第146話 神域の料理人と、異世界割烹
第九十四階層へ上がると、居城の雰囲気が少し変わった。
大階段の先にあったのは、広い中庭へ面した客殿らしい建物だった。
白い柱の間から庭園と水路が見え、内部には落ち着いた食事室がいくつも並んでいる。
そして、その奥から明らかに料理の匂いが漂ってきた。
肉が焼ける香ばしさ。
温められた香草。
そこへ甘酸っぱい果実らしい香りが混じっている。
案内してくれていた神使が足を止めた。
「この先へ進まれる前に、こちらで休まれてください」
「ありがとうございます」
戦闘後の休憩場所ではない。
上位神の客人を迎えるために、最初から用意された客殿なのだろう。
通された食事室には大きな卓があり、俺たちが席へ着くと、ほどなく料理が運ばれてきた。
最初に置かれたのは、厚く切られた肉の皿だった。
「星角野牛の香草焼き・水晶蜜果添えでございます」
給仕をしていた神使が料理名を告げる。
星角野牛。
初めて聞く名だ。
表面には綺麗な焼き色があり、切り口からは赤身の色が僅かに残っている。
細かく刻んだ香草と、透明感のある果実を使ったソースが添えられていた。
一切れ口へ運ぶ。
「……美味い」
思わず声が漏れた。
表面は香ばしいのに、中は驚くほどしっとりしている。
厚い肉なのに火の入り方がほとんど均一で、噛むと強い肉の旨味と穏やかな脂が広がった。
香草もかなり香りが強い。
それでも肉の匂いを覆うところまでは使っていない。
水晶蜜果というらしい果実の甘味と酸味も、脂が口へ残る瞬間だけを軽くしてくれる。
次に出てきたのは白身魚だった。
「天泉白鱗魚の皮目焼き・澄香茸仕立てです」
薄く焼き色を付けた皮目。
その下には透明感のある白い身が見える。
口へ入れると、皮には僅かな香ばしさがあるのに、中は崩れそうなほど柔らかい。
火を入れすぎればすぐ締まりそうな魚だ。
それを、身の水分をほとんど失わず仕上げている。
添えられた澄香茸も主張しすぎない。
魚を食べた後に、茸の澄んだ香りだけが残る。
三皿目は植物料理だった。
「翠香若芽と澄香茸の含め蒸しです」
若芽と茸を少量の水分と一緒に蒸したものらしい。
翠香若芽には僅かな苦味があり、その後から爽やかな香りが鼻へ抜ける。
澄香茸は肉厚だが水っぽくない。
噛んだ瞬間、中に残した水分と一緒に旨味が広がった。
珍しい食材だから珍味として並べたわけではない。
苦味。
香り。
水分。
歯触り。
全部を分かった上で、それぞれ一番いい状態へ持っていっている。
俺はしばらく黙って食べ続けた。
この世界へ来てから、色々な料理を食べてきた。
美味い店にも入ったし、知らない調理法も教わった。
それでも。
「俺がこの世界へ来てから食べた中でも、一番美味いかもしれません」
隣のキリコが少し目を見開いた。
ベルも食べる手を止める。
神だから持ち上げたわけじゃない。
料理人として見ても、本当にそう思った。
この世界の食材を、この世界の料理として仕上げるなら、俺より上かもしれない。
悔しいという気持ちはなかった。
むしろ、知らない料理をここまでの水準で食べられたことが嬉しい。
「それは光栄ですね」
後ろから穏やかな声がした。
振り返る。
人に近い姿の人物が立っていた。
派手な衣装ではない。
だが、周囲にいる神使とは空気が違う。
ウンディーネも相手を見て、僅かに姿勢を正した。
「この料理を作った方ですか?」
「はい。この居城で食事と饗応、食材の管理、それから厨房を預かっております」
第九十三階層で会った記録の神と同じ、女神から神格と役目を与えられた下位神なのだろう。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「ありがとうございます。お口に合ったようで安心しました」
それだけ言って、柔らかく笑う。
料理を褒められることには慣れているようだ。
俺は皿へ視線を戻した。
天泉白鱗魚。
きめ細かい身。
火を入れてこれだけ柔らかいなら、生ではどうなる。
翠香若芽も、蒸す以外なら。
澄香茸も。
「……別の料理を考えておられますね?」
「え?」
顔を上げる。
饗応を預かる神が少し面白そうにこちらを見ていた。
「先ほどまでとは、皿を見る目が違います」
見抜かれていたらしい。
「すみません。これだけ美味しいのに」
「なぜ謝るのです?」
