第148話 放浪の女神と、世界を越える術
扉へ込めた力に応じて、重そうに見えた白い大扉が静かに開いていく。
その向こうから差し込んできたのは、柔らかな光だった。
俺たちはそのまま六人で第百階層へ足を踏み入れる。
そこは、今まで十階層ごとに待っていた階層主の広間とはまるで違った。
大きな窓と、外へ開かれた柱廊。
その先には高い場所に作られた庭と、どこまでも広がっているように見える空がある。
室内には大きすぎない卓と椅子が並び、壁際には小さな置物や、どこかの土地で使われていたらしい器がいくつか飾られていた。
玉座はない。
神を前に跪くための場所にも見えない。
第九十五階層から見てきた旅道具や記録と同じで、ここにも長く旅をしてきた誰かが暮らしているような空気があった。
そして、その窓辺に一人の女性が立っていた。
見た目だけなら、俺より少し年上に見えるくらいだろうか。
長い髪と、旅装にも見える動きやすそうな衣服。
派手な装飾を身につけているわけではない。
それでも、人間ではないことだけは俺にも分かった。
何かをされているわけでもないのに、そこにいるだけで今まで会った存在とは違う。
隣でウンディーネの姿勢が自然と正された。
天空古龍を前にした時とも違う。
強敵へ警戒しているというより、存在そのものの隔たりを感じ取っているようだった。
女性は俺たち六人を見て、穏やかに笑った。
「待っていたわ」
まず俺だけを見るのではなく、ベル、メイ、シルク、ウンディーネ、キリコへ順に目を向ける。
「六人とも、よくここまで来たわね」
「ありがとうございます」
どう返すのが正しいのか少し迷ったが、いつも通り頭を下げる。
ベルたちもそれぞれ礼をした。
女性はそんな俺たちを見てから、自分を示すように軽く手を胸元へ置いた。
「私はリュエラ。放浪と自由を司る神よ」
ようやく、神造迷宮を造った本人の名前を知った。
「周りからは放浪の女神なんて呼ばれているけれど、ここではリュエラで構わないわ」
「分かりました、女神様」
名前でいいと言われても、初対面から呼び捨てにはしにくい。
リュエラ様は少しだけ笑ったが、訂正はしなかった。
「座りましょうか。聞きたいことがたくさんあるでしょう?」
「はい」
実際、多すぎるくらいある。
大峡谷に現れた入口。
なぜ俺たち六人だったのか。
【探求者】との関係。
この迷宮を造った理由。
それ以外にも、ここまで来る間に増えた疑問はいくつもあった。
だが、俺には最初に聞いておきたいことがあった。
席へ着く前に、リュエラ様を見る。
「その前に、一つだけ聞いてもいいですか」
俺の声が少し硬くなったのが自分でも分かった。
リュエラ様もそれを感じたのか、表情を改める。
「ええ」
「俺が召喚される前にいた世界へ、帰ることはできますか?」
迷宮の外ではない。
ロドリス王国へ召喚される前。
日本があった、元の世界へ。
ずっと分からなかったことだった。
迷宮の最深部に帰還経路があると知った時から、その可能性も少しは考えていた。
神造迷宮を造った本人にまで会えたのだから、確認せずにはいられない。
リュエラ様はすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せ、それから俺を見る。
「先に、二つを分けて話すわね」
「はい」
「この神造迷宮から出る方法なら、ちゃんとあるわ」
その言葉に、後ろにいたベルたちの空気が少し緩んだ。
「ここから帰還すれば、あなたたちはこの世界の地上へ戻れる。基本的には、この迷宮があなたたちを招いた中央大峡谷の近くへ戻すことができるわ」
それなら、谷底の調査へ戻れる。
予定よりどれだけ遅れているかは分からないが、少なくとも冒険者ギルドへの報告はできる。
「でも、それはあなたが元いた世界へ帰る道とは別のものよ」
やはり、そう簡単ではなかった。
リュエラ様は誤魔化さず続けた。
