第155話 旅の馬車と、迷い神馬
北側大橋を渡り終えると、石造りの道はそのまま北方街道へ続いていた。
背後には中央台地と中央都市。
前には、砂水王国オアサリアへ向かう道が伸びている。
神造迷宮へ入ってから続いていたことは、昨日までですべて片付いた。
一か月近い行方不明。
イザベラさんたちとの再会。
迷宮についての説明。
谷底調査の正式な完了。
リュエラさんの冒険者登録。
ようやく、普通に旅へ戻れた気がする。
「……でも、ずっと歩くのもな」
思わず口に出た。
「歩くの嫌なの?」
ベルが聞く。
「嫌ってわけじゃないよ。ただ、オアサリアまではまだ距離があるし、これから先もずっと旅を続けるなら、移動するたびに歩く必要もないだろ」
俺たち七人なら、体力だけを考えれば徒歩でも困らない。
メイもシルクも長距離を動けるし、ベルは飛べる。
ウンディーネやリュエラさんに至っては、俺が心配するような相手でもないだろう。
それでも俺は、徒歩でどこまでも進むこと自体を目的にしているわけではない。
街を見たい。
知らない土地へ行きたい。
食材や料理を探したい。
そのための移動なら、楽にできる方がいい。
メリディアから中央都市へ来た時に使った貸切旅客馬車も快適だった。
ただ、これから街を移るたびに馬車を探し、御者を雇い、必要なら護衛まで手配するとなると、それも少し面倒だ。
「これからも旅を続けるなら、馬車を一台買おうと思うんだけど、どうかな」
みんなを見る。
ベルは特に反対しなかった。
キリコは少し目を輝かせる。
「わたしたちの馬車?」
「そう。好きな時に出発できるし、長く使えるものを買えば便利だと思う」
「いいね」
リュエラさんもすぐに乗ってきた。
「自分たちの馬車で旅をするの? 楽しそうね」
かなり嬉しそうだ。
昔から馬車には何度も乗っているはずだが、仲間と一緒に自分たち用の一台を選ぶのはまた違うらしい。
幸い、北側大橋を出た先には旅人や商人向けの大きな交通区画があった。
馬車を扱う店。
修理工房。
馬具屋。
厩舎。
旅客馬車や荷馬車の手配所までまとまっている。
北方街道へ出る前に揃えるにはちょうどいい。
俺たちはその中でも、大型の旅客馬車を何台も並べている店へ入った。
「七人で長距離を旅します。値段より、丈夫さと乗り心地を優先したいです」
対応してくれた店員へそう伝える。
荷物はアイテムボックスへ入れられるので、積載量を最優先にする必要はない。
それよりも七人が窮屈にならないこと。
長時間座っても疲れにくいこと。
悪路に強く、壊れにくいこと。
暑さや寒さ、雨風にもある程度対応できること。
条件をいくつか伝えると、店員は少し考えてから奥の展示区画へ案内してくれた。
「でしたら、こちらがよろしいかと」
そこにあったのは、今まで見てきた旅客馬車より一回り大きな一台だった。
外側は落ち着いた濃い色の木材と黒い金属でまとめられている。
派手な金細工や飾りはない。
一見しただけなら少し上質な大型馬車だ。
だが、中へ入ると印象が変わった。
「広いな」
俺が普通に座っても膝周りに余裕がある。
向かい側との間も十分広い。
厚みのある座席と背もたれが左右へ配置され、七人が乗っても窮屈にはならない。
メイとシルクも座席の間や足元へ押し込む必要はなく、普通に客室の中で場所を取れる。
車体の下には長距離用の懸架機構。
車輪と車軸には衝撃を和らげる魔法陣。
窓は開閉でき、閉めれば雨風を防げる。
小型の魔導灯もあり、換気用の機構と、外気の暑さや寒さを多少和らげる簡易的な温度調整まで付いているらしい。
「防音も入っていますので、通常の旅客馬車より車輪音はかなり抑えられます」
