第150話 神域のすき焼きと、女神の願い
薄く引いた星角野牛の肉を、一枚ずつ重ならないよう大皿へ並べていく。
第九十四階層の厨房を預かる神へ話を通してもらい、今回使う分だけ星角野牛と澄香茸を用意してもらった。
神域で管理されている食材なので、必要な量だけだ。
星角野牛は脂と赤身の入り方を見ながら、すき焼きに合う薄さへ揃える。
澄香茸は肉厚な形を残して切り、大玉葱も用意した。
第九十四階層では、神域食材を使って割烹仕立ての料理を八品作った。
だから今日は、また同じように何皿も並べるつもりはない。
リュエラ様が知りたがっているのは、日本料理そのものだけではなく、俺が暮らしていた世界のことだ。
それなら、料理人が完成させた皿を順番に出すより、食べる側もその場で仕上がりを楽しめる料理がいい。
そう考えて選んだのが、すき焼きだった。
ただ、最初から大きな鍋を七人で囲む形にはしなかった。
俺たち六人は普段から同じ鍋を囲んでいるが、リュエラ様とは今日初めて顔を合わせたばかりだ。
まずは一人ずつ取り分けながら、すき焼きそのものを味わってもらう。
鍋を囲むのは、その後でいい。
割り下は天然醸造生醤油、本みりん、自家製日本酒、砂糖。
星角野牛そのものの味が濃いので、醤油も甘味も強くしすぎない。
日本酒とみりんのアルコールを飛ばし、後から肉や野菜の旨味が加わることも考えて少し軽めに整えた。
インディカ米も炊いておく。
日本米のような粘りを出そうとはせず、この米らしく粒を立たせた。
最後に用意するのは卵だ。
今まで卵は何度も料理に使ってきた。
出汁巻き卵。
温泉卵。
衣や菓子にも使っている。
だが、生のまま食べて問題ないかを確かめたことはなかった。
すき焼きを食べてもらうなら、溶き卵まで含めて知ってほしい。
手持ちの卵から、殻にひびがなく状態のいいものを取り出す。
外から見た限り異常はない。
通常のアイテムボックス内では時間が止まっているため、収納後に鮮度が落ちたわけでもない。
それでも決めつけず【鑑定】する。
【卵】
詳細:食用として保存された状態の良い卵。殻に損傷はなく、適切な保存状態が維持されているため鮮度は良好。加熱調理だけでなく、現在の状態であれば生食も可能。
「これなら大丈夫だな」
同じように、使う卵を一つずつ確認する。
全部、生食可能な状態だった。
準備を整えてリュエラ様の居室へ戻ると、卓の中央には神使が用意してくれた平たい厚手の鍋を置いてもらった。
まだ鍋には何も入れていない。
大皿には星角野牛。
別の皿に大玉葱と澄香茸。
七人分の器と、炊いたインディカ米。
それから小鉢を並べる。
リュエラ様が卓を見回した。
「今日は昨日とは随分違うのね」
「はい。今日は、すき焼きです」
「スキヤキ」
初めて聞く名前を確かめるように繰り返す。
「肉を中心に、甘辛い味で仕上げる料理です。途中からはみんなで鍋を囲んで食べますけど、最初は俺が一人分ずつ作ります」
「途中から?」
「食べてもらえば分かると思います」
リュエラ様が楽しそうに頷いた。
そこで卵を一つ割り、小鉢へ落とす。
黄身と白身を箸で軽く崩す。
リュエラ様の視線が手元へ向いた。
「それも料理に使うの?」
「食べる時に使います」
「生のまま?」
少し意外そうではあるが、嫌がっているわけではない。
「はい。ちゃんと生で食べられる状態か確認してあります」
「肉をこれにつけるの?」
「そうです。ただ、最初の一枚は卵なしで食べてみてください」
「生卵を使わなくても完成している料理なのね」
「もちろんです」
リュエラ様は溶いた卵を見る。
「でも、フトシの世界ではつけて食べる人が多いんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、それもやってみたいわ」
即答だった。
リュエラ様の前へ卵を置く。
「こうやって黄身を崩して、白身と軽く混ぜます」
俺がもう一度見せる。
リュエラ様も箸を持ち、少し慎重に黄身を崩した。
白身を切るように何度か箸を動かす。
「これくらい?」
「はい。それくらいで大丈夫です」
「分かったわ」
小鉢を自分の前へ置き、今度は鍋へ視線を移す。
まず星角野牛の脂を少量だけ馴染ませる。
