第151話 谷底への帰還と、行方不明の六人
「それじゃあ、早速戻りましょう!」
茶を飲み終えたところで、リュエラさんが立ち上がった。
思っていたより勢いがある。
「もう行くんですか?」
「だって、一緒に行っていいって言ってくれたでしょう?」
「そうですけど」
迷宮を出ること自体に異論はない。
むしろ、途中になっている依頼がある以上、俺としても早く戻った方がいい。
ただ、ついさっきまで神域で暮らしていた人とは思えない切り替えの早さだった。
「地上へ出るの、楽しみなんですね」
そう言うと、リュエラさんは少しだけ笑う。
「久しぶりだもの」
本当に楽しみにしているらしい。
出発の前に、リュエラさんの周囲の空気が変わった。
何か派手な光が出るわけではない。
第百階層で会った時から感じていた、人間ではないと一目で分かるような存在感が静かに薄れていく。
姿そのものはほとんど変わらない。
長い髪も、顔立ちも、旅装に近い服装も同じだ。
それなのに今は、少し目を引く女性という程度にしか見えなかった。
ウンディーネもリュエラさんを見る。
『これなら、普通に見ただけじゃ分からないと思う』
「昔からこうして地上を歩いていたから、慣れているわ」
本人にとっては特別なことでもないらしい。
リュエラさんが片手を上げる。
少し離れた場所の空間が淡く揺らぎ、その奥に岩肌が見えた。
大きな儀式も詠唱もない。
「この先よ」
俺たちは七人で、その揺らぎの中へ進んだ。
一歩。
その次の瞬間、靴の下の感触が変わる。
硬い岩。
湿った空気。
大きな水音。
顔を上げれば、遥か上まで続く切り立った崖。
谷底を流れる大河。
見覚えのある景色だった。
「……戻ってきた」
ベルが周囲を見回す。
メイとシルクも匂いを確かめるように顔を動かしている。
ウンディーネとキリコも一緒だ。
俺も後ろを振り返った。
そこには岩壁しかない。
一か月近く前、巨大な入口が現れた場所。
光の線もない。
扉もない。
足元に俺たちを包んだ紋様も残っていない。
最初にこの場所を通った時と同じ、ただの岩壁だった。
神造迷宮の中でも日数は記録していた。
休息も取ったし、一日ほとんど進まなかった日もある。
「迷宮と外で、時間は同じくらい流れてるんですよね?」
念のため尋ねる。
「ええ。あそこだけ時間を早めたり止めたりはしていないわ」
ということは、地上でも一か月近く経っている。
依頼の予定を考えると、相当な遅延だ。
そこでリュエラさんを見て、別のことに気づいた。
「そういえば、リュエラさん」
「なに?」
「この世界で、リュエラさんのことを普通に話しても大丈夫なんですか?」
「私のこと?」
最初は意味が伝わらなかったらしく、少し首を傾げる。
「放浪の女神って、この世界でも知られてるんですよね?」
「ええ」
「その本人が普通に俺たちと旅してるって分かったら、大変なことになりませんか?」
神として知られてしまえば、普通に宿へ泊まったり、市場へ行ったりするのは難しくなるだろう。
神殿関係者や王族まで出てくるかもしれない。
それではリュエラさんがしたい旅にならない。
そこまで話すと、リュエラさんが少し嬉しそうに笑った。
「私が困らないか気にしてくれたのね」
「そりゃ、一緒に旅するなら」
「大丈夫よ。放浪の女神という存在は、地上でもかなり知られているわ。でも、私の姿を正確に知っている人はほとんどいないもの」
伝承では、旅人を見守る女神、自由を司る女神など、土地によって少し違う形でも語られているらしい。
神像や絵もあるが、時代や地域によって姿が違う。
本人そのものを知る手掛かりにはならないそうだ。
「リュエラって名前も?」
「そっちはもっと知られていないわね。私の名を知っているのは神使や神属、一部の神、それから神域と深く関わっている存在くらい」
地上で旅をしていた時も、本名は使っていなかったらしい。
