第160話 砂海に灯る、一夜だけの街
砂丘の向こうに見えていた青い水面は、日が傾くにつれて少しずつ形を失っていった。
緑のように揺れていたものも輪郭が崩れ、気づけばいつもの砂の色へ溶けている。
「消えちゃった」
窓から外を見ていたベルが言う。
「やっぱり蜃気楼だったみたいだな」
何かが隠れていたわけでも、近づけば水場が現れるわけでもなかった。
それならそれでいい。
レイに馬車を任せたまま進んでいると、昼間の熱気も少しずつ弱くなってきた。
砂の色も、太陽が低くなるにつれて明るい黄から赤みのある色へ変わっていく。
そろそろ今夜の野営場所を考えようと思った頃だった。
「フトシ、あっち光ってるよ」
ベルに言われ、少し左を見る。
砂丘の向こうに小さな光が見えた。
最初は夕日が何かへ反射しているだけかと思った。
だが、近づくほど光は増えていく。
一つではない。
何十もの灯りが砂の上に並んでいた。
大きな天幕。
何台もの砂上用の荷車。
馬や見慣れない騎獣。
料理の煙。
その間を歩く人の姿まで見える。
「街……じゃないですよね?」
キリコが窓から眺める。
「建物がほとんどないしね」
俺も初めて見る光景だ。
近くを進んでいた商隊へ尋ねると、あそこは恒久的な集落ではないらしい。
砂海を行き交う商隊や旅人が、休みやすい地点で同じ日に集まる。
そうすると商人が余った品を並べ、料理人が食事を出し、旅職人が道具や馬車の修理を請け負う。
別方向から来た者同士が水場や砂嵐、砂丘の状態を教え合うこともあるという。
朝になれば、それぞれまた別の方向へ散っていく。
決まった日に必ず開かれる市場というわけでもない。
何組もの旅が偶然重なった時にだけ現れる、一夜限りの街のようなものらしい。
「今日はここにしようか」
わざわざ通り過ぎる理由はない。
俺たちも夜市の外側へ馬車を止めた。
レイから【砂踏魔馬具】を外し、脚と馬具を軽く確認する。
擦れもなく、内部へ砂が詰まった様子もない。
馬車の【砂走橇輪】も滑走板と支持部を見て、入り込んだ砂だけ落としておいた。
レイは相変わらず周囲を気にしているが、今夜は他の商隊にも見張りがいる。
「いつも通り見てもらっていいですけど、今日は少しくらいゆっくりしてくださいね」
レイは一度こちらを見てから、水と穀物を用意した場所へ向かった。
本当に休むかどうかは本人次第だろう。
俺たちはそのまま夜市へ入った。
今回は特に目的を決めない。
香辛料。
乾燥果実。
豆や雑穀。
色鮮やかな織物。
砂海で使う旅具。
魔物素材。
旅人向けの保存食。
並んでいる品も、オアサリアのものだけではなかった。
砂海を渡ってきた人たちが、それぞれ別の土地の商品を持ち寄っている。
都市の市場とは違う面白さがある。
日が完全に沈むと、気温は思っていた以上に早く下がった。
昼間なら冷たい飲み物ばかり目に入ったのに、今は鍋から立つ湯気や焼き物の火が妙にうまそうに見える。
俺たちも気になったものを少しずつ買った。
豆の煮込み。
薄い生地で包んだ焼き物。
香辛料を利かせた肉。
熱い茶。
一品ごとに立ち止まって詳しく考えるより、今日は歩きながら食べる方が楽しい。
そんな中、一軒の店の前で足が止まった。
「……貝?」
大きな桶に水が張られ、その中に黒い二枚貝が並んでいる。
手のひらより小さい程度で、殻には艶があった。
砂海の真ん中で海産物を見るとは思わなかった。
店主に聞くと、海沿いの地域から来た商隊が運んできたものだという。
冷却用の魔導具と保存設備を使いながら運ぶため安くはないが、こうした夜市では遠方の商品が混ざることも珍しくないらしい。
購入するなら状態は見ておきたい。
俺は桶の中の貝へ【鑑定】を使った。
【黒艶貝】
詳細:海沿いの岩礁や浅い海域に生息する二枚貝。黒く艶のある薄めで丈夫な殻を持ち、加熱すると身は適度な弾力を残して柔らかくなり、濃い旨味を含んだ汁が出る。殻が閉じており、異臭や傷みのない新鮮な個体は加熱料理に適している。
桶の中を見る限り、状態はいい。
