第147話 女神の旅路と、百階層の扉
古びた革の鞄の前で、俺は足を止めていた。
第九十五階層へ入ってからしばらく進んだ先。
白い壁に沿って並ぶ棚の上に、それは置かれている。
神域にある物とは思えないほど普通の旅鞄だった。
革には細かな傷が残り、角は擦れて色が変わっている。
留め具も一度ではなく、何度か直した跡があった。
その隣には古い外套。
木の杯。
簡素な水筒。
小さな鍋と旅用の食器。
さらに、底がかなり擦り減った靴まで並んでいる。
「これ、誰かの旅道具ですか?」
案内してくれている神使へ尋ねる。
「御方がお使いになったものです」
「女神様が?」
思わず聞き返した。
目の前にある道具と、放浪と自由を司る上位神という話がすぐには結びつかなかった。
「はい。地上を巡られた際に」
ベルも古い水筒の近くへ飛んでいく。
触れはせず、傷の付いた表面を眺めていた。
「女神様って、本当に旅してたの?」
「遥か昔から幾度も」
神使はそう答えた。
俺は擦り減った靴を見る。
神が地上へ降りる。
そこまでは分かる。
だが、これだけ使い込まれた旅道具が残っているということは、少し地上を見て戻った程度ではないのだろう。
「神様の姿で、普通の街を歩いてたんですか?」
「多くの場合、人と変わらぬお姿を取られていたそうです。神威も抑え、旅人の一人として」
「どうしてわざわざ?」
神使は少し考えるように間を置いた。
「御方が神として姿を見せれば、多くの者は御方を神として扱います」
それは当然だろう。
俺だって、最初から相手が上位神だと分かっていれば普通の旅人と同じようには接しにくい。
「それでは、市場で買い物をしたり、宿の主人と話したり、同じ卓で食事をしたりすることが難しくなるのでしょう」
なるほど。
だから、人の姿になるのか。
神だと隠して人を騙したいわけではない。
旅先の日常を、そのまま見たいらしい。
古い鍋へ目を向ける。
かなり小さい。
一人旅なら十分そうだ。
「神様なら、こういう物も新しくいくらでも用意できそうですけど」
「できるでしょうね」
神使はあっさり認めた。
「ですが、あの鞄はある土地で留め具が壊れ、旅先の職人に直してもらったものだと聞いております。外套の一つも、地上で知り合った方から譲られたものです」
高価だから残しているわけではない。
どこで使ったのか。
誰と出会ったのか。
何があったのか。
その記憶が残っているから、大事にしている。
第八十一階層から歩いた庭園のことが少し頭に浮かんだ。
珍しいから。
価値が高いから。
それだけで物の大切さが決まるわけではない。
「行こうか」
十分見せてもらい、俺たちは再び上へ進んだ。
第九十六階層へ入ると、今度は壁一面に様々なものが並んでいた。
大きな地図。
街並みを描いた絵。
山。
森。
雪原。
砂漠。
海。
港に並ぶ船。
知らない祭りの様子や、見たことのない植物、生き物の姿まである。
長い回廊を歩いても、記録は途切れない。
「これ、すごいね」
ベルが少し先まで飛び、壁を見回す。
俺も足を緩めた。
中には見覚えのある地形もある。
ただ、完全に同じではなかった。
今より建物が少なかったり、逆に現在は見ないような大きな建造物が描かれていたりする。
相当昔の記録も混ざっているのだろう。
「これ、全部女神様が自分で見たんですか?」
「すべてではありませんが、多くは御方ご自身が地上で見聞きされたものです」
神使が壁の地図へ目を向ける。
「創造神様を除けば、御方ほどこの世界をご自身の目でご覧になった方は、ほとんどおられないでしょう」
思わず周囲を見渡す。
これだけの記録を残すには、どれほど長く旅をすればいいのか想像もつかない。
「それなら、この世界のことは何でも知ってるんですか?」
キリコが聞いた。
「いいえ」
神使はすぐに否定した。
「御方は全知ではありません。訪れていない場所もございますし、以前見た土地が変わることもあります。新しく生まれる文化や技術もありますから」
少し意外だった。
神なら何でも知っている。
どこかで、そんなイメージを持っていたのかもしれない。
だが昨日会った饗応を預かる神も、日本料理を知らなかった。
知らないものは、神にとっても知らない。
だから見に行く。
聞く。
経験する。
そう考えると、放浪の女神という存在が少し分かる気がした。
第九十七階層には、大きな円形の広間があった。
壁沿いに、いくつもの門が並んでいる。
どれも閉じていたが、一つ一つ意匠が違う。
雪の結晶を思わせる模様。
波。
樹木。
砂を描いたような線。
島らしきものまである。
「この扉は?」
「地上へ続く道です」
俺は一番近い門を見た。
「全部、この世界に?」
「はい」
別世界へ繋がるわけではないらしい。
遠い雪山。
海の向こう。
砂漠。
深い森。
人のほとんど入らない場所。
この神域と地上を繋ぐための道だという。
「女神様は、これを使って旅してたんですか?」
「必要な時には」
神使の答えは少しだけ曖昧だった。
「ですが、旅をなさる時は普通に街道を歩かれることも多かったそうです。馬車へ乗り、船を使い、宿がなければ野外で夜を越えることも」