「あなたが元いた世界へ帰す方法は、私も知らない」
しばらく、言葉が出なかった。
絶対に帰れないと言われたわけではない。
それでも、この世界を長い間旅してきた上位神でも方法を知らない。
その事実は重かった。
ベルたちも何も言わない。
俺は少し時間を置いてから頷いた。
「……そうですか」
自分でも思ったより静かに声が出た。
今すぐ日本へ帰りたいと決めていたわけではない。
この世界には、もう俺の生活がある。
ベルもメイもシルクもウンディーネもキリコもいる。
旅の途中で知り合った人たちもいる。
まだ行く予定だった場所も、やるべきことも残っている。
それでも、帰れるのかどうかすら分からないままなのと、今のところ方法が分からないと知るのとでは違う。
一度は知っておきたかった。
「絶対に無理、ということですか?」
「そこまでは言えないわ」
リュエラ様は首を横に振る。
「私が知らないだけ。これから先も絶対に方法が見つからない、とまでは言えない」
それなら十分だ。
少なくとも、可能性そのものまで消えたわけではない。
少し息を吐くと、リュエラ様が窓の外へ目を向けた。
「方法があるなら、私も一度くらい別の世界へ行ってみたいんだけどね」
「女神様でも行けないんですか?」
思わず聞き返す。
「ええ」
あっさりした返事だった。
第九十七階層には、世界中へ続く門があった。
あれを見た時、この人ならどこへでも行けるのだと思っていた。
「私の道は、この世界の中ならかなり遠くまで繋げられるわ。でも世界そのものの境界は別なの」
リュエラ様が少し楽しそうに続ける。
「別世界があること自体は知っているし、異世界から存在が呼ばれた記録もある。だから昔、私も調べたことがあるのよ」
「行く方法を?」
「そう。古い魔術の記録を探したり、世界の境界について残された資料を読んだり、過去の異世界召喚について調べたりね」
放浪の女神らしいと言えば、確かにらしい。
この世界をあれだけ歩いても届かない場所があるなら、気にならないはずがないのだろう。
「でも、自分で別世界へ渡る方法は見つけられなかったわ」
「じゃあ、俺たちが召喚された魔法は……?」
俺たちは実際に日本からこの世界へ来ている。
俺だけではない。
同じ場所にいた四人も一緒だった。
リュエラ様は頷いた。
「ロドリス王国が使った異世界召喚術ね。あれは本物よ」
少し意外だった。
ロドリス王からは、伝説の召喚術を使ったと聞かされた。
あの説明の全部を信じているわけではないが、召喚術そのものについては嘘ではなかったらしい。
「とても古い術よ。作ったのは神ではなく、人間の魔術師たち」
「人間が?」
「ええ」
リュエラ様は素直に感心したような顔をした。
「よく人の身で、あそこまでの術式を作ったものだと思うわ」
遥か昔。
長い研究の末に、人間の魔術師たちが異世界召喚術を完成させたらしい。
普通の転移魔法とは規模も仕組みも違う。
人が作り上げた魔術の中でも、かなり特殊なものだという。
「今のロドリス王国の人たちも、その仕組みを全部理解してるんですか?」
「おそらく違うわ」
リュエラ様が答える。
「今使われているのは、昔に完成した術式を継承して、失われた部分を復元しながら起動できる形へ残したもの。必要な魔力や触媒、手順は知っていても、最初から同じものを組み直せるほど原理を理解しているわけではないでしょうね」
昔作られた巨大な仕組みを、使い方だけ受け継いでいるようなものか。
「その術なら、世界を越えられるんですよね?」
「少し違うの」
リュエラ様が卓の上へ手を置いた。
「異世界召喚術は、二つの世界を繋ぐ扉を作っているわけではないわ」
「扉じゃない?」
「一瞬だけ世界の境界へ干渉して、その外側にいる存在へ手を伸ばすの」
リュエラ様がこちらへ手を伸ばす。
「向こうへ迎えに行く道を作るのではなく、条件に合った相手を見つけて、こちら側へ引き寄せる。それに近いわね」