「もっと美味しくできると思ったわけじゃないんです。この料理は、この料理で完成してると思います」
俺は白身魚の皿を見る。
「ただ、食材を知ったら別の料理も浮かんできて」
「どのような?」
「俺の故郷にも、長い間積み重ねられてきた料理があります。同じ材料でも、たぶん全然違う形にできます」
饗応の神の目に興味が浮かんだ。
「あなたが以前いた世界の料理ですね」
「はい」
俺が異世界から来た人間であることは、ここでは知られているらしい。
「私は、その世界の料理を知りません」
少し意外だったが、考えれば当然だ。
神だからといって、自分の知らない世界で人間が何百年も掛けて積み重ねた文化まで自動的に分かるわけではない。
饗応の神は少し考え、それから言った。
「でしたら、作ってみますか?」
「いいんですか?」
「私も知りたいのです。私が知っている食材を、私の知らない料理人がどう扱うのか」
その言葉で、断る理由はなくなった。
案内された厨房は、予想以上に大きかった。
ただ豪華なだけではない。
火力の違う調理台。
十分な広さの水場。
冷却用の区画。
肉や魚を処理する場所。
乾燥食材や香辛料をまとめた棚。
保存区画も素材ごとに分けられている。
どこへ立っても動線を邪魔しない。
「……いい厨房ですね」
「まずそこをご覧になるのですね」
饗応の神が少し笑う。
「料理するなら大事なので」
装飾より作業台の方が気になる。
昔からそうだった。
「使いたいものを選んでください」
先ほど食べた食材を中心に、詳しく教えてもらう。
白身魚は天泉白鱗魚。
神域の清浄な水域で食用として管理されている大型魚。
若芽は翠香若芽。
庭園にも生えていたもので、先端だけ適切に摘めば株を傷めず、また伸びてくる。
茸は澄香茸。
そして肉は星角野牛。
庭園で暮らしていた非敵対的な生き物とは別に、食用資源として管理している大型魔物だという。
最後に水晶蜜果。
これも庭園で見た透明な果実と同じ種類だった。
天泉白鱗魚を生で使いたいと伝えると、鮮度と管理状態から問題ないと教えてもらう。
念のため、俺も【鑑定】した。
【天泉白鱗魚】
詳細:神域内の清浄な水域で食用として管理される大型魚。透明感のある白身はきめ細かく、穏やかな脂と強い旨味を持つ。鮮度が十分に保たれ、適切に処理された身は生食可能。加熱しすぎると身が締まりやすいため、火入れには注意が必要。
「これなら使えますね」
食材を作業台へ並べる。
すぐには包丁を持たなかった。
今日は一品だけ作って終わりにはしたくない。
相手は俺がこの世界で一番美味いと思った料理を作る料理人だ。
味処・藤で身につけたものを出すなら、献立全体で見せたい。
最初から最後まで、同じ味が続かないようにする。
温度。
香り。
脂。
塩気。
食感。
前の皿の余韻を残しながら、次を邪魔しない。
一通り頭の中で組み立てた。
「割烹みたいに、一品ずつ出します」
「カッポウ?」
「俺のいた国の料理の形の一つです。料理を順番に出して、全体で一つの流れにします」
「楽しみです」
ベルたちにもそのまま席へ戻ってもらう。
饗応の神も一緒に食べることになった。
まずは出汁だ。
手持ちの乾燥海藻を水へ浸し、ゆっくり温度を上げる。
沸騰させる前に取り出す。
出汁用乾燥小魚は頭と腹の苦味が出やすい部分を外し、こちらも強く煮立てない。
旨味を取ったら漉し、二つを合わせた。
一品目。
翠香若芽と澄香茸の浸し。
若芽は火を入れすぎず、香りと僅かな苦味を残す。
澄香茸も薄く火を通す。
天然醸造生醤油と本みりんを使うが、味を濃くするつもりはない。
冷ました出汁へ短時間だけ浸した。
「味を付けるというより、含ませるのですね」
饗応の神が口へ運びながら言う。
「はい。最初なので、素材の香りを消したくなくて」
二品目。
天泉白鱗魚と澄香茸の澄まし椀。
新しく取った出汁を濁らせないよう温める。
白身魚は一口大。
煮立った湯へ放り込むのではなく、身の状態を見ながら静かに火を通す。
澄香茸は出汁を支える程度。
赤塩。
天然醸造生醤油をごく僅か。
仕上げに黄色い柑橘の皮を薄く削って椀へ落とした。
饗応の神が蓋を開ける。
柑橘と温かな出汁の香りが立つ。
一口。
そこで少し止まった。
「……これだけですか?」
「何がです?」
「味付けです」
「ほとんど出汁ですね」
もう一口。
今度は白身魚も一緒に食べる。
「薄いのに、不足を感じません」
