第158話 砂海の入口と、炭火香る昼餉
北へ進むにつれて、街道の周りから大きな木がほとんど消えていった。
低い草とまばらな灌木が残るだけで、地面には乾いた土と砂が目立つ。
吹いてくる風にも、以前のような湿り気はない。
昼前。
御者台から街道の先を見ていた俺は、遠くの景色へ目を細めた。
「……あれか?」
地平線の近くに、淡い色の大地が広がっている。
最初は乾いた荒野が続いているだけにも見えた。
だが、馬車が進むにつれて色の境目がはっきりしてくる。
草も土も見えない。
風に表面を撫でられた砂が、遠くまで続いていた。
客室の窓が開く。
ベルが顔を出した。
「……あれ、全部砂?」
「たぶん」
日本でも写真や映像なら見たことはある。
けれど、実際に目の前へ広がる砂漠は思っていたよりずっと広い。
どこまで続いているのか、ここからでは分からなかった。
「砂海って呼ばれるのも分かるな」
街道はその手前へ向かって伸びている。
やがて、砂海との境に大きな施設群が見えてきた。
高い壁で囲まれた都市というより、広い交易拠点に近い。
何台もの荷馬車が並び、旅人や商人が行き交っている。
厩舎。
宿。
倉庫。
市場らしい建物。
国境の確認を行うための設備もまとまっていた。
俺たちも馬車の列へ入り、順番を待つ。
係員へ冒険者カードを渡す。
俺たちに続いて、リュエラさんも自分のFランクカードを普通に差し出した。
本人は少し楽しそうだった。
レイも今は普通の馬姿なので、特に何か言われることはない。
旅の目的と人数、馬車の所有者などを確認され、手続きは問題なく進んだ。
その間に、俺は拠点の中を見回す。
最初に気になったのは水だった。
砂漠の入口なのに、建物の間を細い水路が通っている。
ただし、水が大量に流れているわけではない。
石造りの細い溝を一定量の水が流れ、途中には板や小さな水門がいくつも設けられている。
少し離れたところには蓋付きの大きな貯水槽もあった。
家畜へ水を飲ませる場所。
人が水を汲む場所。
道具や荷車を洗う場所。
それぞれ別になっている。
洗った後の水も、そのまま地面へ捨てず別の溝へ流されていた。
「こうやって使うんだ……」
ウンディーネが水路のそばを見ている。
水そのものが珍しいわけではないらしい。
それよりも、流れの分け方を気にしているようだった。
以前、商人ギルドで聞いた話を思い出す。
水をいくらでも作り出す国ではない。
水を探し、溜め、運び、無駄にしないよう使うのが上手い国。
まだ入口へ来ただけだが、その意味が少し分かった気がする。
手続きの大半が終わった頃には、ちょうど昼時になっていた。
朝から馬車で進んでいたので、俺も腹が減っている。
「先に何か食べませんか?」
反対する人はいなかった。
馬車を指定された場所へ止め、レイにも水を用意してから市場の方へ向かう。
何軒かの屋台が並んでいた。
焼いたパン。
豆。
肉。
果物らしいもの。
知らない香辛料の匂いも混じっている。
その中で、炭火の香りが強く流れてきた。
肉の脂が焼ける匂いと、香辛料の香りが重なっている。
自然と足が止まった。
「いい匂いね」
リュエラさんも同じ方向を見る。
屋台の前では、一口大に切った肉を串へ刺して焼いていた。
羊か山羊に近い家畜の肉らしい。
隣では丸く平たいパンも焼かれている。
潰した豆のペースト。
白い発酵乳へ香草を混ぜたソース。
棘を落とした肉厚の植物を炭火で焼いたものも並んでいた。
「ここにしようか」
普通に列へ並ぶ。
順番が来たところで人数分を頼み、代金を払った。
メイとシルクの分も同じ料理を用意してもらい、串だけ外して食べやすくする。
焼き手は手際がいい。
串を炭の強い場所へ置き、表面へ焼き色を付ける。
脂が多い部分から火が上がれば、少し弱い場所へ移す。
全部を同じ時間だけ焼くのではなく、火が入ったものから順に上げていた。
料理人なので、どうしても手元を見てしまう。
けれど口を出すことはない。
初めて食べる土地の料理だ。
まずは、その土地の人が作ったものをそのまま食べたい。
受け取った串焼きは、まだ表面から脂が弾けていた。
席代わりの長椅子へ座り、一口食べる。
炭火の香ばしさが最初にくる。
噛むと中から熱い肉汁が出た。
牛肉とは違う、少し癖のある香りがある。
ただ、それを消しているわけではない。
肉の脂に独特の甘い風味があり、香辛料と炭火の匂いが重なることで食欲を誘う香りへ変わっている。
「うまいな」
下味は赤塩と何種類かの香辛料が中心らしい。
香りは強いが、肉の味まで分からなくなるほどではない。
店の人が白いソースを指した。
