第157話 立ち往生の商隊と、砂の国の便り
あれから数日。
リュエラさんとレイが加わったおかげ……なのかは分からないが、驚くほど何事も起こらない旅が続いていた。
魔物に襲われることもない。
盗賊が出ることもない。
馬車も問題なく走り、天気まで大きく崩れなかった。
「最近、魔物も全然来ないね」
客室の窓から外を見ていたベルが、ふと思い出したように言った。
「確かに」
街道から離れたところで魔物らしい影を見ることはあるが、こちらへ近づいてくるものはほとんどいない。
俺は御者台から前を見ながら、少しだけ隣を見る。
今日はリュエラさんも客室にいる。
目の前では、普通の馬にしか見えない姿のレイが馬車を牽いていた。
もしかすると、あの二人から何かを感じ取って魔物が避けているのかもしれない。
ただ、確かめようもない。
休憩の時に話すと、リュエラさんは首を横に振った。
「私は何もしてないわよ」
レイも特に反応しない。
なら、考えても仕方がないか。
何も起きないなら、それが一番いい。
この数日で、俺も御者台に座る時間が増えていた。
発進や停止。
緩い曲がり道。
対向する荷馬車とのすれ違い。
坂道での速度調整。
馬具や脚の確認も、店で最初に教わった時ほど手間取らなくなってきた。
まだ御者を仕事にしている人と比べられるような腕ではないが、レイへ全部合わせてもらっているだけの状態からは少し進んだと思う。
もちろん、レイ自身が賢いことに変わりはない。
俺が伝える前に深い轍を避けることもあるし、対向車との距離も自分で見ている。
それでも、こちらの指示とレイの動きが少しずつ噛み合うようになってきた。
リュエラさんにも必要に応じて交代してもらっている。
宿場へ泊まった日もあれば、街道脇で野営した日もあった。
野営ではレイが相変わらず夜の警戒をやりたがり、俺たちも今まで通り周囲の確認を続けている。
リュエラさんも、もう魔導携帯テントを出して野営する流れに自然と混ざるようになっていた。
神域にいた頃より、普通に旅の仲間という感じが強くなってきた気がする。
その日の昼前。
御者をしていた俺は、街道の先に何台かの馬車が止まっているのを見つけた。
「……休憩かな?」
最初はそう思った。
だが、近づくにつれて様子が違うことに気づく。
荷馬車が四台ほど街道脇へ寄せられ、そのうち一台の周りへ何人もの人が集まっている。
襲われている様子はない。
武器を構えている者もいないし、倒れている人も見えない。
ただ、一台の大型荷馬車だけが妙に傾いていた。
「何かあったみたいですね」
俺はレイへ合図して速度を落とす。
近くまで来ると原因が分かった。
荷馬車の右側の車輪が、街道脇の柔らかい地面へ深く沈み込んでいる。
雨でも降った後なのか、その一角だけ土が崩れやすくなっていたらしい。
商隊の人たちが後ろから押し、馬にも引かせているが、積荷が重いせいかなかなか動かない。
無理に動かそうとしたのか、車輪の周囲も少し歪んで見えた。
俺たちも馬車を止める。
近くにいた男性がこちらへ目を向けた。
「すみません。通りたいですよね。もう少し端へ寄せられればいいんですが」
「大丈夫です。怪我人はいませんか?」
「それは大丈夫です。ただ、見ての通りで」
男性が困ったように荷馬車を見る。
「積荷を少し降ろすしかないかと話していたところです」
かなり大きな荷馬車だ。
人が押すだけでは厳しいのも分かる。
こちらもこの先へ進むには、少なくとも街道を通れる状態にしてもらう必要がある。
それなら少しくらい手伝ってもいいだろう。
「引き出せれば、あとは動かせますか?」
「街道へ戻せれば、車輪を確認して補修できます。予備部品も工具もありますので」
商隊の人たちも旅慣れているらしい。
全部こちらでやる必要はなさそうだ。
話している間に、荷馬車の側面に描かれた印や、積荷を包んでいる布が目に入った。
