第156話 神馬レイと、野営の旨トマトハンバーグ
御者台から見る北方街道は、客室の窓越しに眺めていた時よりずっと近く感じた。
目の前では、一見すると普通の馬にしか見えないスレイプニルが、大型の旅客馬車を軽々と牽いている。
隣ではリュエラさんが手綱を持ち、街道の轍や前を走る荷車を見ながら進んでいた。
「手綱は強く引き続けなくていいわ。この子なら、こっちの意図もかなり分かってるから」
「分かりました」
昨日、店で教えてもらったことを思い出しながら、リュエラさんの手元を見る。
しばらく進んだところで街道の脇に広い場所が見つかり、一度馬車を止めた。
「交代してみます?」
「ええ。やってみた方が早いわね」
俺が御者台の中央へ移り、手綱を受け取る。
神馬とはいえ、扱う側の俺が何も分からないままでは困る。
確認してから、ゆっくり発進させた。
馬車が動き出す。
少し速度を上げる。
緩い曲がり道では手綱を使って進む方向を伝え、前から荷馬車が来れば道の端へ寄せる。
……つもりだった。
「……これ、俺が御してるというより、合わせてもらってますよね」
前を歩くスレイプニルは、こちらが細かく指示する前に轍の深い場所を避け、対向する荷馬車との距離まで取っている。
上り坂でも速度はほとんど変わらない。
「そうかもしれないわね」
リュエラさんも否定しなかった。
前の馬が耳だけこちらへ向ける。
何となく、聞かれている気がする。
「助かるけど、俺もちゃんと覚えないとな」
全部任せていれば移動はできるだろう。
それでも、何かあった時に手綱すらまともに扱えないのは嫌だ。
発進と停止を何度か繰り返し、街道の緩い曲がり方にも少しずつ慣れていく。
昼前には休憩できる場所を見つけて馬車を止めた。
馬具を外すほどではないが、締め付けやずれを確認する。
脚にも腫れや傷はない。
水を桶へ入れて置くと、普通の馬と同じように飲み始めた。
そこで、今さら気づいた。
「そういえば、名前ってあるんですか?」
俺たちは昨日からずっと、スレイプニルとか、この子としか呼んでいない。
リュエラさんが本人へ目を向ける。
少しの間、馬と見つめ合った。
「地上で呼ばれていた名前はいくつかあるみたい。でも、今も自分の名前として使ってるものはないって」
人に飼われるたび、違う名前で呼ばれてきたのだろう。
これから一緒に旅をするなら、呼び名はあった方がいい。
俺は馬の顔を見る。
「じゃあ……レイっていうのはどうですか?」
少し考えて出した名前だった。
スレイプニルの響きから取っただけだが、呼びやすい。
馬がこちらへ歩いてくる。
鼻先が俺の手へ触れ、そのまま軽く肩を押された。
ベルが近くまで飛んでくる。
「気に入ったみたい」
「それなら、今日からレイですね」
名前を呼ぶと、レイが小さく鼻を鳴らした。
これでようやく、スレイプニルではなく一緒に旅をする一頭として呼べる。
休憩を終える前に、もう一つ思い出した。
昨日、街を離れてから見せてもらうことになっていたものだ。
周囲には他の旅人も見えない。
「レイ、本当の姿も見せてもらっていいですか?」
レイがリュエラさんを見る。
「ここなら大丈夫そうね」
了承したらしい。
俺たちは少し距離を取った。
レイの身体から、今までほとんど感じなかった気配が広がる。
姿が揺らいだ。
次の瞬間、そこにいたのは普通の馬ではなかった。
体格は大型馬より一回り以上力強く、身体を覆う筋肉も引き締まっている。
何より目を引くのは脚だ。
八本。
地面を踏む脚が、確かに八本ある。
それぞれが不自然に重なっているわけでもなく、一頭の馬としてまとまった姿になっていた。
普通の生き物とは違う気配もはっきり分かる。
神域でリュエラさんから感じたものほど圧倒的ではないが、神獣だと言われれば納得できる存在感だった。
メイが近づいて匂いを確かめる。
レイも鼻先を少し下げて応じた。
シルクもその八本の脚の周りを見ている。
『さっきまで、すごく隠してたんだね』
ウンディーネが静かに言う。
「これが本来の姿か……」
馬車一台くらい簡単だと言われた理由も、少し分かった気がする。
「馬具も外してますし、せっかくだから少し走ってきてもいいですよ」
レイの耳が立つ。
それだけで反応が分かった。
「行ってきていいですよ」
次の瞬間、レイが駆け出した。
最初の一歩から違った。