「パンと一緒に食べるなら、それも掛けてみな」
勧められた通り、平焼きパンへ肉を置く。
発酵乳と香草の冷たいソースを少し掛け、そのまま包んで食べた。
温かい肉の脂へ、発酵乳の酸味が入る。
香草の香りと僅かな塩気も加わり、一度口の中が軽くなった。
肉汁とソースを吸った部分のパンは柔らかい。
外側には焼きたての香ばしさが残っている。
「なるほど……一緒に食べるところまで含めてなんだ」
串だけでも十分うまい。
でも、パンとソースを合わせると役割が変わる。
ベルはもう自分で肉をパンへ挟んでいた。
「これ、包む方が好き」
「合うよね」
キリコはさらに豆のペーストまで塗っている。
俺も少し真似してみた。
柔らかく煮た豆を粗く潰したもので、完全な滑らかさではなく少し粒が残っている。
油脂と赤塩、香辛料の風味があり、豆そのものの穏やかな甘味も感じる。
その上へ肉を乗せる。
肉の脂。
発酵乳の酸味。
豆のコク。
小麦の香り。
単品で食べた時よりも、全体がしっかりした食事になった。
もう一つ気になっていたのが、炭火で焼かれた肉厚の植物だ。
以前、メリディアの商人ギルドで聞いた食用の棘植物だろう。
表面には軽い焦げ目が付いている。
口へ入れると、見た目よりずっと水分が多かった。
しゃくっとした歯触りのあとに、少し青い香りと穏やかな酸味がくる。
乾いた土地に生えているのに、噛むほど瑞々しい。
「これも面白いな」
市場へ行ったら、改めて探してみたい。
今はそれだけ覚えておく。
最後に飲み物へ手を伸ばす。
白っぽい見た目だったので、最初は甘いヨーグルト飲料のようなものを想像した。
飲んでみると全然違った。
「甘くないんだ」
冷たい発酵乳を水で伸ばし、僅かに塩を加えたものらしい。
爽やかな酸味。
軽い塩気。
乳のコク。
串焼きの脂と香辛料が残った口が、すっと軽くなる。
この暑く乾いた場所なら、甘い飲み物よりこっちの方が飲みやすいかもしれない。
ウンディーネも自分の杯をしばらく見てから、もう一口飲んでいた。
「これ、水を混ぜてる」
「分かるの?」
「うん。でも、薄くしただけじゃない」
少し気に入ったらしい。
リュエラさんも串焼きとパンを食べている。
「昔も、こういう食べ方はあったわ」
「味も同じですか?」
「似てるけど、香辛料の使い方は少し違う気がする」
それ以上は昔の話で説明しようとしなかった。
今ある料理を、今の味として食べている。
レイには別に穀物と野菜、それに果物を買ってある。
俺たちも十分食べたところで市場を出た。
「最初から当たりだったな」
まだ国へ入ったばかりだ。
市場をちゃんと見れば、他にも知らないものがありそうだった。
そんなことを考えながら歩いていると、拠点の奥から鐘が鳴った。
一度ではない。
短い音が続く。
周囲の空気が変わった。
兵士が武器を抜く様子はない。
代わりに、水路の近くにいた作業員たちが一斉に走り出した。
「上流で降った! 乾谷を空けろ!」
誰かの大声が響く。
俺は空を見る。
青い。
雨雲らしいものも見えない。
「こっちは降ってないですよね?」
「遠くだわ」
リュエラさんが北西の方を見る。
ウンディーネも同じ方向へ顔を向けた。
『水、来る』
交易拠点の少し外側には、普段は水の流れていない浅い谷筋が通っていた。
さっきまでは乾いた砂と石しかなかった場所だ。
そこへ人が集まり始める。
ただし、逃げているだけではない。
水門を開ける者。
板を外す者。
太い縄を運ぶ者。
脇へ掘られた水路を確認する者。
水魔法を使えるらしい人たちも、何人か配置へついていた。
遠くから低い音が聞こえる。
最初は風のようだった。
だが、少しずつ大きくなる。
やがて乾いた谷の向こうから、濁った水が見えた。
土砂を含んだ茶色い流れ。
枝や石も混ざっている。
想像していたより速い。
「鉄砲水か……」
こちらで雨が降っていなくても、離れた場所の雨が谷へ集まって流れてきたらしい。
俺たちは邪魔にならないよう少し下がる。
作業員たちは慣れているようだった。
流れを完全に止めようとはしない。
水魔法を使う人たちが勢いを横へ分ける。
土砂の多い水は広い溝へ流し、比較的濁りの少ない側を別の水路へ送っている。
人力で水門を操作し、次々と流れを切り替えていく。
「水を捨てないんだ……」
俺が呟く。
災害として逃がすだけではない。
危険な勢いを弱めながら、使える水は貯めようとしている。
ウンディーネは何も言わず、その動きを見ていた。
その時。
大きな音がした。
流れてきた太い木が、水路の分岐手前へ引っ掛かった。
そこへ別の枝や石が詰まる。
流れが急に盛り上がった。
「まずい! 東側へ溢れるぞ!」