乾いた土地で使いそうな厚手の布。
素焼きに近い色の陶器。
箱の隙間からは、香辛料のような乾いた香りもする。
どこから来た商隊なのか尋ねると、男性は北を指した。
「砂水王国オアサリアからです。中央都市方面まで運ぶ荷がありまして」
「オアサリアから?」
思わず聞き返した。
「ええ。皆さんは逆方向ですか?」
「俺たちもオアサリアへ向かってるんです」
目的地の国から来た人と話すのは初めてだ。
気になることはある。
ただ、まずは目の前の荷馬車だ。
俺はレイを見る。
「レイ、少し手伝ってもらってもいい?」
レイがこちらへ顔を向け、そのまま一度頭を下げた。
了承らしい。
男性はレイを見る。
そして俺たちの馬車を見る。
「その馬一頭でですか?」
「はい」
「いや、かなり力はありそうですが……こちらは積荷も相当ありますよ」
当然の反応だ。
見た目は少し体格のいい普通の馬でしかない。
神馬だとは言えない。
「まずやってみます。無理そうなら別の方法を考えましょう」
牽引用の太い綱を用意してもらい、荷馬車へ繋ぐ。
商隊側の馬もそのまま力を合わせることになった。
俺はレイの近くへ寄る。
「力、出しすぎないようにお願いします」
レイが俺を見る。
少し離れたところで聞いていたリュエラさんが、小声で言った。
「抑えすぎたら引けないんじゃない?」
「……確かに」
どのくらいがレイにとっての普通なのか、まだ俺も分かっていない。
レイが小さく鼻を鳴らす。
任せておけばいいらしい。
全員の準備が整う。
商隊の人たちも荷馬車の後ろへ回った。
「行きます!」
合図に合わせ、商隊側の馬が踏ん張る。
人も荷台を押す。
レイが一歩前へ出た。
張った綱へ力が掛かる。
地面へ沈んでいた車輪が、ぐっと動いた。
「お、おい!」
二歩目。
泥のように柔らかい土から車輪が持ち上がる。
人が押す力と商隊の馬の牽引も重なり、そのまま大型荷馬車が固い街道上へ戻った。
思っていたよりずっと早かった。
レイはほとんど姿勢を崩していない。
「止めて!」
荷馬車が安定したところで作業を止める。
商隊の人たちが車輪周りへ集まった。
俺はレイのところへ行って綱を外す。
男性が横からレイを眺めた。
「……ずいぶん力のある馬だな」
「ええ。力持ちなんです」
それ以上は言わない。
レイが少しだけ胸を張ったように見えた。
荷馬車の車輪には軽い歪みが出ていたが、商隊側で直せる範囲らしい。
何人かが工具と予備部品を持ち出し、すぐ補修へ入る。
俺たちは邪魔にならない場所へ馬車を移し、少し休憩することにした。
「助かりました。本当に」
先ほどの男性が改めて礼を言いに来る。
「いえ。俺たちもこの道を通るところでしたから」
金を渡そうとしてきたが、そこまでは受け取らなかった。
レイが少し引いただけだ。
それより、せっかくオアサリアから来た人がいる。
「この先の街道について聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
俺たちがオアサリアへ向かっていると伝えると、男性は北の道を見ながら話してくれた。
「この辺りはまだ緑がありますが、ここから先は少しずつ乾いてきます」
「やっぱりですか」
「草も木も減りますし、昼は暑くなりやすいですね。その代わり、日が落ちると意外と冷えます」
砂漠というと暑い印象ばかりだったが、夜は別らしい。
「水場も気にした方がいいですか?」
「主要な交易路なら、給水できる場所や立ち寄れる拠点はあります。ただ、次がどこかは把握して進んだ方がいいですよ」
普通の旅人なら、水を持てる量にも限界がある。
俺たちはアイテムボックスに水を入れているし、ウンディーネもいる。
それでも、旅の基本として水場の位置を知っておくに越したことはない。
「馬車はどの辺りまで使えます?」
