第132話 百階層の神造迷宮と、岩殻蟹のバター醤油焼き
【第一階層】
淡く光る文字から視線を外し、俺はまず周囲を見回した。
「みんな、大丈夫?」
ベルはすぐ近くに浮かんでいる。
キリコにも怪我はない。
ウンディーネも変わった様子はなく、メイは俺の足へ身体を寄せながら低く周囲を窺っていた。
頭の上から離れていたシルクも、岩場を一周してから俺の肩へ戻ってくる。
「ワフ……」
「キュゥ」
二匹とも落ち着いてはいるが、知らない場所をかなり警戒しているようだ。
「わたしは平気」
「わたしも」
『大丈夫だよ』
全員無事。
ひとまずそこだけは安心する。
だが、後ろにあったはずの入口は完全に消えていた。
あるのは黒っぽい岩壁だけだ。
周囲は薄暗い洞窟のような空間で、壁や天井には淡く発光する苔が生えている。
最低限歩けるだけの明るさはあるものの、出口らしいものは見えない。
メイが岩壁へ鼻先を近づけ、匂いを探る。
シルクも肩の上で長い耳を左右へ動かしていたが、二匹とも何かを見つけた様子はなかった。
「ウンディーネ、戻れそう?」
ウンディーネが入口のあった場所へ手を伸ばす。
しばらく目を閉じていたが、やがて首を横へ振った。
『外に繋がってる感じがない。さっきの場所も追えない』
「そうか……」
空間ごと別の場所へ移されたのなら、普通の転移とは違うのかもしれない。
石碑を見るだけでは、それ以上分からない。
それなら、この場所そのものを調べてみる。
「【鑑定】」
【神造迷宮】
詳細:神格を持つ存在の力によって構築された特殊な迷宮。全百階層からなり、現在地は第一階層。内部は通常世界から隔離された独立空間として形成されている。外部へ通じる帰還経路は最深部に存在し、各階層には固有の環境、魔物、仕掛けが形成されている。
「……百階層」
思わず声が漏れた。
ベルが固まる。
「百階?」
キリコも目を丸くする。
「今、一階だよね?」
「うん。それで、帰る道は最深部にあるらしい」
百階。
さすがに、すぐには次の言葉が出てこなかった。
一階がどれほど広いのかも分からない。
下へ進むほど危険になる可能性も高い。
シルクが肩から頭へ移り、いつもの位置で身体を落ち着かせる。
足元ではメイがこちらを見上げていた。
二匹の姿を見て、少しだけ頭が冷えた。
焦ったところで百階が減るわけではない。
「ウンディーネでも外へ出られない?」
『この空間そのものを破るのは、たぶん難しい』
大精霊でもそうなら、力任せにどうにかするより鑑定結果を信じた方がいいだろう。
「……進むしかないみたいだ」
その前に、手持ちを確認する。
旅用の食料。
調理済みの料理。
水。
調味料。
調理器具。
魔導携帯テント。
野営用品も一通り揃っている。
アイテムボックスへ入れてあるものは時間が止まっているので、食料が勝手に傷むこともない。
水も十分あるし、ウンディーネもいる。
今すぐ食料や水に困る状況ではなかった。
「百階なら、急いでも仕方ない。安全を優先して、一階ずつ進もう」
「そうね。それしかないわ」
ベルが頷く。
キリコも表情を引き締めた。
メイが一度短く吠え、先の通路へ鼻を向ける。
シルクの耳も同じ方向へ立った。
「よし。行こう」
如意の金剛棒を取り出し、第一階層の奥へ進む。
最初は俺とメイが少し前。
頭の上のシルクは音を拾うように耳を動かし、ベルは俺たちより少し高い位置を飛ぶ。
天然洞窟に見えるが、歩くほど妙なところがあった。
岩柱や地下水は自然そのものなのに、分岐する通路の幅がどこか揃っている。
足元も、歩く場所だけ妙に平らだ。
神によって造られた迷宮という鑑定結果を知らなければ、気づかなかったかもしれない。
最初の分岐を抜けたところで、メイが急に足を止めた。
「ワフッ」
身体を低くし、右側の岩場を睨む。
ほぼ同時に、俺の【直感】にも引っかかった。
危険だ。
頭の上ではシルクの耳がぴんと立っている。
「何かいる」
目の前には大きな岩がいくつも転がっている。
その一つが、僅かに動いた。
次の瞬間、岩だと思っていたものから太い脚が伸びる。
巨大な鋏が持ち上がった。
「蟹?」
岩石そっくりの甲殻を持つ、大型の蟹型魔物だった。
すぐに【鑑定】する。
【岩殻蟹】