「昔は何て名乗ってたんですか?」
「その時代や土地に合う名前を使っていたわ。同じ名前の女が何百年も各地の記録に出てきたら、おかしいでしょう?」
確かに。
「じゃあ、今回も別の名前にします?」
リュエラさんは少し考える。
「ううん。今回はリュエラでいいわ」
「大丈夫なんですか?」
「本名だって知っている人なんて、ほとんどいないもの。それに……」
少し間を置く。
「せっかくフトシが『リュエラさん』って呼んでくれるようになったのに、違う名前にするのも嫌だもの」
そこまで気に入っていたのか。
「それなら、大丈夫そうですね」
地上では、リュエラさんが神であることをこちらから話さない。
紹介が必要なら、新しく旅に加わったリュエラさん。
それだけでいい。
「別に絶対の秘密ではないわよ。必要なら私から話すから」
「分かりました」
余計な身分を作る必要もなさそうだ。
そこで周囲を見回す。
帰還はできた。
だが、まだ終わっていないことがある。
「じゃあ、残りの調査を済ませましょう」
「今から?」
リュエラさんが聞く。
「この依頼の途中で迷宮へ入ったので。ここまで戻ったなら、最後まで確認してから報告します」
元々、未知の入口へ勝手に入らず帰還を優先しようとしたのも、依頼中だったからだ。
一か月近く空いてしまったが、戻った直後に放り出す理由はない。
まず入口があった岩壁をもう一度確認する。
近づいても変化はない。
光の線もなく、あの時のような違和感も感じなかった。
リュエラさんは原因を知っているはずだが、何も言わず俺たちが確認するのを見ていた。
それから、依頼書に残っている地点へ向かう。
迷宮へ入る前に確認済みだった場所をもう一度最初から調べることはしない。
未確認だった経路を進み、崖壁や川の状態、橋脚周辺、崩落の有無を見ていく。
魔物についても特に異常はない。
リュエラさんも普通に歩いてついてくる。
先の様子を神の力で教えることもない。
早速、一人の旅人として俺たちの仕事についてきていた。
しばらく進んだところで、足元に見覚えのない杭が立っていることに気づいた。
「……これ、ありましたっけ?」
岩の割れ目へ打ち込まれた新しい杭。
少し先には目印らしい布。
崖沿いには簡易的なロープまで張られている。
ベルが近くまで飛ぶ。
「なかったと思う」
俺も同じ記憶だ。
地面を見れば、人が何度も通ったような跡がある。
一人や二人ではない。
「誰かが調査に入ったんでしょうか」
特に触る必要もないので、そのまま進む。
だが、似たような印はその後も何度か見つかった。
岩へ付けられた目印。
安全確認用らしい線。
別方向へ続く足跡。
来た時より明らかに、人が入った痕跡が増えている。
少し嫌な予感がした。
それでも先に依頼を終わらせる。
残る確認地点を回り、指定されていた項目を一通り確認した。
大きな異常は、結局あの消えた入口だけだ。
魔導昇降機のある場所へ戻る頃には、報告する内容も整理できていた。
管理区画へ近づく。
そこにいた管理員が、最初は普通にこちらを見た。
七人組が谷底側から戻ってきたので視線を向けた程度だ。
だが、俺たちが近づくにつれて、その顔が少しずつ変わった。
俺。
ベル。
メイ。
シルク。
人の姿をした女性が三人。
一か月近く前から捜索対象になっている一行の特徴と、かなり似ていたのだろう。
管理員が俺をじっと見る。
「……失礼ですが、フトシさんですか?」
「はい。そうです」
返事をすると、管理員の目が大きく開いた。
改めて俺の後ろへ視線を向ける。
誰が誰なのかまで分かっている様子ではない。
ただ、行方不明になっていた一行が戻ってきた可能性には気づいたらしい。
「ちょ、ちょっと待っていてください!」
そう言って、別の管理員がいる方へ走っていった。
残された俺たちは顔を見合わせる。
「何でしょう?」
ベルも分からないようだ。
