第159話 砂を踏む魔馬具と、砂を滑る馬車
国境の交易拠点を出てしばらくは、昨日までとそれほど変わらなかった。
砂海の中へ続く交易路は人や荷馬車が行き交うために整えられており、地面もしっかり締まっている。
大型の旅客馬車でも、普通の車輪のまま問題なく進めた。
だが、砂海の奥へ入るにつれて少しずつ様子が変わってきた。
風で運ばれた砂が道を覆い、車輪の跡も深くなる。
さらに進むと、前輪が柔らかい砂へ沈んだ。
「おっと」
御者台から手綱を調整する。
レイが少し力を入れただけで、馬車は何事もなかったように抜け出した。
本人にとっては大した抵抗ではないらしい。
けれど、俺が気になったのはレイではなかった。
一度馬車を止め、車輪の周りを見る。
砂へ沈んだ跡が深い。
このくらいなら壊れることはないだろうが、同じ状態を長時間続ければ車輪や車軸へ余計な負担が掛かる。
「レイなら引けると思うけど、馬車の方が持たないな」
レイがこちらを見る。
「いや、レイが悪いって話じゃないですよ」
むしろ、引けてしまうからこそ怖い。
力任せに進めば、馬車側の限界に気づくのが遅れるかもしれない。
昨日の国境拠点でも、本格的な砂地へ入るなら砂海向けの装備や移動手段があると聞いた。
ちょうど先の方には、街道沿いにいくつもの建物が集まっている場所が見えていた。
荷馬車が何台も止まり、車輪の周囲で作業している人もいる。
「一度、あそこで聞いてみよう」
レイへ声を掛け、ゆっくり馬車を進めた。
近づいてみると、大きな町ではなかった。
馬具屋。
馬車の整備工房。
補給所。
水場。
簡易的な宿泊施設。
小さな売店。
本格的な砂海へ入る前に、旅人や商隊が装備を整えるための場所らしい。
馬車を止めて周囲を見る。
一台の荷馬車では、車輪の下へ幅の広い板のような部品を取り付けていた。
別の場所では馬の脚へ、見慣れない馬具を装着している。
「あれかな」
まずは馬具を扱っている店へ行く。
店員へ、これから大型旅客馬車で砂海を進みたいと相談すると、すぐにレイの脚を見た。
「この馬が牽くんですか?」
「はい」
店員が次に俺たちの大型馬車を見る。
少し間があった。
「……一頭で?」
「今のところは」
レイ自身は何も気にせず立っている。
「相当力があるんですね」
「ええ。かなり」
それ以上は説明しない。
店員はしゃがんでレイの蹄や脚を確認した。
「脚もきれいですし、状態はいいですね。ただ、これだけ力があっても深い砂では別です」
案内されたのは、脚の下部へ取り付ける一式の馬具だった。
「【砂踏魔馬具】です」
蹄鉄とはかなり形が違う。
蹄だけではなく、その上から繋の辺りまで支えるような構造になっている。
「砂へ足を置いた時だけ、蹄の下と周囲を一時的に締めます」
「固めるんですか?」
「石みたいにはなりません。足が深く沈まず、きちんと蹴れる程度です」
店員が見本を砂の上へ置き、魔導部を作動させて見せる。
確かに全部が固まるわけではない。
装備の真下だけ、柔らかかった砂の粒が寄って沈みにくくなっている。
少し時間が経つと、また普通の砂へ戻った。
「歩いた跡がずっと道になるわけじゃないんですね」
「ええ。装着した馬の踏み込みを助けるだけです」
砂では蹄が沈み、せっかく踏み込んでも力が逃げる。
牽引する馬なら、その負担はさらに大きい。
砂踏魔馬具は馬そのものを強くする装備ではなく、力を地面へ伝えやすくするものらしい。
「レイには必要ですか?」
俺が聞くと、店員は少し考えた。