店員が説明する。
御者台も広い。
二人で座れる程度の余裕があり、長時間の運転を考えた作りになっていた。
「今の馬車って、こんなに乗り心地が良くなってるのね」
リュエラさんが座席を確かめながら言う。
「昔は違ったんですか?」
「もっと揺れたわ。道が悪いところだと、座ってるだけで疲れたもの」
窓を開けたり、座席へ座り直したりしているあたり、本当に楽しんでいるようだ。
俺も一通り確認した。
これなら長く使える。
問題は値段だった。
「こちらは八百四十万ゴールドになります」
やっぱり高い。
今まで買ってきた旅道具とは桁が違う。
ただ、七人分の長距離移動手段だ。
これから何度も貸切馬車を手配する費用と手間。
旅の時間。
乗り心地。
耐久性。
それらを考えれば、買えない額でもない。
「これにします」
「ありがとうございます」
店員の表情が明るくなった。
馬車は決まった。
次は、それを牽く馬だ。
「この車格ですと、長距離用の大型馬を二頭お勧めしております」
店員に案内され、併設された厩舎へ向かう。
中には何十頭もの馬がいた。
旅客馬車に慣れた馬。
荷馬車向けの体格が大きな馬。
脚が長く、長距離向きだという馬。
色も体格も様々だ。
俺は一頭ずつ眺めながら歩く。
馬の良し悪しなんて専門家ほど分からない。
それでも脚に腫れがないか。
毛艶は悪くないか。
人が近づいた時に極端に怯えないか。
そのくらいは見ておきたい。
何頭か見たところで、一頭の馬の前を通りかかった。
特に目立つ馬ではなかった。
体格はしっかりしているが、隣にいる大型馬ほど大きくはない。
毛並みも普通に手入れされている。
こちらを見ても騒がず、のんびり草を食べていた。
そのまま通り過ぎようとした時だった。
馬の動きが止まる。
口元に咥えていた草も、そのままだ。
耳がぴんと立った。
視線の先にいるのは俺ではない。
リュエラさんだ。
「……?」
リュエラさんも気づいたらしい。
馬と目が合う。
次の瞬間。
馬が一歩下がった。
それでも目を逸らさない。
さらに一歩。
「……どうしたんだ、こいつ?」
店員も不思議そうに馬を見る。
「普段はかなり大人しいんですが」
確かに暴れているわけではない。
怖がって逃げる感じとも少し違う。
ただ、明らかにリュエラさんだけを見ている。
しかも、見てはいけないものでも見たような反応だ。
「……あら?」
リュエラさんの表情も少し変わった。
今まで普通の馬として見ていたのに、改めて注意を向けている。
購入する馬を探している最中だ。
健康状態や性質を確認する必要もある。
何より、この反応は気になる。
俺は馬へ【鑑定】を使った。
【神馬】
詳細:神界に生息する高位の神獣。過去に神界と地上の境界へ生じた一時的な異常へ巻き込まれ、偶発的に地上へ落下した個体。自力で神界へ戻るための道を開く権能は持たず、地上では本来の姿・神性・能力を強く抑え、一般的な馬に近い姿へ変化して暮らしている。本来は通常の馬を大きく上回る生命力、身体能力、走力、持久力、環境適応能力を持つ。
しばらく結果を見たまま固まった。
「……スレイプニル?」
小さく呟く。
「スレイプニル?」
リュエラさんが聞き返す。
改めて馬を見る。
さっきまでより真剣に気配を探るように目を細めた。
「……本当ね」
その言葉を聞いた馬が、ゆっくり顔を横へ向けた。
今さら知らないふりをしているようにも見える。
「何でスレイプニルが普通の厩舎にいるんですか?」
声を抑えて聞く。
店員は少し離れたところで別の馬具を確認している。
「私もそれを聞きたいわ」
リュエラさんが馬へ近づく。
今度は逃げない。
ただ、少し緊張しているのは分かる。