だが、ここへ来る途中で見た杭やロープを思い出す。
「……もしかして」
一か月近い。
谷底調査へ出た冒険者が、予定を過ぎても帰らない。
翌日になっても戻らない。
さらに、そのまま何週間も。
「さっきの目印って、俺たちを探してた跡ですかね」
ベルも少し驚いた顔をする。
「そっか……」
迷宮の中では、帰る方法を探すことばかり考えていた。
外で何が起きているかまでは、深く考えていなかった。
考えてみれば当然だった。
しばらくして戻ってきた管理員から、冒険者カードを見せてほしいと言われた。
俺がカードを提示すると、名前と依頼記録を確認した管理員の表情がさらに変わる。
同行している人数や特徴も、手元にある連絡内容と照らし合わせているようだった。
詳しい確認はギルドで行うことになり、俺たちは昇降機へ乗せてもらう。
中央都市へ戻るまでの間も、俺の頭には捜索の痕跡が残っていた。
地上へ上がり、そのまま中央都市冒険者ギルドへ向かう。
まずは依頼の報告だ。
建物へ入り、いつものように受付へ進む。
「すみません」
受付の職員が顔を上げる。
俺を見る。
手元の冒険者カードを見る。
そして、もう一度俺を見る。
そのまま後ろにいる一行へ視線を移した。
「中央大峡谷の谷底定期調査の報告に来ました」
カードを差し出す。
受け取った職員が名前を確認したところで、動きが止まった。
「……フトシさん?」
「はい」
少しの沈黙。
「……生きてた……」
その一言で、近くにいた別の職員がこちらを見る。
「え?」
さらに一人。
すぐに奥が騒がしくなった。
「フトシさんが戻ったって?」
「一緒にいた方々も確認して!」
「責任者を呼んで!」
普通に依頼報告へ来ただけなのに、ギルド内の仕事が止まりかけている。
俺たちは完全についていけなかった。
奥から責任者らしい人まで出てきて、まず失踪時の同行者が揃っているか確認することになった。
俺が冒険者カードを提示し、ベルたちについても失踪時に届け出られていた同行者情報と照合される。
ベル。
メイ。
シルク。
ウンディーネ。
キリコ。
ここで初めて、ギルド側も記録と俺たちからの確認を合わせて六人全員の無事を確定した。
誰にも大きな負傷はない。
そのことまで確認して、職員の何人かがようやく息を吐いた。
「ご心配をおかけして、すみません」
頭を下げる。
「謝るのは後でいいです」
受付の職員にすぐ止められた。
「まず、本当に無事でよかったです」
その言い方で、思っていた以上に心配を掛けていたことが分かる。
そして、六人の生存確認が終わったところで、職員の視線が一か所に集まった。
当然だ。
一人増えている。
「……ところで、そちらの方は?」
俺はリュエラさんを見る。
「リュエラさんです。これから一緒に旅をすることになりまして」
「リュエラです」
本人も普通に頭を下げる。
職員が僅かに黙った。
一か月近く行方不明だった六人が全員無事に帰ってきて、その上、知らない女性が一人増えている。
処理に困っている顔だ。
「それで、依頼なんですけど」
カードと記録を出そうとすると、責任者に止められた。
「申し訳ありませんが、ここでは少し……」
通常の受付で済む話ではないらしい。
そのまま奥の部屋へ案内された。
全員が座ったところで、まず俺たちが消えた後の話を聞かされた。
予定時間を過ぎても帰ってこなかった。
最初は魔物との遭遇や、調査の遅れが考えられた。
だが翌日になっても戻らないため、捜索隊が出た。
「皆さんが調査していた経路自体は、ある程度追えました」
責任者が話す。
谷底を指定経路に沿って進んでいたこと。
確認を行いながら移動していたこと。
そうした痕跡は残っていた。
「ですが、ある岩壁の付近で足取りが突然途切れていました」
やはり、あの場所だ。
「血痕もありませんでした。戦闘跡も、大規模な崩落もない。装備や荷物の一部すら見つからなかった」