八本の脚が次々と地面を捉え、ほとんど身体を上下させないまま一気に加速する。
土煙が後ろへ流れた時には、もうかなり遠くまで進んでいた。
「速っ……」
思わず声が出る。
目で追える範囲ではある。
だが、普通の馬が全力で走る姿とは明らかに違った。
遠くまで駆けたレイは大きく回り、そのまま戻ってくる。
戻ってきても息を乱した様子すらない。
「……さっきまで、本当にかなり抑えてたんだな」
レイが得意そうに頭を上げた。
本来の姿を確認した後は、また普通の馬に近い姿へ戻ってもらう。
馬具を付け直し、俺たちは再び街道へ出た。
本当の走力を知ったからといって、休憩を減らすつもりはない。
途中で何度か馬車を止め、水と脚、馬具の状態を確認しながら北へ進む。
昼を少し過ぎた頃、街道沿いの小さな集落で短い休憩を取った。
旅人向けの売店で食材も扱っていたので、夕食に使えそうなものを少し買う。
よく熟したトマト。
ニンニクに近い香味野菜。
大玉葱。
レイ用には穀物と野菜、それに果物も少し買っておいた。
さらに街道を進み、日が傾き始める。
このまま進めば、レイなら次の宿場まで着けそうだった。
それでも俺は街道脇の地形を見ながら、馬車を止められそうな場所を探した。
「今日は、この辺で野営しませんか?」
キリコが窓から顔を出す。
「宿場まで行かないの?」
「行けるとは思うけど、今日はゆっくり飯を作りたいんだ」
しばらく迷宮や神域、王城で過ごしてきた。
せっかく普通の旅へ戻ったのだから、今日は自分たちらしく野営でもいい。
「私はやってみたいわ」
リュエラさんがすぐに賛成した。
そういえば、リュエラさんが俺たちの普段の野営へ加わるのは初めてだ。
街道から少し離れ、地面が平らで周囲を見渡しやすい場所を選ぶ。
安全を確認してから馬車を止め、魔導携帯テントを設置した。
調理場所も作る。
レイから馬具を外し、身体を一通り見る。
脚。
蹄。
肩や胸周り。
馬具が擦れた場所がないかも確かめる。
問題はなさそうだった。
「レイも今日はもう休んでください」
水を置いて声を掛ける。
だが、レイはその場を離れようとしない。
「どうしました?」
ベルがレイを見る。
少しして笑った。
「まだ働きたいって」
「いや、朝からずっと馬車を牽いてたでしょう」
レイが首を振る。
疲れていないと言いたいらしい。
リュエラさんが近くへ来る。
「レイは、人や普通の馬みたいに毎日眠らなくても平気なのよ」
「寝なくても?」
「ええ。横になって休むことはできるけど、眠らないと身体がもたないような生き物じゃないわ」
少なくともレイはそういう身体らしい。
今日の移動も、本人にとっては疲労と呼ぶほどではないようだ。
ベルが続ける。
「夜も見張るって言ってるよ」
「馬車を牽いて、夜もですか?」
レイが力強く頷く。
どうやら無理をしているわけではない。
むしろ、やることがあるのが嬉しそうに見える。
昨日までは普通の馬として売られていた。
今は自分で俺たちと旅をすると決めたばかりだ。
馬車を牽くことも、周囲を警戒することも、旅の中で自分の役割だと考えているのかもしれない。
「分かりました。でも、全部任せるわけじゃないですからね」
レイがこちらを見る。
「俺たちも今まで通り警戒します。何かあったら、すぐ知らせてください」
短く鼻を鳴らした。
それで話は決まった。
俺は夕食の準備へ移る。
今日使う肉は【紅角野牛】だ。
一頭丸ごと解体した時に、端肉の一部は筋や硬い部分を整え、挽肉用として小分けにしてある。
まだ十分に残っている。
取り出した肉を見ると、赤身が多めだ。
このままでも肉の味は濃いだろうが、ハンバーグにするなら少しだけ脂を補った方がよさそうだった。
一緒に仕込んでいた精製牛脂を少量取り出す。
肉の状態を見ながら混ぜる量を決め、挽肉にする。
大玉葱は細かな微塵切りにして、先に炒める。
焦がさず水分を飛ばし、甘い香りが出たところで火から外して冷ました。
特製食パンを細かくしたパン粉へ少量の牛乳を含ませる。
そこへ紅角野牛の挽肉。
炒めた大玉葱。
卵。
パン粉。
赤塩。
少量のピリ石。
手早く合わせる。
何度も作ってきた料理なので、迷うところは少ない。
混ぜすぎて肉の食感を潰さないようにまとめ、空気を抜きながら厚めに成形する。
七人分。
メイとシルクの分も味付けは変えず、食べやすい大きさに整えた。