詳細:神造迷宮の浅層に生息する蟹型魔物。岩石に似た硬質な甲殻で身を守り、強靭な鋏で獲物を捕らえる。地下水に棲む小型生物や苔類を主食としている。甲殻内部の身は食用可能で、特に鋏と脚には弾力のある白身が多い。加熱することで甘味と旨味が強くなり、内臓の一部も適切に処理すれば食用できる。
「……食べられる」
さっきまで百階という数字で重かった頭が、少しだけ切り替わった。
ベルがすぐに気づく。
「食べられるの?」
「みたいだ。しかも結構うまそうだ」
岩殻蟹が鋏を開いてこちらへ寄ってくる。
メイが俺より先に横へ回り込み、低く唸った。
蟹の向きがメイへ変わる。
「メイ、殻は壊しすぎないでね」
「ワフッ」
分かっているらしい。
鋏がメイへ振り下ろされる直前、黒い身体が軽く横へ抜けた。
空振りした岩殻蟹の体勢が崩れる。
そこへ俺が踏み込み、脚の付け根へ金剛棒を打ち込んだ。
硬い甲殻そのものを砕く必要はない。
もう一撃。
岩殻蟹はその場で動かなくなった。
メイが倒れた蟹へ近づき、鼻先で匂いを確かめる。
「食べるのは後だよ」
「ワフ」
その声に合わせるように、頭の上のシルクまで身体を乗り出した。
「キュイ」
「シルクもね」
二匹とも食べ物だと分かったのだろうか。
とりあえず岩殻蟹をアイテムボックスへ収納する。
「落ち着ける場所まで行ったら食べてみよう」
その言葉で、少しだけ空気が軽くなった。
三階層までは、似たような洞窟が続いた。
岩殻蟹も何度か現れたが、一度正体が分かれば見つけやすい。
メイは普通の岩と違う匂いを覚えたようで、擬態している個体へ近づく前に足を止めるようになった。
シルクも頭の上から岩場を見ていて、時折耳が向いた先に魔物が潜んでいることがある。
ただし、それですべて分かるわけではない。
俺の【直感】やベルの視界も合わせ、少しずつ進んだ。
四階層へ入ると、今度は魔物以外の危険が増えた。
通路を歩いていたシルクが、突然俺の頭から地面へ飛び降りる。
そのまま前へ進みかけたが、一枚の床石だけを避けるように横へ跳んだ。
「ん?」
何となく気になり、俺もそこで止まる。
よく見ると、その石だけ僅かに高さが違う。
金剛棒の先で押してみた。
カチッ。
少し先の壁から、石杭が勢いよく飛び出した。
「罠か……」
「キュイ」
シルクはこちらを振り返り、そのまま何事もなかったように戻ってくる。
「助かったよ」
頭を撫でると、長い耳が少し揺れた。
幸運で罠そのものが消えるわけではない。
ただ、こういう偶然が危険を避けるきっかけになるなら十分ありがたい。
五階層ではメイが通路の途中で鼻先を上げた。
「ワフッ」
直後、俺の【直感】にも違和感が来る。
上。
「止まって」
全員が足を止めた次の瞬間、天井の一部が崩れた。
大きな岩がこちらへ落ちてくる。
「危ない!」
キリコが手を向ける。
半透明の魔力壁が俺たちの上へ広がり、落下した岩を受け止めた。
鈍い音が響き、壁が少し揺れる。
だが割れない。
「そのまま横へずらせる?」
「やってみる」
キリコが慎重に魔力を動かす。
岩が魔力壁の上を滑り、通路脇へ落ちた。
「できた……」
「今のよかったよ」
「うん」
キリコが嬉しそうに頷く。
その横で、メイが落ちた岩へ近づいて匂いを確認している。
「メイもありがとう」
頭を撫でると、尻尾が一度大きく揺れた。
六階層を抜ける頃には、自然と動き方も固まってきた。
メイは少し先で匂いと音を拾う。
シルクは俺の頭や肩から周囲を見ながら、ときどき自分で足場を確かめる。
ベルは上や遠くを見る。
キリコとウンディーネは後方も含めて広く注意する。
誰か一人が全部を見るのではなく、気づいた者が補う。
今まで一緒に旅してきた時と同じだ。
休憩もきちんと取った。
眠る時は比較的広く、周囲を見渡せる場所に魔導携帯テントを展開する。
一日目の夜。
テントの入口近くではメイが身体を丸め、それでも時々耳を動かしていた。
シルクは俺の寝具の端で丸くなっている。
「二匹とも、寝ていいよ」
声を掛けると、メイがこちらを見る。
「ワフ」
完全に警戒を解く気はないらしい。
俺も周囲を確認してから横になった。
百階ある以上、何日掛かるか分からない。
だからこそ、休める時に休む。
日数も忘れないよう数えていくことにした。
数日かけて七階層へ入ると、洞窟の様子が少し変わった。
