第152話 待ち続けた女王と、生還の知らせ
その報告がメリディア王城へ届いたのは、フトシたちが中央都市へ向かった数日後だった。
執務机で地方から届いた書類へ目を通していたイザベラは、差し出された報告書にある名前を見て手を止めた。
「中央大峡谷の谷底定期調査……フトシ?」
少し前、本人から砂水王国オアサリアへ向かうと聞いたばかりだった。
途中で中央都市を通り、一泊程度して北へ抜ける予定だったはずだ。
そのフトシが、なぜか大峡谷の谷底調査を受けている。
「まったく、あやつは……」
思わず呟いたが、今はそこではない。
予定されていた帰還時刻を過ぎても、六人が戻っていないという。
「現地ではどう動いておる?」
「現在、中央都市冒険者ギルドが昇降機の管理記録と依頼経路を確認しております。現時点では単純な遅延の可能性もあるため、谷底側の監視も継続しているとのことです」
「分かった。まずは現地の判断に任せよ。変化があればすぐ知らせるように」
「はっ」
使者が下がる。
イザベラはもう一度報告書を見た。
魔物との遭遇。
経路上の異常。
調査中の足止め。
考えられることはいくらでもある。
フトシたちは危険のある依頼を受けた冒険者だ。
少し戻りが遅れただけで、王が騒ぎ立てるべきではない。
それでも、書類へ視線を戻すまでには少し時間が掛かった。
翌日。
二度目の報告が届いた。
「まだ戻っておらぬのか?」
「はい。冒険者ギルドは今朝、捜索隊を谷底へ派遣しております」
イザベラの前には、昨日より詳しい報告書が置かれていた。
フトシたちが指定経路を進んだ痕跡はある。
途中で小規模な崩落を確認した形跡も残っていた。
だが、その先。
地図上では特に何もない岩壁の近くで、六人分の足取りが突然途切れている。
「……六人全員が、か?」
「はい」
血痕はない。
遺体もない。
武器や荷物の欠片も落ちていない。
激しい戦闘の痕跡も、大規模な崩落も確認できなかった。
そこから先へ六人が歩いた形跡だけがない。
イザベラの表情が険しくなる。
隣で報告書を読んでいたセバスも、しばらく黙っていた。
「セバス」
「はい」
「どう見る?」
「通常の遭難として考えるのは難しいかと存じます」
声はいつも通り落ち着いている。
「フトシ様お一人ならば、転落や何者かによる襲撃なども考えられます。しかし、同行されていた皆様が同時に痕跡なく消えております」
ベル。
メイ。
シルク。
ウンディーネ。
キリコ。
その全員が一緒だった。
特にウンディーネは、アストラーレの伝承にも残る水の大精霊本人だ。
並の魔物や事故で、何の痕跡も残さず六人全員が消えるとは考えにくい。
「捜索を続けさせよ。ただし、二次遭難は出すな」
「承知いたしました」
「調査経路だけではない。周辺の洞窟、大河の下流、崖壁周辺も確認させよ。魔物の巣へ踏み込むなら、十分な戦力を揃えてからじゃ」
「各都市と主要街道、検問所にも情報を回しておきましょう」
セバスの提案に、イザベラは頷いた。
「頼む。何らかの転移で別の場所へ出ておる可能性も捨てるな」
何が起きたのか分からない。
ならば、最初から可能性を狭めるべきではなかった。
それから数日が過ぎた。
新しい手掛かりは出なかった。
捜索隊は谷底を何度も確認した。
川沿いも。
岩陰も。
周辺の洞窟も。
六人が最後にいたと思われる地点も。
だが、消えた先へ繋がるものは何一つ見つからない。
イザベラは中央都市へ移ることを決めた。
「陛下ご自身が谷底へ向かわれるおつもりではございませんね?」
出発準備を整えながら、セバスが確認する。
「そこまで愚かではない」
イザベラは少し不満そうに返した。
「中央王城でも政務はできる。各地との連絡も集まる場所じゃ。大峡谷の報告を受けるにも、メリディアより早い」
理由としては、それで十分だった。
実際、中央都市は国政と行政の中心地でもある。
王がそこで政務を執ることに何の問題もない。
セバスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、自分も当然のように同行の準備を終えていた。
中央王城へ移ってからも、イザベラの日々は大きく変わらなかった。
交易関係の書類を読み。
街道整備の予算を確認し。
騎士団から上がる報告へ指示を出す。
地方都市の行政問題や、外交関係の書簡にも目を通す。
フトシたちが消えたからといって、国の仕事を止めるわけにはいかない。
ただ、大峡谷方面から使者が来るたび、イザベラの視線は書類から上がった。
「本日の捜索でも、新しい痕跡は確認できませんでした」
「そうか」
