第140話 天空の温泉と、巨大キンキの煮付け
第七十一階層へ続く通路を進んでいると、前方が急に明るくなった。
第七十階層まで続いていた石造りの壁と金属の床が途切れ、その先から差し込んでくる光に目を細めながら出口を抜ける。
「……これは」
思わず足が止まった。
目の前に広がっているのは、青い空だった。
眼下には果てが見えないほどの白い雲海が広がり、その上へ大小さまざまな岩島が浮かんでいる。
俺たちが立っている場所も、そのうちの一つらしい。
遠くにもいくつもの浮島が連なっているが、島同士を繋ぐ橋らしいものはほとんど見当たらない。
ベルが上空へ飛び、周囲を見渡す。
「すごいね。ずっと向こうまで島があるよ」
「どうやって渡るんだろうな」
気になる。
浮島がどうやって浮いているのかも、次の島へ渡る方法も、その先に何があるのかも見てみたい。
それでも、昨日までのように足が勝手に先へ向く感じはなかった。
まずは今いる島だ。
俺たちは崖際へ寄りすぎないよう注意しながら、浮島の周囲を確認していく。
島自体はかなり広く、岩場の間には背の低い草も生えている。
しばらく歩いたところで、岩の向こうから白いものが立ち上っているのが見えた。
「煙?」
キリコが少し身構える。
だが、近づくにつれて熱気ではなく、湿った空気が流れてきた。
岩場を回り込むと、大きな湯溜まりが現れた。
岩の窪みへ透明な湯が溜まり、奥の割れ目から絶えず新しい湯が流れ込んでいる。
反対側から溢れた湯は細い流れとなり、そのまま浮島の端から雲海へ落ちていた。
鼻を近づけても強い硫黄臭はなく、僅かに鉱物らしい匂いを感じる程度だ。
ウンディーネが先にしゃがみ、湯へ指先を入れる。
『変な感じはしないよ。魔力も静か』
メイとシルクも周囲を回ったが、何かを警戒する様子はない。
俺も湯の様子を見てから【鑑定】した。
【天穹安息泉】
詳細:神造迷宮の天空域に湧く魔力泉。適温の湯へ身体を浸すことで筋肉のこわばりや蓄積した疲労を穏やかに和らげる。また泉を中心とした一定範囲には魔物が本能的に近づくことを避ける特殊な魔力場が形成されている。ただし、あらゆる存在の侵入を完全に阻むものではない。
「なるほど……」
絶対に安全というわけではない。
それでも、普通の魔物なら自分から近づきたがらない場所なら、休憩にはかなり向いている。
周囲を改めて確認しても、魔物の痕跡や気配は見つからなかった。
遠くには次の浮島が見える。
その気になれば、まだ進めるだろう。
ベルも少し離れた島を眺めていたが、俺は湯気の上がる温泉へ視線を戻した。
昨日、休むことを考えるのが遅れたばかりだ。
身体も動くし、大きな怪我もない。
だからといって、進めるだけ進む必要はない。
「今日はここまでにしよう」
キリコがこちらを見る。
「もう進まないの?」
「うん。せっかく休める場所を見つけたんだ。ここを素通りする理由もないよ」
ベルが嬉しそうに温泉を見る。
「じゃあ、入れる?」
「そのつもり」
魔物が寄りつきにくいと分かっていても警戒は必要なので、周囲を確認しやすい場所へ魔導携帯テントを展開する。
今日はここを拠点にして、先へは進まない。
そう決めてしまうと、不思議なくらい気持ちが軽くなった。
温泉へ入る前に、夕食の仕込みだけ済ませておく。
ポルト・ラーラで買って保存してある巨大キンキがまだ残っている。
あの脂の乗った赤い魚なら、今日は甘辛く煮付けたい。