地下水の流れる場所が増え、空気もさらに湿っている。
水辺へ近づいたところで、メイが鼻先を水面へ向けた。
すぐに小さな波紋が広がる。
魚のような魔物が何匹か泳いでいた。
岩陰には肉厚のキノコも生えている。
いくつか【鑑定】してみると、意外にも食べられるものが多かった。
水辺の植物にも食用可能なものがある。
「また食べられるの?」
キリコが尋ねる。
「うん。全部集める必要はないけど、少し持っていこう」
必要な分だけ採取して収納する。
シルクが俺の肩からキノコへ鼻先を寄せた。
「これはまだ食べないよ」
「キュゥ」
少し残念そうに耳が下がる。
(……思ったより食べられるものが多いな)
神が造った迷宮なら、普通の場所とは違う生態になっているのかもしれない。
今はそのくらいに考えておく。
八階、九階と進む。
罠や魔物は少しずつ増えた。
それでも、急がず確認しながら進めば対処できる。
そして十階層。
これまでより広い洞窟へ出た。
中央には大きな地下水の溜まりがあり、その奥で何かが動く。
水面が激しく揺れた。
最初に反応したのはメイだった。
背中の毛を逆立て、低く唸る。
「グルル……」
シルクも俺の頭から跳び降りた。
白い身体を低くし、長い耳を前へ向けている。
現れたのは、これまで見てきた岩殻蟹とは比べものにならない巨大な蟹だった。
馬車ほどの体格。
分厚い岩のような甲殻。
鋏だけでも、俺の身体より大きい。
「でかいね……」
ベルの声が少し低くなる。
【鑑定】する。
【巨岩殻蟹】
詳細:神造迷宮の浅層深部に生息する大型の蟹型魔物。岩殻蟹の上位個体で、より厚い甲殻と巨大な鋏を持つ。水場では巨体に似合わない勢いで突進し、鋏による挟撃を行う。甲殻内部には大量の白身が詰まっており、特に脚と鋏の身は強い甘味と旨味を持つ。内臓の一部も適切に処理することで食用可能。
これも食べられる。
ただし今は料理より戦闘だ。
「メイ、右を頼む。シルクは無理に前へ出なくていいよ」
「ワフッ!」
「キュイ!」
巨岩殻蟹が水を跳ね上げながら突進してくる。
ベルが上へ退き、俺とキリコも進路から外れる。
メイは逆に右側へ駆けた。
巨岩殻蟹の片方の鋏がメイへ向く。
だが振り下ろされる前に、メイは速度を上げて横へ抜けた。
空振りした鋏が地面を叩く。
その直後。
シルクが岩陰から飛び出した。
巨岩殻蟹の正面を横切るように一気に跳び、反対側へ抜ける。
追おうと身体を捻った巨岩殻蟹の脚が、水場の縁にある濡れた石へ乗った。
僅かに滑る。
ほんの一瞬だが、巨体の向きが崩れた。
「今!」
キリコが遠隔で魔力壁を作る。
振り直そうとした鋏の進路へ壁が現れ、勢いを受け止めた。
巨体がさらに止まる。
俺はその隙へ踏み込む。
甲殻そのものを砕く必要はない。
狙うのは継ぎ目。
金剛棒を脚の付け根へ叩き込んだ。
硬い感触のあと、巨岩殻蟹の身体が傾く。
メイが今度は反対側から走り込み、巨大な脚へ体当たりするように動きを乱した。
ウンディーネの水が別の脚へ絡む。
ベルも上空から動きを見ていた。
「左の鋏、来る!」
声に合わせて一歩退く。
巨大な鋏が目の前を通り過ぎた。
その隙に、もう一度甲殻の継ぎ目へ金剛棒を差し込む。
力を込める。
巨岩殻蟹の身体が大きく揺れ、そのまま動かなくなった。
少し待つ。
反応はない。
「終わったよ」
メイが倒れた巨体へ近づき、鼻先で確認する。
「ワフッ」
シルクも軽い足取りで戻ってきた。
「二匹とも助かった」
メイの頭を撫で、シルクも抱き上げて頭へ戻す。
キリコは倒れた巨岩殻蟹と自分の手を交互に見ていた。
「ちゃんと止められた」
「うん。あの位置で止めてくれたから、かなり入りやすかった」
キリコが少し笑う。
訓練してきたことが、実戦でもしっかり役に立っていた。
巨岩殻蟹をアイテムボックスへ収納する。
直後、洞窟の奥で低い音が響いた。
岩壁の一部がゆっくり開いていく。
その先には、小さな広間があった。
慎重に入る。
平らな地面。
澄んだ水場。
魔物の気配はない。
メイが広間を一周する。
隅まで匂いを確認したあと、ようやく身体の力を抜いた。
シルクも俺の頭から降り、広間の中央を何度か跳ねてから座り込む。
「大丈夫そうだね」
『うん。変な感じもしないよ』
ウンディーネも周囲を確認している。