「この馬なら多少の砂はそのまま進めるでしょう。ただ、長距離なら付けた方がいいです。力がある馬でも、足を取られ続ければ余計に疲れますから」
実際には、レイなら神馬の力でどうにでもできるのだろう。
だからといって、わざわざ不便な状態で走らせる理由はない。
普通の馬姿のまま地上を旅するなら、こちらの道具を使えばいい。
「分かりました。候補に入れます」
次は馬車の方だ。
隣の整備工房へ移動し、同じことを相談する。
職人は俺たちの馬車を一周して確認した。
「いい馬車ですね」
「長く使うつもりで買ったので」
「でしたら、車輪を砂地専用へ替えるより追加式がいいでしょう」
工房の奥から見せてもらったのが、【砂走橇輪】だった。
大きな車輪そのものを取り外すわけではない。
車輪の周囲へ支持部を追加し、その下へ幅広く湾曲した板を展開できるようにする装備らしい。
見本を動かしてもらう。
普段は板を持ち上げて格納しておき、普通の道では今まで通り車輪を使う。
砂へ入る時には機構を動かして、車輪の下側へ橇のような滑走板を下ろす。
「車重をこの広い面へ分散します」
職人が滑走板を叩く。
「細い車輪だけだと沈みますが、これならかなり違います」
「車輪は浮かせるんですか?」
「完全には浮かせません。回転は残して、進行方向を安定させます」
滑走板には魔法陣も組み込まれていた。
ただし馬車そのものを空中へ浮かせるようなものではない。
砂地でだけ荷重を僅かに軽くし、滑走板と砂の抵抗を減らす補助だという。
「つまり、馬に引いてもらうのは変わらない」
「もちろんです。深い砂丘なら速度も落ちますし、大きな馬車ほど牽引力も必要ですよ」
それくらいの方が安心できる。
魔導具だけで勝手に走るような仕組みなら、壊れた時に困る。
一通り聞いた後、値段も確認する。
砂踏魔馬具はレイの脚に合わせた調整込み。
砂走橇輪は俺たちの大型馬車用なので、既製品をそのまま付けるわけにはいかない。
両方合わせれば数百万ゴールドになるという。
店員も少し言いにくそうに説明した。
「かなりの額になりますので、一度お考えになっても」
「耐久性はどのくらいですか?」
値段より先に、そこが気になる。
「定期的に点検すれば長く使えます。砂踏魔馬具は摩耗する部分だけ交換できますし、魔導部も単体で修理できます」
「砂走橇輪は?」
「滑走板と支持部は交換式です。魔法陣も独立していますから、全部を作り直す必要はありません」
「普通の街道では格納したままで問題ないですか?」
「ええ。雪道向けの装備などを追加する場合も、干渉しないよう取り付けられます」
それならいい。
今後も旅は続く。
また砂地へ来ることもあるかもしれない。
何より、レイへ無駄な負担を掛けず、馬車そのものも守れる。
安全に関わる道具なら、金を惜しむ理由はない。
「では、両方お願いします」
店員が少し目を瞬いた。
「よろしいのですか?」
「はい」
隣にいたベルが俺を見る。
「結構高かったよ?」
「長く使えるし、安全のためだから」
「そっか」
それ以上は言わなかった。
俺が旅道具には金を掛けることを、もうみんな知っている。
リュエラさんも馬車を見ながら頷く。
「長く旅するなら、いいと思うわ」
レイも嫌がる様子はない。
むしろ、自分の脚へ付けられる見慣れない馬具を気にしているようだった。
先にレイの砂踏魔馬具を調整することになった。
店員が脚の太さと蹄の形を一つずつ確認する。
普通の馬姿なので脚は四本だ。
関節の動きを邪魔しない位置。
締め付けすぎない長さ。
内部へ砂が入り込みにくい留め方。
細かく合わせていく。
俺も横で着脱方法を教えてもらった。