水が本来向かうはずのない方向へ広がり始める。
その先には荷車と家畜が集められていた。
作業員が近づこうとするが、水圧が強い。
足元にも水が回り始めている。
俺は引っ掛かった流木を見る。
水路のすぐ近くまで寄るのは危険だが、如意の金剛棒なら離れたところから力を掛けられる。
「手伝えるかもしれません!」
近くで指示を出していた男性へ声を掛ける。
「何ができる!?」
「この棒を伸ばせます。離れたところから、あの流木を押せると思います」
俺は背負っていた如意の金剛棒を手に取る。
男性は一瞬こちらを見た後、すぐに流木へ視線を戻した。
「なら頼む! あの木を水路の中央から外してくれ! 右側へずらせれば流れが抜ける!」
「分かりました!」
俺は安全に立てる位置まで移動する。
「ウンディーネ、少しだけ流れを弱められる?」
『うん』
全部の水を止める必要はない。
俺が金剛棒を当てる数秒だけでいい。
ウンディーネが水へ手を向ける。
障害物の周りだけ流れが分かれ、水圧が少し落ちた。
如意の金剛棒を伸ばす。
離れた場所から先端を流木へ当て、力を掛ける。
最初は動かない。
水を吸った木へ石まで絡んでいる。
「もう少し右だ!」
作業員の声に合わせて位置を変える。
その時、上流から別の枝が流れてきた。
キリコが斜めに魔力壁を出す。
枝が壁へ当たり、作業員のいない側へ流れた。
ベルも飛沫と砂埃を風で横へ逃がしている。
視界がかなり楽になった。
「今です!」
ウンディーネがさらに流れを逸らす。
俺は金剛棒へ力を込めた。
太い流木が少し持ち上がる。
その隙間から水が抜ける。
「動いた! そのまま!」
もう一度押す。
流木が横へずれ、絡んでいた石が崩れた。
一気に水が本来の水路へ流れ込む。
「下がれ!」
言われる前に金剛棒を縮め、後ろへ下がる。
溜まっていた水が勢いよく抜けていった。
近くではリュエラさんが作業員たちの補助へ回っていた。
足を取られそうになった人の体勢を支え、流れてきた石がぶつかりそうになれば軌道を僅かに逸らしている。
自分で水路を全部作り直したり、濁流を消したりはしない。
現場の人が作業できる状態だけを整えていた。
少し離れた場所では、レイが俺たちの馬車を高い場所へ移している。
ついでに逃がしきれていなかった荷車も一台、別の馬と一緒に安全な場所まで牽いていた。
普通の馬の姿なので、力を出しすぎないようにはしているらしい。
障害物がなくなった後は、俺たちが入る必要はなかった。
地元の作業員たちが次々と水門を操作する。
濁りの強い水は広い沈殿用の場所へ。
そこから分けられた水が、別の貯水路へ流れていく。
地下へ落ちる水路も見えた。
さっきまで危険な濁流だったものが、少しずつ管理された水へ変わっていく。
ウンディーネがその様子をじっと見ていた。
『すごい』
珍しく、短くそう言った。
『水、止めてない』
「うん」
『来た水、ちゃんと残してる』
大量の水を操れるウンディーネから見れば、扱っている量そのものは大したことではないのかもしれない。
それでも、人間が限られた水をどう使うのかという部分が気になるのだろう。
作業が落ち着いた頃には、乾谷の激しい流れもかなり弱くなっていた。
リュエラさんは貯水設備を眺める。
「昔は、ここまで整ってなかったわ」
「変わったんですね」
「うん」
少し笑う。
「だから来てよかった」
昔を知っているからこそ、今の姿を見る意味があるらしい。
現場の責任者へ礼を言われたが、俺たちは頼まれたところを少し手伝っただけだ。
その後、途中になっていた国境側の確認へ戻った。
馬車の通行記録と残っていた手続きを済ませる。
「確認できました。砂水王国オアサリアへようこそ」
係員から冒険者カードを返してもらう。
これで正式に入国したことになる。
フトシ。
ベル。
メイ。
シルク。
ウンディーネ。
キリコ。
俺たち六人にとっては初めての国だ。
リュエラさんにとっては、遥か昔以来の再訪になる。
俺たちは馬車へ戻る。
レイへ馬具を整え、俺が御者台へ座った。
交易拠点を抜けると、目の前には広い砂海がある。
その中へ交易路が続いていた。
道の近くには人の手で管理された細い水路も伸び、その先には僅かに緑の見える場所がある。
砂の国へ来て、最初に食べたのは炭火で焼いた肉だった。
その直後には、砂漠とは思えないほど大量の水が押し寄せた。
けれど、この土地の人たちはその水まで無駄にせず使おうとしていた。
「行こうか、レイ」
レイが歩き始める。
大型馬車の車輪が、オアサリア側の交易路へ乗った。
俺たちはそのまま、砂海の奥へ向かって進み始めた。