神威を抑えているリュエラさんを、普通の人が見ても神だとは分からない。
それでも同じ神界に由来する神獣には分かったらしい。
リュエラさんが静かに馬を見つめる。
スレイプニルも見返す。
鳴き声はない。
それでも何かを伝え合っているようだった。
少しして、リュエラさんが俺たちを見る。
「かなり前に、神界と地上の境界で起きた異常に巻き込まれたみたい」
「それで地上に?」
「ええ。気づいた時にはこっちにいたんですって」
スレイプニル自身には、神界と地上を繋ぐ道を作る力はなかった。
帰ろうにも帰れない。
だから本来の姿と神性を隠し、普通の馬として地上で暮らすことにしたらしい。
人に飼われ。
何度か別の場所へ移り。
今はこの厩舎へ来た。
店の人たちも、少し丈夫で賢い馬くらいにしか思っていない。
「長かったのね」
リュエラさんが馬の額へ軽く手を添える。
スレイプニルは嫌がらなかった。
それから、リュエラさんが聞く。
「神界へ帰りたい?」
馬の耳が動く。
「私なら、帰る手伝いはできるわ」
それを聞いても、すぐには反応しなかった。
少し俯き、また顔を上げる。
厩舎の外へ目を向けた。
街道の方だ。
しばらくして、首を横へ振る。
「帰らなくていいの?」
もう一度問いかける。
今度ははっきり頷いた。
「地上に残りたいみたい」
「そうなんですか?」
「長くこっちで暮らして、もう馴染んだんですって」
草を食べること。
風の中を走ること。
人の暮らしの中で馬として過ごすこと。
それも今では嫌いではないらしい。
そしてスレイプニルの視線が、俺たちへ向く。
最後に、購入したばかりの馬車がある方を見る。
リュエラさんが少し笑った。
「この子、私たちと一緒に行きたいみたい」
「馬車を牽いて?」
スレイプニルがこちらへ歩いてきた。
鼻先を俺の肩の近くへ寄せる。
そのまま一度、強く頭を上下させた。
「本当に馬車を牽いでもらって大丈夫なんですか?」
能力の話ではない。
嫌なら頼むつもりはなかった。
だがスレイプニルはもう一度頷いた。
「本人はやる気みたいね」
「それなら、俺は歓迎します」
ベルたちも特に異論はない。
メイは少し匂いを確かめるように近づき、シルクも見上げている。
キリコは興味深そうに横へ回った。
「一緒に旅するの?」
スレイプニルがキリコを見る。
小さく鼻を鳴らした。
そこで店員が戻ってくる。
「その馬が気になりましたか?」
「はい。この子にしようと思います」
店員は少し意外そうな顔をした。
「もちろん販売できますが、先ほどの馬車を牽かせるのでしたら、もう一頭は必要ですよ」
大型の旅客馬車だ。
普通なら一頭で長距離を牽く大きさではない。
「この子なら一頭で大丈夫よ」
リュエラさんが言う。
「一頭で?」
俺も思わず確認する。
「ええ。このくらいなら、今の姿のままでも大した負担じゃないわ」
スレイプニル本人も当然というように立っている。
店員は困ったようだった。
「一頭立て用に牽引具を組み替えること自体はできます。ただ、本来は二頭を推奨している車体ですので……」
「無理そうなら途中でもう一頭増やします」
俺がそう答えると、ようやく納得してもらえた。
この馬の代金も、当然普通に払う。
店側は何も悪いことをしていない。
正規に仕入れ、餌を与え、手入れをしてきた。
神獣だと分かったから無料で返せという話にはならない。
提示された馬の代金と、馬具の調整費もそのまま支払った。
「それと、この馬車でオアサリア方面へ向かわれるのでしたね?」
「はい」
「街道や主要な交易路なら問題ありません。ただ、砂海へ深く入るなら普通の車輪では厳しくなります」
それは当然か。