その言葉に少し嬉しくなる。
三品目は向付。
天泉白鱗魚の薄造り。
筋目を見ながら包丁を引く。
押して切らない。
一度で引き、厚さを揃えていく。
皿へ少しずつ重なるよう並べた。
添えるのは天然醸造生醤油、黄色い柑橘、赤塩。
「まず、そのまま食べてみてください」
饗応の神が一切れ取る。
何も付けずに口へ。
ゆっくり噛む。
「加熱した時より、身の甘味がはっきりしますね」
「次は、これを少しだけ」
天然醸造生醤油を示す。
饗応の神が白身魚の端へ僅かに付け、二切れ目を口にした。
動きが止まった。
さっきの椀物よりも長い。
もう一度醤油を見る。
「……同じ魚ですよね?」
「はい。醤油を少し付けただけです」
饗応の神は小皿の醤油をほんの少しだけ味見した。
今度は明確に目を細める。
「これは……発酵させた調味料ですか?」
「そうです。大豆を中心に、麹と塩を使って長く発酵させています」
「単体ではかなり強い味ですね」
「だから、たくさん付けません」
俺も薄造りへ僅かに醤油を付ける。
「魚の味を消すためじゃなくて、旨味と香りを少し足すくらいでいいんです」
饗応の神が三切れ目を取る。
今度は自分で付ける量を変えている。
「……面白いですね」
短い言葉だったが、その後もしばらく醤油の小皿を見ていた。
生で食べることより、醤油の方が強く引っ掛かったらしい。
次は焼物。
星角野牛の炭火焼き、酒醤油仕立て。
肉の筋と脂を見て厚さを決める。
下味は赤塩だけ。
炭火で表面を香ばしく焼きながら、中心まで一気に熱を通しすぎないよう位置を変える。
自家製日本酒、本みりん、天然醸造生醤油を合わせたものは、先にアルコールを飛ばしておく。
何度も絡めない。
最後に一度、表面へ薄く塗る。
炭へ少し近づける。
香りが立ったところでもう一度だけ。
それで終わり。
「香草は使わないのですか?」
「今日は使いません。この肉自体の香りを残したいので」
饗応の神が作った香草焼きは、香草と果実を重ねて肉の魅力を広げていた。
俺は逆に、酒と醤油の香りだけを薄く付ける。
饗応の神が肉を噛む。
「私の香草焼きとは、同じ肉なのに随分違いますね」
「俺もさっき同じことを思いました」
「足さないことで残すのですね」
「そういう料理も多いです」
そして揚物。
今回、一番見てもらいたかった料理だ。
冷たい水。
卵。
小麦粉。
衣は滑らかになるまで混ぜない。
粉が少し残るくらいで止める。
「混ぜ切らないのですか?」
「混ぜすぎると衣が重くなるので」
油を熱する。
【絶対温度領域】は油温を把握し、安定させるための補助に使う。
それでも最後は衣を少量落とし、沈み方と浮き方を見る。
最初は翠香若芽。
薄く衣をまとわせて油へ。
次は澄香茸。
若芽より水分が多いので、音と泡を見ながら上げる時間を変える。
最後に天泉白鱗魚。
身が締まる前に引き上げる。
衣付けと返しには【調理の超加速】を使うが、上げ時まで能力任せにはしない。
油の音が軽くなる。
泡が細かくなる。
衣の状態を見る。
そこで引き上げる。
「天ぷらです。俺のいた国で長く作られてきた料理です」
添えるのは赤塩。
もう一つは、乾燥海藻と乾燥小魚の出汁、生醤油、本みりんで作った天つゆ。
饗応の神は最初に若芽へ赤塩を少し。
噛む。
薄い衣が軽く割れ、中から若芽の香りと僅かな苦味が出る。
表情がほんの少し変わった。
「……なるほど」
次に澄香茸を天つゆへ。
それから白身魚。
一つ食べるごとに、口数が減る。
「揚げ物自体は、こちらにもあります」
「そうですよね」
「ですが、衣をこれほど薄くし、素材ごとに火の入り方を変える料理は知りませんでした」
饗応の神は若芽をもう一つ取り、今度は何も付けずに食べた。
「衣を食べさせるのではないのですね」
「はい。中身が主役なので」
若芽は香り。
茸は水分と旨味。
魚は柔らかな身。
同じ衣でも、食べた時に残るものは全部違う。
次は食事。
神域食材の薄味炊き込みご飯。
使うのは俺が持っているインディカ米だ。
日本米と同じ粘りを求めず、この米の粒立ちを残す。
海藻と乾燥小魚の出汁。
澄香茸。
天泉白鱗魚の使える部分を少量。
天然醸造生醤油と本みりんも控えめにする。
炊き上がったら、米粒を潰さないよう底から返した。
一緒に出す止椀は、翠香若芽と澄香茸の薄い味噌仕立て。
同じ出汁へ具を入れ、火を弱めてから手作りの極上味噌を溶く。