温まった鍋へ肉を一枚広げた。
ジュッと高い音が立つ。
表面の色が変わり始めたところで、砂糖をごく少量。
続けて割り下を回しかける。
醤油と酒の香りが一気に立ち上がった。
肉を返し、火を入れすぎる前に引き上げる。
それを小さな器へ盛り、リュエラ様の前へ置いた。
大玉葱を薄く焼いたものと、澄香茸も少量だけ添えてある。
いきなり鍋いっぱいに具材を煮るのではなく、まずは一皿としてすき焼きの味を知ってもらう。
「最初はそのままでどうぞ」
リュエラ様が肉を口へ運ぶ。
ゆっくり噛む。
星角野牛そのものは、すでに何度か食べている。
だが今回の味付けは、第九十四階層で食べた香草焼きとも、俺が作った酒醤油の炭火焼きとも違う。
砂糖の甘味。
生醤油の香り。
本みりんと日本酒の丸み。
肉から出る脂。
全部が熱い肉へ薄く絡んでいる。
リュエラ様が少し目を開いた。
「……おいしい」
それだけ言って、器に残る肉をもう一度見る。
「甘いのに、肉の味が消えないのね」
「甘くしすぎると星角野牛がもったいないので、今日は少し控えめです」
「これだけでも好きだわ」
その言葉を聞いてから二枚目を焼く。
今度は少しだけ割り下を多めにまとわせた。
「次は、それをさっきの卵へ」
リュエラ様が箸で肉を取り、溶き卵へくぐらせる。
熱い肉へ黄色い卵がまとわりつく。
そのまま口へ運んだ。
一瞬、動きが止まった。
熱が少し落ち着き、割り下の甘辛さが卵で丸くなる。
卵黄のコクと星角野牛の脂が重なり、舌触りまで変わる。
リュエラ様の表情がはっきり緩んだ。
「……こっち、好き」
思わず少し笑いそうになる。
かなり分かりやすい。
「気に入りました?」
「ええ」
三枚目を焼いて渡すと、今度は何も言わなくても自分から溶き卵へくぐらせた。
卵なしの方が劣ると言っているわけではない。
最初の一枚もきちんと味わっていた。
単純に、本人の好みに合ったらしい。
他のみんなにも同じように、まず肉を一枚ずつ仕上げていく。
ベル。
キリコ。
ウンディーネ。
メイとシルクの分は一口の大きさと温度だけ調整する。
同じ肉。
同じ割り下。
希望するなら同じ溶き卵だ。
全員が最初の数枚を食べ終えたところで、炊いたインディカ米をよそう。
「俺はこれをご飯と食べるのも好きでした」
リュエラ様が肉と米を交互に食べる。
最初は確かめるようだったが、二口目から自然になった。
「これも合うわね」
「肉の味が濃いので、ご飯があると食べやすいんです」
それから大玉葱を鍋へ入れる。
切った面へ軽く焼き色を付け、割り下を少し。
星角野牛の脂を吸わせながら、ゆっくり火を入れる。
澄香茸も横へ並べる。
煮込みすぎず、肉厚な食感と香りが残るところで止める。
一人分ずつ器へ取り、肉と一緒に渡す。
リュエラ様が大玉葱を食べた。
「これ、さっきより甘い」
「玉葱自体の甘味も出てます」
続いて澄香茸。
割り下を吸っているが、噛めば中から澄んだ香りが戻ってくる。
一通り味わってもらったところで、ようやく鍋へ多めの具材を加えた。
大玉葱。
澄香茸。
そして星角野牛。
割り下も少し増やす。
「ここからは、食べたいものを取りながら食べましょう」
リュエラ様が鍋を見る。
「これが、さっき言っていた皆で囲む食べ方?」
「はい」
最初から同じ鍋へ箸を伸ばすのではなく、料理そのものを知ってもらった後だ。
リュエラ様もすでに七人で食事をしている空気に馴染んでいる。
「これはもう食べられる?」
鍋の中の澄香茸を示す。
「それは大丈夫です。こっちの大玉葱はもう少しですね」
「分かったわ」
リュエラ様が自分で澄香茸を取る。
溶き卵へ少しだけ通し、食べる。
一度説明すると覚えるのも早い。
肉の色を見て、大玉葱の透明感を見て、澄香茸の表面から出る水分を見る。
少し経つ頃には、
「この肉はもういいわよね?」
「はい」
俺が頷くだけで、自分で取るようになっていた。
ベルも鍋へ手を伸ばす。
キリコは澄香茸を取る。
ウンディーネも肉を選んでいる。
メイとシルクには、火の入った具材を俺が取り分けて、少し冷ましてから渡す。
いつもの六人の食事に、一人増えた。
少しずつ、本当にそんな感じになってきた。
鍋へ具材を足すたび、肉や大玉葱、澄香茸の味が割り下へ移る。