そうなると、口をさっぱりさせるものも欲しい。
取り出したのは大根長芋だ。
以前は千切りにしてだし醤油で食べたが、今日は少し太めの短い棒状へ切っていく。
細くしすぎると、漬けた後に大根長芋らしい歯触りが弱くなる。
一センチに少し届かない程度へ揃え、切った表面の水分と強すぎるぬめりだけを清潔な布で軽く押さえた。
次は漬け汁だ。
本みりんを先に煮切り、しっかり冷ます。
メリディアで買った乾燥海藻から薄めに取った出汁も冷ましておいた。
黄色い柑橘の果汁と天然醸造生醤油を同じくらい。
そこへ海藻の薄い出汁と、少量の本みりんを合わせる。
味を見ると、柑橘の酸味と生醤油の塩気が前にあり、出汁とみりんがその角を少しだけ丸めている。
これなら魚の脂を邪魔しない。
大根長芋を漬け汁ごと密閉容器へ入れ、アイテムボックスの低温時間進行区画へ移した。
すぐに味を染み込ませるのではなく、一日分だけ時間を進める。
夕食までには、ちょうどいい具合になっているはずだ。
仕込みを終えたところで、ようやく温泉へ向かった。
広い湯溜まりは途中に大きな岩の張り出しがあり、反対側までは見通せない。
念のため持っているテント用の目隠しも立て、俺が使う側とベルたちが使う側を分けた。
身体を流してから、ゆっくり湯へ入る。
「ふぅ……」
肩まで沈めた瞬間、自然と息が漏れた。
熱すぎない。
ずっと浸かっていられそうなくらいの温度だ。
第五十三階層で熔殻竜蜥と戦ってから、火山地帯を抜け、灼天巨鳥と戦い、そのまま遺跡へ入り、昨日は機巧守護巨兵まで相手にした。
傷は治っている。
それでも、金剛棒を振り続けた腕や肩には張りが残っていたらしい。
湯の中で力を抜いていると、自分でも気づかなかった疲れが少しずつほどけていく。
脚を伸ばす。
背中を岩へ預ける。
それだけで十分だった。
雲海の上を風が流れ、遠くに浮かぶ島の影がゆっくり霞んでいる。
どうやって渡るのか。
次に何がいるのか。
普段なら考え始めているところだが、今はやめた。
何も考えず、ただ雲を眺める。
しばらくそうしてから湯を出た頃には、身体が随分軽くなっていた。
せっかく温泉があるので、もう一つだけやってみる。
手持ちの卵を取り出し、清潔な鍋へ水を張った。
天然の温泉へ直接入れるつもりはない。
温泉の熱を利用しながら鍋の水を温め、【絶対温度領域】で狙った温度から大きく外れないよう安定させる。
そこへ卵を沈め、ゆっくり火を通していった。
時間が来たところで一つ割って確認する。
白身は柔らかく、黄身は流れ出さない程度にとろりとしている。
「よし」
夕食の一品はこれで決まりだ。
その後も出発準備はせず、各自好きに身体を休めた。
俺も少し横になり、日が傾き始めてから夕食の準備へ取り掛かる。
巨大キンキから人数分の厚みのある身を切り出した。
真っ赤な皮の下には白い脂がしっかり乗っている。
煮すぎればせっかくの身が締まりすぎるので、今日は長時間煮込む料理ではない。
皮へ浅く切れ目を入れ、表面へ熱湯を回しかける。
すぐに冷たい水へ移し、残った鱗やぬめりを指先で丁寧に落とした。
身を煮てしまわないよう、下処理は手早く終える。
鍋へ自家製日本酒と水を同じくらい入れ、本みりんと少量の砂糖を加えて火にかける。
アルコールの強い匂いが飛んだところで生醤油を一部加え、巨大キンキを皮を上にして並べた。
落とし蓋をして、煮汁が魚の表面へ絶えず回る程度の火加減を保つ。