煮立てない。
香りが立ったところで止める。
饗応の神が一口飲んだ。
今度はすぐに気づいたようだった。
「これも発酵調味料ですね」
「はい。味噌です」
「先ほどの醤油とは、同じ大豆を使っているのに全く違う」
「作り方も発酵のさせ方も違います」
もう一口飲む。
「醤油は素材へ僅かに添えるだけでも輪郭が変わる。こちらは汁へ溶かしても、調味料そのものの香りが残る……」
料理人らしい見方だった。
俺も少し笑う。
「他にも使い方は色々あります」
「それはぜひ後で教えていただきたいですね」
最後は水晶蜜果の冷やし仕立て。
饗応の神から正式に使用を許可された熟果を使う。
皮と種を外す。
それ以上はほとんど手を加えない。
甘さと香りが一番分かりやすい温度まで冷やし、黄色い柑橘をほんの僅かに添える。
ここまで出汁、醤油、油、味噌と続いてきた。
最後は果実そのものの甘味で口を軽くする。
八品。
ベル、メイ、シルク、ウンディーネ、キリコも同じものを食べた。
メイとシルクだけ、量、大きさ、骨、温度を調整してある。
全員が食べ終わる頃、俺もかなり腹が満たされていた。
饗応の神は最後の果実を食べた後、しばらく黙っていた。
俺も感想を急かさない。
やがて、静かに口を開いた。
「どちらが優れている、というものではありませんね」
「俺もそう思います」
「私が作る料理は、この世界の食材を、この世界で積み重ねられてきた技術で仕上げたものです」
星角野牛の香草焼き。
天泉白鱗魚の皮目焼き。
翠香若芽と澄香茸の含め蒸し。
どれも俺が違う料理へ変えたからといって、元より上になるわけではない。
「あなただけの技術でもないのでしょう」
「はい。俺も教わった側です」
味処・藤で教わった料理。
その技術も、さらに前の料理人たちから積み重ねられてきたものだ。
饗応の神が小さく笑う。
「私にも、まだ知らない料理がある」
知らないことを恥じてはいなかった。
むしろ嬉しそうに見えた。
俺も同じだった。
「俺も今日、知らない料理を食べさせてもらいました」
神域食材については、この人の方が遥かに詳しい。
どの時期が美味いのか。
どの部位が硬いのか。
どの香草と合わせれば香りが開くのか。
俺にはまだ分からない。
逆に、日本料理の技術や発酵調味料はこの人にとって未知だった。
片方だけが教える関係ではない。
それが何より面白かった。
「一つ、お願いしてもよろしいですか?」
「はい」
「今の料理を、御方にもお出ししてよろしいでしょうか」
一瞬、返事が遅れた。
「女神様にですか?」
「ええ」
この迷宮を造った上位神。
まだ会ってもいない相手だ。
それでも料理の話なら答えは決まっている。
「もちろんです。ただ……」
天ぷらの皿を見る。
「このまま持っていくのは嫌ですね」
饗応の神が俺を見る。
「天ぷらは揚げたてが一番です。椀物も、その場で仕上げた方が香りも温度もいい。女神様へ出すなら、食べる時に合わせて作りたいです」
「では、御方にはあなた自身に作っていただきましょう」
「いいんですか?」
「私からお伝えします」
少しして、一人の神使が厨房へ戻ってきた。
饗応の神へ一礼し、それから俺を見る。
「御方より、お返事を預かっております」
少しだけ身構える。
神使は短く告げた。
「『楽しみにしている』と」
「……分かりました」
まだ会ってもいない上位神から、自分の料理を待たれてしまった。
ベルが俺を見る。
「フトシ、女神様にも作るんだね」
「そうなったみたいだね」
何を作るかはまだ決めない。
今日と同じ料理をそのまま出す必要もない。
実際に会って、話をして、それから考えたい。
厨房を出る前に、一度振り返った。
広い調理場では、饗応の神が俺の使った醤油の小瓶を手に取り、まだ興味深そうに見ている。
神だから美味い料理を作れたわけじゃない。
長い時間を掛けて食材を知り、何度も料理して、今も知らないものへ手を伸ばしている。
俺が美味いと思ったのは、そういう料理人が作ったものだった。
その料理人もまた、俺の知らない料理を教えてくれた。
俺の料理も、知らないものとして楽しんでくれた。
それが嬉しかった。
客殿を出ると、第九十五階層へ続く上層回廊が伸びている。
さらに上には放浪の女神がいる。
そして今度は、俺の料理まで楽しみにしているらしい。
俺たちは六人で、第九十五階層へ向かって歩き出した。