砂へ沈むような場所まで、この馬車で無理に進むつもりはない。
「その時は現地で考えます」
馬車は物なので、必要ならアイテムボックスへ収納できる。
砂漠や船など、馬車を使えない場所ではしまえばいい。
もちろん、生きているスレイプニルまで入れるつもりはない。
購入手続きが終わると、店員から馬具と御者台の扱いも教えてもらった。
発進。
停止。
曲がる時の手綱。
馬具の確認。
休憩を取る目安。
脚や蹄の見方。
俺も一通り実際に触りながら覚える。
一日で熟練の御者になれるとは思わない。
その点はリュエラさんの方が経験があった。
「昔は自分で馬を扱うこともあったから、基本は分かるわ」
「助かります」
ただし、馬車の魔導装備は昔にはなかったものも多いらしく、そこはリュエラさんも店員の説明を真面目に聞いていた。
準備が整う。
一頭立て用へ調整された馬具をスレイプニルへ付ける。
嫌がる様子はない。
むしろ慣れたものだった。
長く普通の馬として生きてきたなら、馬具を付けられた経験も何度もあるのだろう。
「そういえば、本当の姿って今の姿じゃないんですよね?」
馬具を確認しながら聞く。
スレイプニルの耳が動く。
「違うわよ」
リュエラさんが答えた。
「じゃあ、どんな姿なんです?」
「それは本人に見せてもらった方がいいんじゃない?」
確かに。
ここで本来の姿へ戻られたら、せっかく隠して暮らしてきた意味がなくなる。
「街を離れてからですね」
スレイプニルもそれでいいらしい。
最後に水を飲ませ、馬具の締め付けをもう一度確認する。
「神獣でも、休憩はちゃんと取りますからね」
俺が言うと、スレイプニルがこちらを見る。
「水も食事も用意します。身体の手入れもしますし、泊まる時は厩舎があれば使います」
「そこまで心配しなくても大丈夫だと思うけど」
リュエラさんが笑う。
「力があるからって、ずっと働かせていいわけじゃないでしょう」
スレイプニルが鼻先を俺の肩へ軽く押し当てた。
嫌ではないらしい。
御者台には、まず経験のあるリュエラさんが座ることになった。
俺はその隣だ。
ベルたちには先に客室へ乗ってもらう。
メイとシルクも広い客室の中へ入り、キリコは窓際の席を選んでいる。
ウンディーネはその向かい。
「では、出して大丈夫ですよ」
店員が少し心配そうに一頭立ての馬車を見る。
リュエラさんが手綱を軽く動かす。
スレイプニルが歩き始めた。
大型の車体が動く。
最初だけ重さが掛かると思っていた。
だが、ほとんど引っ掛かりがない。
馬車は滑らかに前へ進んだ。
スレイプニルの歩き方にも力んだ様子はない。
普通の馬が軽い荷車を引いているようにしか見えなかった。
「……本当に一頭で余裕なんですね」
「神馬だもの」
街道へ出たところで速度を上げても、客室は想像以上に静かだった。
車輪から伝わる細かな振動もかなり抑えられている。
高かっただけはある。
途中で御者台を交代しながら、俺も少しずつ扱いを覚えていけばいいだろう。
後ろを振り返れば、中央都市はもう遠ざかり始めている。
普通の馬を探しに来ただけだった。
それが今は、高級な長距離旅客馬車の前を、神界から地上へ迷い込んだ神馬が歩いている。
その御者台には、地上を普通の旅人として歩き始めた放浪の女神。
客室には俺たち五人とベル。
改めて考えると、かなり妙な一行だ。
それでも馬車は何事もないように北方街道を進んでいく。
リュエラさんにとっては久しぶりの地上旅。
スレイプニルにとっても、新しい地上の旅になる。
俺たちにとっては、一か月ぶりに戻ってきた本来の旅だ。
新しく手に入れた自分たちの馬車は、七人と一頭を乗せてオアサリアへ向かい始めた。