「毎日見た方がいいですか?」
「砂地を走った日は必ずですね。擦れと砂の入り込み、それから魔導部の傷を確認してください」
「分かりました」
神馬だから大丈夫では済ませない。
馬具を使うなら、その馬具の手入れも俺たちの仕事だ。
調整が終わり、レイを砂地へ連れていく。
「歩いてみてもらえますか?」
レイが一歩踏み出した。
蹄が砂へ触れる。
少しだけ沈み、その位置で止まった。
足元の砂が締まっている。
次の一歩も同じだ。
レイ自身も違いが分かるらしく、一度足元を見る。
さらに何歩か歩いた後、少し速度を上げた。
砂を蹴っているのに、踏み込みが逃げない。
硬い街道を歩いている時に近い動きだった。
「どう?」
ベルが聞く。
レイが戻ってきて、小さく鼻を鳴らす。
「気に入ったみたい」
どうやら便利なものは素直に便利らしい。
神界の神獣だからと、人間の道具を軽く見るようなこともない。
もう少し走って感触を確かめたそうにしていたが、馬車の作業もある。
「後でちゃんと試しましょう」
レイは一度こちらを見た後、大人しく戻ってきた。
馬車の方は時間が掛かる。
俺たちが買った大型旅客馬車を工房へ入れ、職人たちが車輪周りへ専用の支持部を固定していく。
滑走板。
展開機構。
魔法陣。
御者台から操作するための切り替え部。
元々の車輪や衝撃吸収機構を邪魔しないよう、一つずつ位置が調整されていた。
作業を見ているだけでも面白い。
ただ、邪魔になりそうなので途中から少し離れた。
近くの売店へ行くと、屋根の脇に肉厚の棘植物が何株か植えられていた。
昨日、炭火焼きで食べたものとよく似ている。
その一部には色鮮やかな果実が付いていた。
売店では、その果実を使った冷たい飲み物も売っている。
せっかくなので人数分を買う。
果肉を潰して濾し、水と少量の蜜、それに僅かな赤塩を加えたものらしい。
一口飲む。
昨日食べた肉厚部分とは全然違う。
しっかり甘酸っぱく、果汁も多い。
少しだけ青い香りが残るが、最後の微かな塩気もあって乾いた喉にはちょうどよかった。
「同じ植物でも、実はこんな味なんだな」
市場へ着いたら、ちゃんと見てみたい。
今はその程度にして、作業が終わるのを待つ。
しばらくして工房から声が掛かった。
馬車の周囲には、今までなかった部品が増えている。
だが、滑走板を格納した状態なら思ったほど目立たない。
職人が御者台の近くにある操作部を見せてくれた。
「硬い道ではこのままです。砂へ入る前に停止して、こちらを作動させてください」
操作すると、車輪の左右から支持部が下がる。
続いて大きな滑走板が展開され、車輪の下側へ回り込んだ。
完全に車輪を覆うわけではない。
確かに、大きな車輪の下へ橇を履かせたような形だ。
「戻す時は逆ですね」
「はい。ただ、砂が噛んでいる場合は先に落としてから収納してください」
魔導部の確認方法。
滑走板の摩耗。
支持部の固定。
交換用部品についても教えてもらう。
予備部品もいくつか一緒に購入した。
最後に試走だ。
職人が馬車の前へ立つレイを見る。
「やはり、この一頭で試すんですか?」
「まずは」
「この大きさですと、砂海では複数頭を勧めますが……」
「無理そうなら追加を考えます」
短距離の試走なら問題ないということで、七人で馬車へ乗る。
俺は御者台。
隣にはリュエラさん。
砂踏魔馬具を付けたレイの前には、整備された道から続く試走用の深い砂地がある。
砂走橇輪を展開する。
幅広い滑走板が砂へ触れた。
「レイ、無理はしなくていいから」
レイが一度耳を動かす。
俺が発進の合図を出した。
一歩。