時々蓋を外し、匙で煮汁をすくって皮へ掛ける。
赤かった皮が艶を帯び、甘辛い香りが立ち始めた。
身の厚い部分へ火が通ったところで、魚は一度取り出す。
残った煮汁だけを少し煮詰め、最後に取っておいた生醤油を少量加えた。
煮立てすぎず、香りが残っているうちに火を止める。
それを巨大キンキへ回しかければ完成だ。
インディカ米も、この米に合う水加減で炊いてある。
大根長芋も時間進行区画から取り出した。
一本食べてみる。
外側にはポン酢の味が馴染んでいるが、噛んだ中心にはまだしゃくっとした歯触りが残っていた。
大根長芋らしい軽い粘りもある。
仕上げに黄色い柑橘の皮を表面だけごく細く削り、少量散らした。
温泉卵も器へ割り、生醤油をほんの少し垂らす。
今日の夕食は、それだけだ。
炊きたてのインディカ米。
巨大キンキの煮付け。
大根長芋のだしポン酢漬け。
温泉卵。
メイとシルクの巨大キンキは骨を一本ずつ確認して完全に取り除き、量と大きさ、温度だけ調整した。
大根長芋も二匹が食べやすい長さへ切り直す。
全員へ料理が行き渡ったところで、俺も箸を取った。
まずは巨大キンキだ。
皮の近くから身を取ると、箸だけでふっくら割れた。
口へ入れた瞬間、濃い脂が広がる。
甘辛い煮汁は表面へしっかり絡んでいるが、中まで醤油の味で埋まってはいない。
巨大キンキ自体の脂と魚の旨味が残っている。
すぐに炊きたての米を食べる。
「……合うな」
濃い煮汁と脂を、粒立ちのいい米が受け止めてくれる。
もう一口魚を食べた後、大根長芋へ箸を伸ばした。
しゃくっ、と中心が割れる。
外側には生醤油と出汁の旨味。
その後から黄色い柑橘の酸味が広がり、口に残っていた魚の脂がすっと軽くなった。
噛んでいるうちに大根長芋の粘りも少し出てきて、そこへ漬け汁の味が絡む。
「これ、煮魚にかなり合うな」
千切りのだし醤油も良かったが、こっちは魚の合間へ食べる副菜として使いやすい。
キリコも巨大キンキを食べた後、大根長芋を一つ口へ運んだ。
しばらく噛んでから、もう一度魚を見る。
「こっち食べると、また魚食べたくなる」
「俺も今、同じこと思ってたよ」
ベルは煮汁の付いた米を食べ、ウンディーネも大根長芋を挟みながら箸を進めている。
メイは煮魚を食べ終えると次の一切れへ視線を向け、シルクも隣の大根長芋を齧ってから再び魚へ戻った。
温泉卵も割ってみる。
柔らかな白身の中から、とろりとした黄身が流れ出す。
生醤油を少し付けて食べれば、それだけで十分美味い。
温泉へ入って、温泉卵を食べる。
今日はそれくらい分かりやすくていい。
食べ終わった後は、食器と調理道具だけ片付けた。
荷物をまとめる必要もない。
武器を手に取る必要もない。
テントの近くへ腰を下ろすと、湯上がりの身体へ天空の風が心地よく当たった。
ベルが少し先の浮島を見ている。
「あっちにも何かあるのかな」
「あるかもしれないね」
「行くのは?」
俺も遠くの島を見る。
知らない場所だ。
当然、気になる。
「今日はもう休もう」
「うん」
それで話は終わった。
温泉からは今も白い湯気が上がっている。
その向こうには雲海が広がり、遠くの浮島が夕暮れの空に浮かんでいた。
敵の気配もない。
先へ進む必要もない。
俺は背中をテントへ預け、静かに流れていく雲を眺めた。
迷宮へ入ってからずっと歩き続けてきたが、今夜くらいは何もしなくていい。
湯気が風に崩れ、白い雲の中へゆっくり消えていった。