差し出されていた手が戻る。
「引き寄せた瞬間、干渉は終わる。二つの世界を結ぶ道は残らない」
それで少し分かった。
俺たちは日本からこちらへ通じる門を歩いてきたわけではない。
召喚された瞬間だけ、こちら側から何かが届いた。
そして俺たちを引き寄せた後、その繋がり自体が消えた。
「同じ術を逆に使ったら駄目なんですか?」
当然浮かんだ疑問を聞く。
リュエラ様は首を横に振った。
「外にいる誰かをこちらへ引き寄せることと、こちらにいる誰かを特定の世界へ送り出すことは、同じではないの」
「でも、俺がいた場所が分かれば……」
「その場所が分からないのよ」
そこで言葉が止まった。
「日本という土地の場所ではないわ。あなたの世界そのものが、こちらから見てどこにあるのか分からない」
地図の上の遠い国とは違う。
海を越えた先でもない。
世界そのものが別なら、距離で示すこともできないのだろう。
「召喚された時の繋がりも、もう残っていない。あなたが来た世界を指定するための位置も、道もない。それでは送り返そうとしても、行き先を定められないわ」
「なるほど……」
単純に魔法を反対向きへ使えばいいという話ではなかった。
第九十七階層にあった門も、この世界の中で二つの場所を繋いでいる。
行き先が同じ世界にあって、どこへ繋ぐのか分かっているから使える。
日本はそうではない。
「女神様なら、その召喚術を使うことはできないんですか?」
「術式そのものなら、見ればかなりの部分は理解できると思う。でも、世界の境界へ干渉している根の部分は、私の権能とは違うものなの」
リュエラ様は自分の胸元へ軽く手を当てる。
「私は放浪と自由を司る神。この世界を巡ることには強く関われるけれど、世界そのものを越える神ではないわ」
上位神だから何でもできるわけではない。
料理を預かる神が日本料理を知らなかったように、神にも知らないものや、できないことがある。
ここまで来て、それが少しずつ分かってきた。
そこで、別の疑問が浮かんだ。
「じゃあ……俺たちを日本から召喚したのは、女神様じゃないんですか?」
リュエラ様が俺を見る。
「違うわ」
はっきりした答えだった。
「あなたたちをこの世界へ呼んだのは、ロドリス王国が起動した異世界召喚術。私は関わっていない」
「俺が日本にいた頃から見てたわけでも?」
「それも違うわね。あなたを知ったのは、こちらへ召喚されてからよ」
今まで別々だったものが、少しずつ整理されていく。
異世界召喚。
神造迷宮。
放浪の女神。
全部が最初から一つの出来事だったわけではない。
「異世界召喚なんて滅多に起こらないものだから、外から来た人たちが現れたことには私も気づいたわ」
「最初は俺たち全員を見てたんですか?」
「そうね」
リュエラ様は少し考えてから頷く。
「別世界から来た人間が何を知っているのか、どんな考え方をするのか。それだけでも私には十分珍しかったから」
それから、視線が俺へ戻った。
「最初にあなたが気になったのも、あなた自身というより、あなたが持っていた知識よ」
妙に正直だった。
「料理もそう。道具もそう。文化もそう。私が長くこの世界を歩いても、一度も見たことのないものをあなたはたくさん知っていた」
この世界を実際に歩いて知っている量では、創造神を除けばほとんど並ぶ者がいない。
昨日、そう聞いた。
そんな人からすれば、まったく知らない世界から来た人間は気になるのだろう。
「でも、それだけなら、他の召喚された人たちも同じですよね?」
「ええ」
リュエラ様はあっさり認めた。
「だから最初は、その程度だったの」
最初は。
その言葉が少し気になった。
「時々あなたたちの様子を見ていたわ。そのうち、私はあなたの持っている知識より、あなたが次に何をするのかを見る方が楽しくなっていた」
「俺が?」