熱したフライパンへ並べる。
じゅっと音が広がり、紅角野牛の脂の香りが立つ。
まずは表面へしっかり焼き色を付ける。
裏返し、反対側も焼く。
厚みがあるので、そこから火を弱める。
表面だけ焦がして中心が生では意味がない。
肉の弾力と出てくる肉汁を見ながら、急がず中心へ熱を入れていく。
焼き上げたハンバーグを一度取り出す。
フライパンには紅角野牛の脂と、焼き付いた肉の旨味が残っている。
ここからが今日のソースだ。
刻んだニンニクに近い香味野菜を入れる。
焦がさないよう脂へ香りを移し、細かく刻んだトマトをたっぷり加えた。
水分が出て、焼き付いていた肉の旨味が少しずつ溶けていく。
木べらで底をこそげながら煮詰める。
トマトの青い香りが薄れ、酸味の角が少し丸くなったところで、天然醸造生醤油と手作り本みりんを加える。
さらに紅角野牛の牛骨出汁を少量。
味を見て、自家製の特製ケチャップもほんの少しだけ足した。
甘くしすぎる必要はない。
残したいのは、トマトの甘酸っぱさだ。
そこへニンニクの香り。
醤油の旨味。
肉汁と牛骨出汁の厚みを重ねる。
「いい匂い……」
キリコが鍋の近くまで来る。
リュエラさんも調理台の向こうから見ていた。
「神域で作ってくれた料理とは、随分雰囲気が違うのね」
「こっちの方が普段の旅では多いですよ」
「こういうのも見たかったの」
ソースがまとまったところで、焼いたハンバーグを戻す。
長く煮込まず、表面へソースを馴染ませる程度で止めた。
焼き目の香ばしさまで消したくない。
炊いておいたインディカ米も蒸らし終える。
皿へ粒立った白飯を盛り、ハンバーグを乗せる。
上から赤いトマトソースをたっぷり掛けた。
【紅角野牛の旨トマトハンバーグ】。
今日の夕食だ。
レイには買ってきた良質な穀物と野菜、果物を用意する。
「レイは肉料理じゃなくていいんですよね?」
本人へ聞くと、普通に穀物の方へ顔を寄せた。
リュエラさんが笑う。
「食べなくても生きてはいけるけど、地上ではずっとこういうものを食べてきたみたい」
なら、無理に俺たちと同じものを食べさせる必要はない。
全員の皿が揃ったところで、夕食にする。
ハンバーグへ箸を入れる。
割れたところから熱い肉汁がにじんだ。
一口食べる。
表面には焼いた肉の香ばしさ。
中は紅角野牛らしい濃い赤身の旨味が強く、少量混ぜた牛脂のおかげでぱさつかず肉汁も残っている。
そこへトマトの酸味が入る。
ニンニクに近い香味野菜の香りと生醤油が肉の味を押し上げ、牛骨出汁がソースへ厚みを付けていた。
白飯も一緒に食べる。
トマトと醤油、肉汁を含んだソースが粒の間へ絡む。
やっぱり米にも合う。
向かいではリュエラさんが、まずハンバーグを一口食べ、その後にソースを少し付けた米を口へ運んだ。
もう一度、今度は最初から両方を一緒に食べる。
「このソース、ご飯と一緒だともっと美味しいのね」
「俺もそれが好きです」
「じゃあ、次はもっと一緒に食べてみる」
そのまま二口目へ進む。
キリコもソースを米へ絡めている。
「これ、いっぱい掛けてもいい?」
「あるから大丈夫だよ」
ウンディーネは特に感想を言わないまま、次の一口が早い。
メイとシルクも、それぞれの大きさにしたハンバーグを同じソースで食べていた。
久しぶりに野営でしっかり料理をした気がする。
神域の食材でもない。
特別な宴でもない。
手持ちの肉と、途中で買った野菜を使った夕食だ。
それが今は妙に落ち着いた。
食事を終え、調理器具や食器を片付ける。
火も必要な分だけ残して、最後には消した。
レイはすでに野営地の外側へ立っている。
一日大型馬車を牽いていたとは思えない。
耳を動かし、暗くなった街道の方へ意識を向けていた。
「本当に寝なくて平気なんですか?」
念のため、もう一度聞く。
レイがこちらを見て当然というように頷く。
ベルが近くで笑った。
「平気だって」
「分かりました」
俺はテントへ入る前に、周囲をもう一度確認した。
自分たちの馬車。
魔導携帯テント。
消えた調理火。
その少し外側に立つレイ。
「じゃあ、今夜はお願いします。でも、何かあったらすぐ起こしてください」
レイが小さく鼻を鳴らす。
馬車を牽くために買った一頭ではない。
初めて、一緒に旅をする仲間として役目を任せる。
俺はもう一度だけレイを見てから、みんなの待つテントへ入った。