割れた殻もほとんどない。
「これ、少し多めにもらえますか?」
今すぐ何を作るか決めたわけではない。
ただ、せっかく海から遠い場所まで運ばれてきた新鮮な貝だ。
必要量より少し多めに買い、時間停止のアイテムボックスへ収納した。
「何か作るの?」
ベルが聞く。
「まだ決めてないよ。砂漠の真ん中までこういうものが来てるのが面白くて」
それだけ言って、また夜市を歩き始めた。
少し先に、小さな料理店があった。
大きな天幕の下で、一人の男が鍋と焼き台を使っている。
聞こえてくる話からすると、商隊と一緒に砂海を移動し、こういう場所へ着いた時に料理を売っているらしい。
鍋の中では、羊に近い肉と豆が香辛料と一緒に煮込まれていた。
俺たちも人数分を頼み、平焼きパンと一緒に食べる。
柔らかく煮えた肉と豆にはしっかり塩気がある。
そこへ時々、小さく刻んだ乾燥果実の甘酸っぱさが入った。
甘い料理というほどではない。
肉の脂が続いたところで果実の酸味が入り、次の一口が軽くなる。
「この乾燥果実、最初から一緒に煮てるんですか?」
俺が聞くと、料理人が顔を上げた。
「ああ。最後に入れると浮くからな。途中から煮て、肉の汁を少し吸わせる」
「なるほど」
果実を別添えにするより、料理の中へ馴染んでいる。
「随分気にするな」
「俺も料理するので」
「料理人か?」
「はい。旅をしながら作ってます」
男は一度俺を見て、それから少し笑った。
「じゃあ、お前の料理も食わせてくれ」
「俺のですか?」
「こっちのを食ったんだ。料理人なら一皿くらい返してくれてもいいだろ」
勝負を挑んでいるような顔ではない。
単純に食べてみたいらしい。
それなら俺も嫌ではなかった。
「分かりました」
「そこ使え。今は空いてる」
店の端にある作業台を貸してくれた。
大量に作る必要はない。
相手の料理人と、俺たちが少し食べられるくらいで十分だ。
何を作るか考えたところで、さっき買った黒艶貝を思い出した。
アイテムボックスから必要量だけ取り出す。
「それ、向こうで売ってた貝か」
「はい。これを使ってみます」
日本にいた頃に知った料理が一つある。
貝殻の中へ米を詰めて蒸し煮にする、ミディエドルマだ。
手持ちのインディカ米、大玉葱、オリーブ・スライムから採った油、赤塩、香辛料、南方柑橘を揃える。
さっき食べた煮込みも印象に残っていたので、夜市で小粒の乾燥果実を少しだけ買い足した。
穏やかな甘酸っぱさのあるものを選ぶ。
まず黒艶貝の殻を洗う。
割れがないか。
口が不自然に開いていないか。
匂いに違和感がないか。
一つずつ確認し、問題のないものだけ残す。
殻を壊さないよう少し開き、中の状態も見る。
出てきた汁は捨てず、細かな汚れだけ濾して取っておいた。
次に大玉葱を細かく刻む。
オリーブ・スライムの油を入れた鍋でゆっくり炒め、甘い香りが出てきたところへ洗ったインディカ米を加えた。
赤塩と手持ちの香辛料。
細かく刻んだ乾燥果実。
そこへ濾した黒艶貝の汁も少量入れる。
米全体へ油と貝汁をまとわせながら火を入れる。
ここでは炊き上げない。
後で殻の中でも火が入るので、中心に硬さを残したところで止める。
「その米を入れるのか?」
料理人が横から見る。
「はい。膨らむ分を残して詰めます」
黒艶貝へ米を入れていく。
詰めすぎれば、米が膨らんだ時に窮屈になる。
殻の大きさを見ながら量を変え、閉じられる程度に詰めた。
状態を確かめた後は、同じ作業を【調理の超加速】で手早く進める。
詰め終えた黒艶貝を鍋へ隙間なく並べた。
残しておいた貝汁と少量の水を加え、蓋をする。
貝そのものからも水分が出る。
余計な水を入れて、味を薄くする必要はない。
火を入れながら、途中で鍋の中を確かめる。
米の膨らみ。
殻の開き方。
残っている水分。
香り。
強火で急いで炊き切るのではなく、貝の身が硬くなりすぎないところで火を調整する。
潮の濃い香りに、炒めた大玉葱と香辛料の匂いが重なってきた。
火を止めた後はそのまま少し休ませる。