「知らない土地へ行けば何に目を向けるのか。知らない料理を食べれば、どんな顔をするのか。自分の知らない食材を見つけたら、どう料理するのか」
楽しそうに話している。
「強い力を手にしても、それで好き勝手するわけでもない。何か頼まれていれば、自分の興味よりそちらを優先することもある」
俺には普通にやってきたつもりだった。
「珍しいものを見つけても、何でも自分の物にしようとはしない。仲間が増えても、誰かを自分の所有物のようには扱わない」
一瞬、ベルたちへ視線が向く。
メイとシルクも、俺の側で静かにリュエラ様を見ていた。
「何より、予定外のことまで含めて旅を楽しんでいたわ」
そこまで言って、リュエラ様は少し首を傾げた。
「気づいたら、地上を見る時にあなたがどこにいるのか探すようになっていたのよね」
「そんなに見られてたんですか……」
思わず聞いてしまう。
料理しているところも。
野営しているところも。
戦っているところも。
どこまで見られていたのかと思うと、少し落ち着かない。
リュエラ様も初めて考えたように瞬きをした。
「そう言われると……結構見ていたわね」
悪びれてはいない。
本当に、気になる旅人を見ていたという感覚らしい。
「ずっと見ていたわけじゃないわよ。私にもすることはあるもの」
「それなら、まあ……」
何がそれならなのか自分でもよく分からない。
ただ、監視されていたという嫌な感じはしなかった。
この人の場合、本当に旅の続きを覗いていたという方が近いのかもしれない。
リュエラ様の目が少し柔らかくなる。
「私がどれだけこの世界を歩いても、あなたが来た場所へは辿り着けなかった」
窓の向こうには、この世界の空が広がっている。
「その私の前に、私が一度も見たことのない世界を知っている人が現れた。それだけでも、かなり面白かったのよ」
それは、少し分かる気がした。
俺だって地図にない場所があると言われれば見てみたい。
食べたことのないものがあると言われれば気になる。
この世界を長く歩いてきた放浪の女神にとって、俺は自分では行けなかった場所を知っている旅人だったのだろう。
リュエラ様はそこで一度言葉を切った。
「だから、あなたをこの世界へ呼んだのは私じゃない」
そして今度は、少しだけはっきりした目で俺を見る。
「でも、この神造迷宮へ招いたのは私よ」
静かな部屋の中で、その言葉だけが強く残った。
やはり、大峡谷に入口が現れたことは偶然ではなかった。
「どうして俺たちを?」
聞き返す。
リュエラ様は答えを拒む様子ではなかった。
ただ、少し笑う。
「それもちゃんと話すわ。でも、少し長くなるから」
「まだ長くなるんですか?」
「ええ。迷宮のことも、あなたたち六人のことも、まだ話していないもの」
確かにそうだった。
帰還。
別世界。
異世界召喚。
俺を知ったきっかけ。
それだけで随分話した気がする。
「せっかく直接会えたんだもの。急がなくてもいいでしょう?」
「それは、そうですね」
俺たちには帰る道がある。
ここまで来た以上、もう迷宮を急いで攻略する必要もない。
「それに」
リュエラ様の表情が少し楽しそうなものへ変わる。
「料理も楽しみにしていたの」
「ああ……そうでした」
第九十四階層での約束を思い出す。
饗応を預かる神を通して、女神本人へ料理を作る話になっていた。
返事まで貰っている。
「本当に覚えてたんですね」
「もちろん。楽しみにしているって伝えたでしょう?」
そう言われればその通りだった。
ただ、その前にリュエラ様が俺を見る。
今度は神造迷宮の主でも、上位神でもなく、第九十五階層に残されていた旅道具の持ち主と同じような顔に見えた。
純粋に、知らない場所について尋ねようとしている。
「その前に、今度は私から一つ聞いてもいい?」
「はい」
リュエラ様は少し身を乗り出した。
「ねえ、フトシ」
初対面なのに、名前を呼ばれることが不思議と自然に聞こえた。
「あなたがいた世界って、どんなところ?」