リュエラ様も途中で気づいた。
「最初に食べた時と、少し味が違うわ」
「鍋の中に色々な味が出てきてますから」
「同じ料理なのに、食べている途中で変わるのね」
その変化まで楽しむように、次は大玉葱を取った。
ふと見ると、リュエラ様の溶き卵がかなり減っている。
本人も一度小鉢を見る。
それから俺を見る。
「もう一個使います?」
一瞬だけ表情が明るくなった。
「いいの?」
「まだ食べるなら」
「食べるわ」
在庫には問題ない。
状態を確認した卵を一つ渡す。
リュエラ様はもうやり方を覚えている。
自分で殻を割り、箸で黄身と白身を混ぜた。
「今度は聞かなくてもできるわ」
「もう完璧ですね」
少しだけ得意そうに笑う。
二つ目の溶き卵へ肉を通し、そのまま米も一口。
随分気に入ったらしい。
「あなたの世界では、こういうふうに皆で一つの鍋を食べるの?」
食事が落ち着いてきたところで、リュエラ様が聞く。
「はい。すき焼きを毎日食べるわけではないですけど、家族とか親しい人で鍋を囲む料理は色々あります」
「すき焼きは少し特別?」
「肉が主役なので、俺にはそういう感覚がありました」
「最初は一皿ずつ出てきたから、もっと改まった料理なのかと思ったわ」
「今日はリュエラ様と初めて食事するので、最初から鍋を囲むより、その方がいいかなと思って」
リュエラ様が少し目を丸くする。
それから、鍋と七人の器を見回した。
「じゃあ、今は?」
「もう大丈夫かなと」
「そう」
短く答えたが、少し嬉しそうだった。
食事はそのまま続く。
誰かが肉を取る。
具が減れば俺が足す。
メイとシルクの分を冷ます。
ベルが自分の器へ大玉葱を取る。
キリコが澄香茸を食べる。
リュエラ様も自然に鍋へ箸を伸ばす。
最初に思っていた「女神へ料理を振る舞う」という空気は、もうほとんど残っていなかった。
「フトシも、日本ではすき焼きを作っていたの?」
「作ってましたよ。働いてた店でも、家でも」
「味処・藤ね」
「覚えてたんですね」
「もちろん」
リュエラ様はすぐ続ける。
「フトシは、そこで何が一番好きだったの?」
日本のことではなく、俺のことを聞かれた。
少し考える。
「一番は難しいですね。魚を扱うのも好きでしたし、出汁を取るのも好きでした。賄いで、残っている食材を見ながら何を作るか考えるのも楽しかったです」
「高校生の頃から働いていたのよね?」
「そうです。親方にかなり教えてもらいました」
包丁の使い方。
食材の状態を見ること。
出汁。
火加減。
厨房での動き方。
今やっていることの基礎は、ほとんどそこで覚えた。
「今とあまり変わっていないのね」
リュエラ様が笑った。
「世界が変わっただけかもしれません」
本当にそうかもしれない。
料理をすること。
知らない食材を見ること。
食べたことのない料理を探すこと。
日本にいた頃より、できることが増えただけだ。
鍋の中身もかなり減った頃、今度はこちらから尋ねる。
「リュエラ様は、地上へ行ったら何を見たいんですか?」
「そうね……」
窓の外へ目を向ける。
「昔歩いた場所を、もう一度見たいわ」
何百年か経って戻れば、町がまるごと変わっていることもあるらしい。
小さな集落だった場所が大きな都市になっていた。
昔の道が消えて、新しい道ができた。
食べ物も服も変わった。
逆に、なくなってしまった町もある。
「世界をたくさん見てきたことと、今の世界にもう見るものがないことは別なの」
「確かにそうですね」
どんな場所も変わる。
長く生きるリュエラ様なら、その変化そのものを見ることも旅なのだろう。
「ここを出たら、どこへ行くの?」
「まずは中央大峡谷へ戻ります」
谷底定期調査の途中だったことを説明する。
依頼を受けたまま神造迷宮へ入ってしまった。
帰れるなら、まず冒険者ギルドへ報告しなければならない。
「その後は、オアサリアへの旅を再開する予定です」
「オアサリア」
リュエラ様が少し懐かしそうな顔をする。
「行ったことがあるんですか?」
「あるわ。人の姿でね」
「どんなところでした?」
聞いてから、全部教えてもらうのも違う気がして言葉を止める。
リュエラ様も察したらしい。