何度聞いたか分からない報告だった。
「捜索隊に無理はさせるな。休養と交代は崩すでないぞ」
「承知しております」
使者が下がれば、また書類へ戻る。
翌日も。
数日後も。
同じだった。
セバスも普段と何一つ変わらないように見えた。
朝には身支度を整え。
食事と茶を用意し。
書類を整理する。
各部署との連絡も滞らせない。
それでも、大峡谷関係の報告だけは必ず自分で確認していた。
中央都市へ移って何日か経った朝。
イザベラは早い時間に中庭を通り、そこで足を止めた。
セバスが一人で鍛錬している。
鋭い踏み込み。
無駄のないレイピアの軌道。
年齢を感じさせない動きは普段と変わらない。
最後の一振りを終え、セバスが静かに息を整える。
その時だった。
ほんの一瞬だけ、隣の空いた場所へ視線を向けた。
イザベラは声を掛けなかった。
メリディアでもオリエンスでも、朝になればフトシがそこにいた。
木剣や棒を握り、セバスから教えを受けていた。
今は誰もいない。
セバスも何も言わず、再び構えを取った。
二週間を過ぎても手掛かりはなかった。
三週間が近づけば、報告の中にも厳しい見方が混じり始める。
それは当然だった。
危険な大峡谷の谷底で、これだけ長く消息が分からない。
生存を楽観できる状況ではない。
イザベラも、感情だけでそれを否定するつもりはなかった。
だが、死亡を示す証拠もない。
六人分の遺体はない。
大量の血痕もない。
激しい戦闘跡もない。
持ち物すら落ちていない。
何より、六人が同じ地点からまとめて消えている。
「見つかっておらぬことと、死んだことは同じではない」
それがイザベラの判断だった。
谷底への直接捜索は、安全を確保できる範囲で続ける。
同時に、各都市、街道、検問所、冒険者ギルドへ回した情報も維持する。
ただし一人を探すために別の誰かを死なせるような命令は出さない。
待つ時間だけが増えていった。
三週間を越えた頃。
夜の政務を終えたイザベラは、中央王城の窓から大峡谷のある方角を眺めていた。
外はもう暗い。
少し離れた場所で、セバスが翌日の書類を整理している。
「……あやつは、妙なことに巻き込まれるからの」
独り言のような声だった。
セバスの手は止まらない。
「そうでございますね」
大精霊と出会い。
魔神召喚事件に関わり。
キリコまで旅仲間に加えた。
普通に旅をしているだけのつもりで、なぜか大きな出来事の中へ入っていく。
「ならば今回も、随分と面倒な場所へ迷い込んでおるだけかもしれんな」
「そうであれば、帰還された際には事情を伺わねばなりませんな」
イザベラは少しだけ笑った。
「まず帰ってきてもらわねば、叱ることもできぬ」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
イザベラはメリディアへ戻らなかった。
中央王城でも政務に支障はない。
それなら、ここにいる。
報告が届くまでの時間を少しでも短くしたかった。
セバスも戻ろうとは言わなかった。
一か月近くが過ぎたある日。
その日も、特別なことは何もなかった。
イザベラは朝から中央王城の執務室で書類を確認していた。
セバスは近くで届いた書簡を仕分けている。
廊下を急ぐ足音が聞こえた。
かなり速い。
扉の前で止まり、すぐに声が掛かる。
「陛下、中央都市冒険者ギルドより緊急報告です!」
イザベラの顔が上がった。
「入れ」
扉が開く。
使者は息を整える間も惜しむように、一礼して告げた。
「行方不明となっていたフトシ殿以下六名、先ほど生存が確認されました」
イザベラは動かなかった。
聞き間違いでないことを確かめるように、使者を見る。
「……六人ともか?」
「はい。六名全員です。大きな負傷もないとのことです」
そこでようやく、身体から力が抜けた。
椅子の背へ僅かに身体を預ける。
長く息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
だが、何週間も聞き続けた「手掛かりなし」とは違う。
生きている。
六人とも。
イザベラはセバスを見る。
いつもと変わらぬように立っている。
ただ、口元がほんの少し緩んでいた。
「セバス」
「はい」
「迎えに行くぞ」
「承知いたしました」
今すぐ必要な政務だけを補佐へ引き継ぎ、二人は中央王城を出た。
馬車が冒険者ギルドへ向かって走り出す。
ようやく安堵できたせいか、イザベラにも少し別の感情が戻ってきた。
「まったく。一か月近くも何をしておったのじゃ、あやつは」
「おそらく、ご本人方の意思によるものではないかと」
「分かっておる」
窓の外へ目を向ける。