残った汁を米が吸ったところで仕上がりだ。
黒い殻を皿へ並べ、南方柑橘を添える。
【黒艶貝の詰め飯】。
「殻を開いて、片方を匙みたいに使うと食べやすいです」
料理人が一つ手に取る。
「貝の中に米か……」
不思議そうに見ながら南方柑橘を少し搾り、貝身と米を一緒に口へ入れた。
ゆっくり噛む。
何も言わずに殻を置く。
そして二個目を取った。
俺も一つ食べる。
最初に南方柑橘の酸味がくる。
その後から炒めた大玉葱の甘味と、油をまとった米。
香辛料の香りが続き、黒艶貝を噛むと濃い旨味が広がった。
貝汁を米へ吸わせているので、身と米が別々の味にならない。
貝を噛んで出た汁まで、そのまま米の味へ繋がる。
時々入る乾燥果実の甘酸っぱさも重くならず、いいアクセントになっていた。
熱々だけでなく、少し冷めても食べやすそうだ。
一個ずつ手に取れるのも、こういう夜市には合っている。
「なるほど」
二個目を食べ終えた料理人が言う。
「貝の汁を米に食わせるのか」
「はい。米だけ先に完成させないのが大事ですね」
「乾燥果実も入れたな」
「さっきの煮込みが面白かったので。貝にも合いそうだと思って」
料理人が笑った。
「食ったばかりで使うのか」
「ちょうどいいのがあったので」
俺も相手の煮込みで一つ覚えた。
向こうもこの料理から何か持ち帰る。
料理人同士なら、それくらいの交換で十分だと思う。
ベルたちにも同じものを出す。
メイとシルクには殻を外し、貝身と米を同じ味のまま食べやすい量と温度にして渡した。
キリコは二個目から殻を匙にする食べ方にも慣れている。
「これ、殻の中に全部入ってるから食べやすいね」
「旅の途中でも食べやすそうだよね」
リュエラさんも南方柑橘を搾り、一つ食べた。
「貝の味が米に移ってるのね」
「そういう料理です」
隣ではウンディーネも静かに次の一個へ手を伸ばしている。
料理人は自分の煮込みも少し持ってきた。
結局、一皿ずつ交換するつもりが、その場で小さな食卓を囲むことになった。
食べ終わる頃、料理人がこの先の話を少し教えてくれた。
「大きな街へ行くなら、市場は見ておけ」
「市場ですか?」
「水路沿いで育てた作物も集まるし、乾燥果実も香辛料もここより種類が多い。砂海で採れる食える植物もある」
詳しい名前までは聞かない。
実際に並んでいるところを自分で見たい。
「ありがとうございます。行ったら見てみます」
「俺もこの貝飯は覚えとく」
料理人はそう言って、また自分の鍋へ戻っていった。
俺たちも夜市をもう少し歩いた後、馬車を止めた外側へ戻る。
昼とは別世界のように砂が冷えていた。
少し離れた夜市では、まだ灯りが並んでいる。
料理の煙。
香辛料の匂い。
誰かの笑い声。
遠くでは楽器らしい音も聞こえた。
その先には、灯りのない暗い砂丘が続いている。
普段の野営なら、周囲にいるのは俺たちだけという夜も多い。
今夜は近くに何組もの旅人がいる。
明日には別々の方向へ向かう相手ばかりだ。
特に何かを話すでもなく、しばらく夜市の灯りを見てから休んだ。
朝になると、昨夜の街はもう消え始めていた。
大きな天幕が畳まれ、商品が箱へ戻されていく。
騎獣へ荷を載せる者。
砂上用の荷車を繋ぐ者。
水を補給して出発する商隊。
昨日料理を交換した男も、自分が同行する隊のところで荷物をまとめていた。
目が合う。
「じゃあな、旅の料理人」
「はい。お気をつけて」
それだけ言って別れた。
俺たちもレイへ砂踏魔馬具を付け、馬車の砂走橇輪を確認する。
買った黒艶貝の残りは、時間停止のアイテムボックスに入っている。
準備を終えてから振り返ると、最後まで残っていた大きな天幕がちょうど畳まれるところだった。
昨夜は灯りと人で埋まっていた砂の上に、もう広い空間が戻っている。
一つの商隊が俺たちの横を通り、そのまま遠くの砂丘へ向かっていく。
別の一団は、まったく違う方角へ進んでいた。
一晩だけ同じ場所へ集まっていた旅人たちが、朝の砂海へそれぞれ散っていった。