「入口は?」
「ありませんでした」
捜索隊が来た時には、すでに普通の岩壁だったらしい。
それで調査範囲を広げた。
周辺の洞窟。
川の下流。
崖壁。
魔物の巣がある場所も、安全を確保できる範囲で確認した。
一度ではなく、何度か捜索隊が出ている。
途中からは二次遭難を避けるため、谷底だけに人員を増やすのではなく、各都市や街道、検問所にも生存情報を求める連絡を回したという。
「そんなことになってたんですね……」
「一か月近く、六人まとめて手掛かりがなかったんです」
責任者の言葉が重い。
俺は事情を簡潔に説明した。
「谷底を調査している途中で、地図にない巨大な入口が現れました」
依頼書の指示通り、勝手に入らず戻って報告しようとしたこと。
その直後、足元に紋様が現れて六人全員が別の場所へ転移したこと。
外へ戻る道が見つからず、帰還方法を探しながら長期間行動したこと。
そして、ようやく元の谷底近くへ戻れたこと。
今はそこまでに留めた。
百階層ある神造迷宮。
天空古龍。
神々。
放浪の女神本人。
【放浪神の加護】。
全部を通常の依頼報告の流れで話す内容ではない。
隣には、その放浪の女神本人が何食わぬ顔で座っている。
「詳細については、誰にどこまで話すべきか相談させてください」
「それがいいでしょう」
責任者もすぐ頷いた。
それから表情を少し改める。
「ただし、皆さんの生存確認については、すぐ王国側へ報告しなければなりません」
「王国にもですか?」
「当然です」
そこまで大きな話になっているとは思っていなかった。
「あなた方の失踪は、すでにイザベラ陛下まで報告されています」
「……そこまで大事になってたんですか」
思わず声が出た。
最初は谷底調査へ向かった冒険者六人の失踪だった。
だが、確認を進めれば俺たちが誰なのか分かる。
イザベラさんとは何度も会っている。
王家の後ろ盾の証まで預かっている。
大聖樹の件にも関わった。
同行者についても、王城側が把握している者がいる。
中央都市は国の行政に関わる施設も多い。
そこから王国側へ話が上がり、イザベラさんやセバスさんのところまで届いたらしい。
「陛下からは捜索を継続するよう指示が出ています。ただし、捜索側へ無理をさせて犠牲を増やすような形ではありません」
遺体もない。
戦闘跡もない。
六人が同時に消えている。
そのため死亡とは判断せず、転移や特殊な場所へ入った可能性も含めて情報を集めていたそうだ。
リュエラさんが隣から俺を見る。
「ずいぶん心配されていたのね」
「みたいですね……」
迷宮の中にいた俺には分からなかった。
イザベラさん。
セバスさん。
メリディアの王城にいる人たち。
中央都市のギルド職員。
何度も谷底へ入った捜索隊。
その人たちは、俺たちがどこにいるかも分からないまま探していた。
少し申し訳なくなる。
「……イザベラさんにも、ちゃんと説明しに行かないといけませんね」
「行くというより、まずはこちらから帰還を知らせます」
責任者がすぐに返した。
「今は皆さんが生きて戻ったこと自体を、一刻も早く伝える必要があります」
そのまま職員を呼び、王国側への緊急報告を指示する。
部屋へ入ってきた職員も、俺たちが帰還したと聞いて一瞬驚いたが、すぐ指示を受けて慌ただしく出ていった。
本当なら、依頼を終えて報告し、そのままオアサリアへの旅を再開するつもりだった。
だが、そう簡単にはいかないらしい。
横を見る。
一か月前にはいなかったリュエラさんが、普通に俺たちと並んで座っている。
本人は地上へ出て早々の騒ぎを眺め、少し楽しそうだった。
「地上へ戻って早々、随分忙しくなりそうね」
「……そうみたいですね」
神造迷宮を百階層まで進み、ようやく戻ってきた。
俺たち七人の新しい旅は、静かな再出発ではなく、一か月近く行方不明だった六人の生還騒動から始まることになった。