「せっかく一瞬で行けるのに?」
ベルが不思議そうに聞く。
神使が僅かに笑う。
「目的地へ着くことと、そこまで旅をすることは違う、と御方はよく仰います」
その言葉は分かる気がした。
俺だって、目的地だけが大事なら途中の街へ寄る必要はない。
市場を見る必要もない。
寄り道も、知らない料理を食べることも、全部省ける。
でも、それでは旅の大部分がなくなってしまう。
神域の仕事で遠くへ行く時。
急ぐ必要がある時。
そういう場合にはこの道を使う。
自分で世界を見て回りたい時は、普通に旅をする。
放浪の女神らしい使い分けだった。
門を見ているうちに、中央大峡谷の岩壁が頭に浮かんだ。
何もなかったはずの場所に光の線が走り、突然現れた神造迷宮の入口。
「俺たちが迷宮へ入った時の入口も、こういう力なんですか?」
神使は俺を見る。
「それは、御方へ直接お尋ねください」
やはりそこは答えてくれない。
天空古龍から、迷宮には固定された入口がなく、条件を満たした者へ一時的な道が作られることまでは聞いた。
だが、どうやって。
なぜ俺たちへ。
その答えはまだ先らしい。
第九十八階層へ上がると、それまでの広い回廊や記録の間とは違い、少し小さな庭へ出た。
小さいといっても、人間の屋敷なら十分広い。
白い石の道。
大きな木。
静かな水辺。
枝葉が作る日陰には、腰を下ろせる場所がある。
豪華な像もなければ、玉座のような物もない。
「ここは?」
「御方がお戻りになった際、休まれることのある庭です」
長い旅から帰ってきて休む場所。
そう聞くと、立派な神殿よりこちらの方が、今まで見てきた女神の旅道具には似合っている気がした。
ここで少し休ませてもらうことになった。
料理はしない。
昨日は饗応の神と随分長く厨房へ立っていたし、今は喉を潤す程度で十分だ。
木陰へ座る。
ベルは近くの枝へ腰掛け、メイとシルクも俺の側で身体を休める。
ウンディーネは水辺を眺め、キリコは庭をゆっくり見回していた。
「女神様も、知らないところを見るのが好きなんだね」
キリコが言う。
「そうみたいだね」
大量の旅の記録を見てきた後だから、その一言で十分だった。
キリコも、知らないものを見たいと言って俺たちと旅を続けている。
女神とは随分違う存在なのに、そこだけは似ている。
俺は水を一口飲んだ。
そんな女神が、なぜ俺を以前から気に掛けているのか。
【探求者】。
異世界から来たこと。
料理。
旅の途中でしてきたこと。
思い当たるものはいくつかある。
だが、どれも決め手にはならない。
第百階層まで行けば本人に会える。
なら、今ここでいくら考えても仕方がない。
十分に身体を休めてから立ち上がった。
上へ進むほど、人の姿は少なくなっていった。
第九十九階層へ入った時には、今まであった生活の気配もほとんど消えている。
広い白い空間。
足音だけが静かに響く。
壁に装飾は少ない。
神使の姿もない。
真っ直ぐ進んだ先に、一つだけ大きな扉があった。
ここまで見てきたどの扉より大きい。
だが、威圧するために作られたようには見えなかった。
ただ、その先とこちらを区切るために閉じている。
案内してくれていた神使が、少し手前で立ち止まった。
「私がお供できるのはここまでです」
扉を見る。
この向こうが第百階層。
放浪の女神本人がいる。
俺は少し迷ってから神使へ振り返った。
「俺だけで入った方がいいんですか?」
女神が以前から俺を気に掛けている。
記録の神からそう聞いている。
なら、俺一人を呼んでいる可能性も考えた。
だが神使は首を横に振った。
「いいえ。御方がお待ちなのは、皆様です」
俺は後ろを見る。
ベル。
メイ。
シルク。
ウンディーネ。
キリコ。
ここまでずっと一緒に来た五人がいる。
神造迷宮も、俺たち六人を一つの挑戦者として認識していた。
最後だけ俺一人ということではないらしい。
「一つだけ、もう聞いてもいいですか?」
「はい」
「女神様が俺のことを気にしてる理由って、やっぱり教えてもらえないんですよね?」
「はい。それは御方ご自身からお聞きください」
予想通りだった。
神使はそこで一度言葉を切る。
「ただ……」
「?」
「私どもも、あれほど御方が一人の方を気に掛けられるのは、ほとんど見たことがありません」
余計に分からなくなった。
「そんなにですか?」
「ええ」
それ以上は教えてくれなかった。
神使へ礼を言い、扉の前まで進む。
古びた旅鞄。
何度も直された留め具。
擦り減った靴。
世界各地を描いた膨大な記録。
遠い土地へ続く神域の門。
放浪の女神。
名前の通り、本当にこの世界を歩いてきた神らしい。
しかも、神として見下ろすだけではなく、一人の旅人として。
そんな存在が、俺の何を見ていたのか。
どうして俺たちをここへ招いたのか。
【探求者】は関係しているのか。
そして、どうすれば外へ帰れるのか。
答えはもう、この扉の向こうにある。
俺は大きな扉へ手を伸ばした。
冷たいと思っていた白い扉は、触れてみると僅かに温かかった。
後ろには五人の気配がある。
一度だけ息を整え、扉へ掛けた手に力を込めた。