砂踏魔馬具の下で砂が締まる。
レイの身体が前へ出る。
牽引力が馬車へ伝わった。
今までなら車輪がずぶりと沈んでいたはずだ。
だが、滑走板が広く砂へ乗り、車体は僅かに沈んだだけで前へ滑った。
二歩。
三歩。
速度が乗る。
街道を走る時ほどではない。
それでも、さっきまで普通の車輪で砂へ入った時とはまるで違う。
細い車輪で砂を掘りながら進む感じがない。
滑走板が車重を受け、魔導補助で抵抗が少し軽くなっているのが分かる。
「おお……」
思った以上に自然に進む。
試走を見ていた職人の方から声がした。
「装備は問題ない! だが……」
レイを見る。
「本当に一頭で引くのか、その馬」
「力が強いんです」
もう何度目か分からない説明だ。
レイが少しだけ頭を高くした。
得意そうに見える。
試走を終えて戻ると、職人から改めて注意を受けた。
「馬がどれだけ引けても、馬車には限界があります」
「はい」
「砂丘の下りで速度を出しすぎないこと。急に曲げないこと。滑走板へ横から強い力を掛けると支持部を傷めます」
レイの走力なら、こちらが止めなければかなりの速度を出せるだろう。
だからこそ、馬車に合わせる必要がある。
「レイが速く走れても、この馬車で無理な速度は出しません」
職人が頷いた。
それで全部の確認は終わった。
支払いを済ませる。
砂踏魔馬具の予備部品。
砂走橇輪の交換部材。
着脱と点検の方法も、もう一度確認した。
準備はできた。
中継拠点を出て少し進む。
ここまでは、まだ踏み固められた交易路が続いている。
やがて、その道が途切れた。
その先には、風で形を変えた砂丘が連なっている。
車輪の跡はある。
だが、今までのような固い道ではない。
完全な砂地だ。
俺は一度馬車を止めた。
砂走橇輪を展開する。
レイの脚には砂踏魔馬具。
御者台から前を見る。
ここまでは砂海の中に作られた道を走ってきた。
これからは、その砂そのものを進む。
「お願いします、レイ」
レイが一歩踏み出す。
蹄の下で砂が締まる。
二歩目。
三歩目。
馬車の滑走板が砂を押し分けるのではなく、その表面へ乗るように進み始めた。
車輪の音が変わる。
硬い地面を転がる音がなくなり、代わりに砂を擦る低い音が続く。
揺れ方も今までとは違う。
窓からベルとキリコが外を見ている。
周囲には連なる砂丘。
風で細い筋が刻まれた砂面。
遠くには水路沿いらしい緑も僅かに見える。
別の方向では、何台もの荷車を連ねた商隊が砂丘の間を進んでいた。
「本当に砂の上を走ってる……」
キリコの声が客室から聞こえる。
俺も同じ気持ちだった。
オアサリアへ入った実感は昨日からあった。
でも、自分たちの馬車でこの砂の上へ踏み出したことで、ようやく砂海を旅し始めた感じがする。
砂丘を一つ越えたところで、ベルが窓から身を乗り出しかけた。
「フトシ、あそこ」
「ん?」
指された方向を見る。
遠くの砂の上に、何かが揺らめいている。
青っぽい水面のようにも見える。
その周りに緑があるようにも見えた。
「……水?」
キリコも見る。
俺は少し目を凝らした。
距離感が妙だ。
近づいているのか、離れているのかも分かりにくい。
日本で見たことのある現象を思い出す。
「……蜃気楼かな」
ただ、この世界でも本当にただの蜃気楼なのかは分からない。
隣のリュエラさんも答えを言うことなく、揺らめく景色を眺めていた。
レイは変わらない足取りで砂を踏む。
その後ろを、砂海仕様になった馬車が滑るようについていく。
遠くの揺らめきを残したまま、俺たちは砂丘の間をさらに奥へ進んでいった。




