
砂踏魔馬具の当たる部分にも問題はなさそうだ。
水も飲んでいる。
毛並みも変わらない。
老人がレイの身体を眺める。
「いい状態だ」
「分かるんですか?」
「これだけ長く馬を見てりゃな」
脚。
蹄。
毛並み。
身体の張り。
そういうところを見れば、普段どう扱われているかはある程度分かるらしい。
「大事にされてるみたいだな」
「仲間ですから」
それだけ答える。
老人は少し目を細めて、レイを見た。
休憩の間に、俺たちも集落で平焼きパンと豆の煮込みを買って簡単に昼食を済ませた。
この先の交易路についても最低限だけ確認する。
特に道が荒れている場所はなく、今のところ砂嵐の報告もないらしい。
馬車の砂走橇輪も点検したが、滑走板と支持部に問題はなかった。
そろそろ出発する。
砂踏魔馬具をレイへ付け直す。
締め付け。
魔導部。
砂が入り込みやすい隙間。
一通り確認した。
老人は厩舎の入口まで来ていた。
俺たちが馬車へ向かう前に、レイへ声を掛ける。
「元気でな、レイ」
昔の呼び名ではなかった。
レイが老人へ耳を向ける。
小さく鼻を鳴らし、ほんの少し頭を下げた。
老人もそれ以上は何も言わなかった。
馬車へ戻る。
俺が御者台へ座り、リュエラさんが隣へ乗る。
後ろではみんなも客室へ入った。
レイが馬車の前へ立つ。
さっき聞いた名前を思い出す。
砂駆け。
この砂海を一頭で歩いていた頃、子供たちが勝手に呼んでいた名前。
「レイ、お願いします」
声を掛ける。
レイはすぐに振り返った。
それから前を向き、砂を踏み出す。
砂踏魔馬具の下で砂が締まり、砂走橇輪を広げた馬車がゆっくり動き始めた。