第十一階層へ続くらしい通路はあるが、この広間だけは明らかに雰囲気が違った。
十階層ごとの休憩場所なのかもしれない。
魔導携帯テントを展開し、テーブルと調理設備も出す。
メイとシルクは、その準備が始まると急に俺の周りを離れなくなった。
「分かってるよ」
俺は少し笑いながら、最初に倒した岩殻蟹を取り出す。
「さて……ようやく食べられるな」
ベルがこちらを見る。
「さっきより明らかに楽しそうね」
「気になってたから」
「ワフッ」
「キュイッ」
二匹まで同意するように鳴く。
初めての食材なので、複雑な料理にはしない。
まず素材そのものを確かめる。
岩のような殻を処理し、太い脚や鋏を中心に取り分ける。
殻付きの部分はそのまま火へ掛けた。
熱が入るにつれ、硬い殻の隙間から白い湯気が上がる。
やがて広がってきたのは、見た目からは想像できないほどはっきりした甲殻類の香りだった。
メイの鼻がぴくぴく動く。
さっきまで少し離れていたのに、いつの間にか俺の足元へ座っていた。
シルクも作業台の端が見える位置まで近づき、耳を立てている。
「もう少し待って」
二匹へ言いながら、焼き上がった身を分ける。
半分は赤塩だけ。
残りは殻を開き、熱い白身へノース・グラン産の発酵バターを絡めた。
溶けたバターが身の間へ染み込む。
最後に天然醸造の生醤油を少量。
熱した鍋肌へ触れた醤油が、ジュッと音を立てる。
焦げた醤油と発酵バター。
そこへ蟹の甘い香りが重なった。
鑑定で食用可能と出ていた内臓も、状態を確認し、使える部分だけ別に火を通す。
全員分を取り分ける。
メイとシルクにも同じ味付けのものを、殻を外して食べやすい大きさにした。
「熱いから少し待ってね」
二匹とも皿を見たまま動かない。
少し冷ましてから前へ置く。
「どうぞ」
メイはまず赤塩だけの脚肉へ食いついた。
一度噛んだところで尻尾が大きく振れる。
そのまま二口、三口と迷いなく食べ進めた。
シルクはバター醤油の身へ鼻を近づけてから、小さく齧る。
「キュイッ」
すぐに顔を上げ、まだ皿に残っている身を見る。
「気に入った?」
耳がぴんと立った。
どうやら答えは分かりやすい。
俺も赤塩だけの身を食べる。
岩のような外見とは違い、中の身は真っ白だった。
適度な弾力があり、噛むほどに強い甘味が出る。
淡白すぎず、後から甲殻類らしい濃い旨味が残った。
「おっ……うまい」
次はバター醤油。
発酵バターのコクが甘い身へ絡み、焦がした醤油の香ばしさが加わる。
身自体の味が強いので、調味料にも負けていない。
「こっちも合うな」
ベルも白身を口へ運び、すぐ次を取った。
キリコは鋏の身をゆっくり噛んでいる。
「甘い」
『美味しい』
ウンディーネも静かに食べ進める。
メイは自分の分を食べ終えると、俺の横へ座ったまま尻尾を振っていた。
シルクも皿を空にし、俺の膝へ前脚を掛けてくる。
「もう少し食べる?」
「キュイッ」
分かりやすい返事だった。
メイの耳までこちらへ向く。
「メイもね」
「ワフッ」
二匹分を追加で取り分ける。
百階層。
帰るには最深部まで進まなければならない。
何が待っているのかも分からない。
それは何一つ変わっていない。
それでも、全員で温かい料理を囲んでいると、張りつめていたものが少しずつほどけていく。
キリコがバター醤油の岩殻蟹をもう一つ取りながら、ふと口を開いた。
「次の階にも、食べられる魔物いるかな」
ベルも第十一階層への通路を見る。
「ここにこんなのがいるなら、別の階にもいそうよね」
シルクまで通路の方へ耳を向ける。
メイも一度そちらを見てから、また自分の皿へ戻った。
俺も少し笑った。
「いるといいな」
帰るために進む。
危険な迷宮であることは忘れない。
何より、みんなで無事に帰ることが最優先だ。
その上で、知らない魔物や食材に出会えるなら楽しめばいい。
食事を終え、片付けを始める頃。
第十一階層へ続く通路から、微かな風が流れてきた。
湿った岩の匂いではない。
土。
草木。
それに、ほんの少し花のような香り。
先に気づいたメイが鼻を上げる。
シルクの耳も通路の奥へ向いた。
俺は手を止め、二匹と同じ方向を見る。
少なくとも、次は洞窟ではなさそうだ。
百階という数字は、まだ途方もなく遠い。
それでも今は、その先に何があるのかを少し楽しみに思えた。