「分かっておるが、それくらい言いたくもなる」
セバスは否定しなかった。
中央都市冒険者ギルドへ女王本人が到着すれば、当然周囲は慌ただしくなる。
入口で出迎えた職員たちの挨拶を受けながら、イザベラは足を止めなかった。
「形式はよい。フトシたちはどこじゃ?」
「こちらです、陛下」
責任者の案内で奥へ進む。
扉が開いた。
最初に目へ入ったのはフトシだった。
その近くにベル。
メイ。
シルク。
ウンディーネ。
キリコ。
一人ずつ確認する。
本当に全員いる。
歩けないほどの怪我も見当たらない。
フトシもイザベラに気づき、目を見開いた。
「イザベラさん?」
その声まで以前と変わらない。
イザベラは六人をもう一度見回してから、フトシへ視線を戻した。
言いたいことはいくらでもあった。
それでも、最初に出たのは一言だけだった。
「……無事であったか」
フトシが頭を下げる。
「はい。ご心配をおかけして、すみません」
「本当にの」
叱るつもりで来たわけではない。
表情を隠す必要もなかった。
一か月近く待っていた六人が、目の前にいる。
それだけでよかった。
セバスも一歩前へ出る。
「ご無事で何よりでございます、フトシ様」
「セバスさんまで……中央都市にいたんですか?」
「陛下と共に、こちらで政務を行っておりました」
フトシの顔に申し訳なさが浮かぶ。
それを見たセバスは穏やかに続けた。
「まずは、ご帰還を喜ぶべきでしょう」
そこで止めた。
イザベラも今はそれでいいと思った。
六人の無事を確認して、ようやく別のことに気づく。
一人多い。
見覚えのない女性が、フトシたちのそばに自然に座っている。
長い髪。
旅装に近い服装。
目立つほど派手ではないが、妙に落ち着いていた。
「……ところでフトシ。そちらの者は?」
「あ、はい」
フトシが女性を見る。
「リュエラさんです。今回のことで知り合って、これから一緒に旅をすることになりました」
一か月近く消息を絶ったと思えば、戻ってきた時には旅仲間が増えている。
やはり事情は簡単ではなさそうだった。
女性が立ち上がる。
「リュエラです。よろしくお願いします」
女王を前にしていると聞いても、過度に怯える様子はない。
かといって尊大でもなかった。
普通に挨拶をしている。
「イザベラじゃ」
イザベラも短く返す。
少し変わった者だとは思った。
だが、今ここで追及するほどのことではない。
「それで、何があった?」
ようやく本題へ入る。
フトシは少し考えてから答えた。
「かなり長い話になると思います」
「一か月分か?」
「たぶん、それ以上に説明することがあります」
イザベラは眉を上げた。
どこにいた。
なぜ一か月近く帰れなかった。
六人全員が無事なのはなぜか。
なぜ旅仲間が一人増えているのか。
聞きたいことは多い。
だが、フトシたちは今日ようやく戻ってきたばかりだ。
ギルドでの生存確認や報告も済ませた後だという。
ここからさらに何時間も拘束する必要はない。
「……分かった。簡単に済む話ではなさそうじゃな」
「すみません」
「謝るなとは言わぬが、詳しい話は明日にせよ」
フトシが顔を上げる。
「今日はもう城で休め」
「いえ、宿を取りますよ」
予想通りの返事だった。
イザベラはすぐに遮る。
「一か月近く消息を絶っておいて、戻ったその日にまで遠慮するでない」
「でも――」
「中央王城に部屋はいくらでもある。それに、お主らが本当に戻ったと確認した以上、今夜くらいはこちらで休ませよ」
フトシは少し迷った後、諦めたように頭を下げた。
「……分かりました。ありがとうございます」
その視線がリュエラへ向く。
イザベラも気づく。
「リュエラ殿も当然一緒でよい。これからフトシたちと旅をするのであろう?」
リュエラが少し微笑む。
「ありがとう。お言葉に甘えるわ」
女王の城へ招かれたというのに、やはり妙に自然な反応だった。
ますます少し変わった者だと思う。
だが、それも明日聞けばいい。
イザベラは改めて七人を見る。
待っていた六人は戻ってきた。
一人増えている。
聞きたいことは山ほどある。
それでも今は、全員が無事にここへいる。
まずはそれで十分だった。
「話は明日じゃ。今夜はまず休め」
「ありがとうございます」
フトシがもう一度頭を下げる。
セバスも、ようやく普段通りの柔らかな表情へ戻っていた。
イザベラは先に扉へ向かう。
一か月近く空いていた場所へ、ようやく六人分の足音が戻ってきた。
そして今夜は、そこへもう一人分が加わっている。
詳しい事情を聞くのは明日でいい。
七人を連れ、イザベラは中央王城へ戻るため歩き出した。