「砂と水の国よ。私が最後に歩いた時とは、きっとまた変わっているでしょうね」
それ以上は話さなかった。
知らない場所へ行く楽しみを、この人もよく分かっている。
やがて鍋の火を落とす。
食事が終わり、卓の上が少し静かになった。
リュエラ様がベルたちを順に見て、それから俺へ視線を戻す。
「あのね」
「はい」
少しだけ言い出しにくそうだった。
「私も一緒に行っていい?」
意味を理解するまで、一瞬かかった。
「女神様が、俺たちとですか?」
「ええ」
リュエラ様が頷く。
「久しぶりに人の姿で地上を歩きたいの。前に見た場所が今どうなっているのかも見たいし、私の知らないものもまた増えているでしょうから」
そこまでは、放浪の女神としてよく分かる。
だが、リュエラ様はそこで少しだけ間を置いた。
「それに……フトシがこれから何を見つけるのか、今度は隣で見てみたいの」
少し引っ掛かる言い方だった。
ただ、何が引っ掛かったのかまでは分からない。
それより先に考えたのは、上位神がこの神域を離れて大丈夫なのかということだった。
すぐに答えなかった俺を見て、リュエラ様の表情がほんの少し変わる。
「……駄目かしら?」
「いえ、そうじゃなくて」
慌てて否定する。
「女神様がここを離れて大丈夫なのかなと思ってました」
「ああ」
少し安心したようだった。
「それなら大丈夫よ。昔から長く地上へ出ることはあるもの」
この居城には神使や神属、役目を持つ下位神たちがいる。
普段からリュエラ様一人で全部を管理しているわけではない。
必要なら神域へ戻ることもできるらしい。
「地上では今まで通り、人間と変わらない姿になるわ。街道を歩いて、宿に泊まって、馬車にも乗る」
「神様の力で全部済ませるわけじゃないんですね」
「そんなことをしたら旅にならないでしょう?」
それも、ここまで聞いてきたリュエラ様らしい答えだった。
ただし俺一人で決めることではない。
「みんなはどう?」
ベルたちを見る。
キリコが先にリュエラ様へ向いた。
「リュエラ様も一緒に来るの?」
「ええ。できれば」
リュエラ様は答えてから、少しだけ笑った。
「でも、一緒に旅をするなら『様』はいらないわ。地上では普通の旅人として歩くつもりだもの」
「じゃあ、リュエラ?」
キリコが確かめる。
「ええ。それでいいわ」
「わたしはいいよ、リュエラ」
キリコはすぐに新しい呼び方へ変えた。
リュエラ様もそれを嫌がる様子はなく、むしろ少し嬉しそうだった。
ベルも特に反対する様子はない。
メイとシルクもリュエラ様を見た後、普段通り俺の側にいる。
ウンディーネも頷いた。
『旅人として一緒に来るなら、わたしもいいよ』
全員、大丈夫らしい。
「じゃあ、一緒に行きましょう」
俺が答える。
リュエラ様は一瞬だけ黙った。
それから、普通に嬉しそうに笑った。
神として見せていた落ち着いた笑みとは少し違う。
旅へ出られることが決まった人の顔だった。
「ありがとう」
これからは七人になる。
まだ実感は薄いが、そう決まった。
そこでリュエラ様が俺を見る。
「フトシも、地上で女神様って呼ぶのはやめてね」
「それはそうですね」
人の姿で街へ入って、隣から女神様と呼んでいたらすぐ目立つ。
キリコのように呼び捨てでも構わないと言われている。
ただ、さっきまで上位神として話していた相手を、いきなり名前だけで呼ぶのは少し難しい。
「じゃあ……リュエラさんで」
リュエラ様が一瞬だけ目を丸くした。
「リュエラさん」
もう一度呼ぶ。
すると表情が柔らかくなった。
「うん。それがいいわ」
ベルが一度こちらを見たが、何も言わなかった。
食事を片付けた後も、すぐ地上へ戻ることにはしなかった。
俺は手持ちの茶葉で茶を淹れる。
卓を囲む人数は、食事を始めた時と同じ七人だ。
それでも、今は意味が違う。
湯気の立つ器を一つ差し出す。
「リュエラさん、お茶も飲みますか?」
ほんの少しだけ間があった。
リュエラさんは俺を見て、柔らかく笑う。
「ええ。いただくわ」
差し出した茶を受け取る。
卓を囲んでいるのは、俺、ベル、メイ、シルク、ウンディーネ、キリコ。
そしてリュエラさん。
世界を長く歩いてきた放浪の女神が、今度は俺たちの旅仲間として同じ席に座っていた。