「交易路を走る分には、まだかなり先まで大丈夫です。本格的な砂地へ入る場所は別ですが」
やはり、馬車を買った時に言われたのと同じだ。
深い砂へ普通の車輪で入れば、当然進みにくくなる。
「砂地へ入るなら、現地で向こうの移動手段を使う人も多いです」
「なるほど」
その辺りは実際に近づいてから考えればいい。
商人が俺たちの馬車を見る。
「その馬車なら街道上はかなり楽でしょう。馬も……その馬なら、なおさら問題なさそうですが」
またレイを見ている。
やっぱり気になるらしい。
「それだけ力のある馬なら、ずいぶん高かったでしょう?」
少し答えに困る。
馬屋で普通の馬として売られていた神界の神獣を買った、とは言えない。
「まあ、ちょっと変わった縁がありまして」
「縁?」
「ええ」
隣でリュエラさんが楽しそうに笑っていた。
それ以上聞かれなかったので助かった。
「オアサリアの市場って、やっぱり大きいですか?」
気になっていたことを一つだけ尋ねる。
男性は頷く。
「大きな街なら色々ありますよ。こっちではあまり見ないものもあります」
「食べ物も?」
「もちろん。砂の土地だからこそのものもあります」
詳しく聞きたくなる。
だが、そこで止めておいた。
どうせ行くのなら、自分の目で市場を歩いた方が面白い。
リュエラさんも口を挟まない。
以前オアサリアを歩いたことがあるそうだが、今が昔と同じとは限らないし、自分でも変化を見たいと言っていた。
話している間、荷馬車の修理が進んでいく。
積荷の一部が確認のため動かされ、乾いた色合いの布や陶器が少し見えた。
香辛料らしい香りも、風に乗って時々こちらまで届く。
まだ国へ着いてもいないのに、目的地から運ばれてきたものが目の前にある。
それだけで、少し近づいた気がした。
やがて車輪の補修が終わる。
商隊の人たちが荷馬車を少し動かし、問題がないことを確かめていた。
「これなら行けそうです」
「よかったです」
俺たちも出発の準備へ入る。
商隊はこれから南へ。
俺たちは北へ。
ここで道が分かれる。
「このまま順調なら、皆さんもそう遠くないうちに、もっと乾いた土地へ入ります」
別れ際、男性がそう教えてくれた。
「ただ、無理に日程を詰めない方がいいですよ。気温も道も変わってきますから」
「ありがとうございます。気をつけます」
互いに挨拶をして、商隊と別れる。
俺は御者台へ戻った。
「行こうか、レイ」
レイが歩き出す。
さっき大型荷馬車を引き上げたばかりだが、疲れた様子はまったくない。
数日前なら、もう少し驚いていたかもしれない。
今は、まあレイだしな、と思えるくらいには慣れてきた。
馬車は再び北方街道を進む。
午後になってしばらくした頃。
俺は道の先を見ながら、ふと周囲の変化に気づいた。
「……木、減ってきたな」
数日前までは、街道沿いにも背の高い木がそれなりに見えていた。
今は数が少ない。
草も少し低くなり、地面の色が前より目立つ。
乾いた土の部分も増えている。
窓が開く音がした。
ベルが顔を出す。
「ちょっと景色変わってきたね」
「俺も今思ってた」
風も違う。
以前より湿った感じが少ない。
まだ砂が一面に広がっているわけではない。
砂漠と呼ぶような場所でもない。
それでも、確実に乾いた土地へ近づいていた。
キリコも窓の外を眺めている。
リュエラさんは御者台の隣から、少し遠くを見るように周囲を見回した。
「この辺りも、昔とは少し違うかも」
「覚えてるんですか?」
「大まかには。でも、道も景色も少しずつ変わるものよ」
だからこそ、また歩いて見たいのだろう。
前を見る。
遠くへ続く街道の周りは、進むほど緑が薄くなっているように見えた。
オアサリアから来た商人の話。
乾いてきた風。
減り始めた木々。
ようやく、砂の国が本当に近づいてきた気がする。
レイの蹄と車輪の音を聞きながら、俺たちはそのまま北へ進んでいった。




