第131話 大峡谷の底と、存在しない入口
「では、ここまでだな」
中央都市の宿泊区画で馬車が止まり、御者台からロヴァンさんが降りてきた。
空はすでに夕方の色へ変わっている。
ダリオさんとミラさんも荷物を確認し、これでメリディアからの護衛契約は終了らしい。
「一日ありがとうございました。おかげで楽に来られました」
俺が頭を下げると、ロヴァンさんが笑った。
「礼を言いたいのはこっちもだよ。昼飯までご馳走になったからな」
「本当に美味しかったわ。あの牛カツサンド、しばらく忘れられそうにないもの」
ミラさんがそう言うと、ダリオさんも頷く。
「次に紅角野牛を食う機会があっても、あれと比べちまいそうだ」
「そんなに機会はないと思いますけどね」
俺も少し笑った。
「またどこかで会ったら、その時はよろしくお願いします」
「ああ。道中気をつけてな」
三人と別れ、俺たちは近くの宿へ入った。
朝からずっと移動していたので、今日はもう出歩かない。
宿で簡単に夕食を済ませ、そのまま休むことにした。
本来なら、次は中央都市の北側から大橋を渡り、そのままオアサリアへ続く北方街道へ向かう予定だ。
ただ、眠る前になっても、昨日見た大峡谷の景色が頭に残っていた。
遥か下を流れていた大河。
何層にも重なる岩壁。
途中で霧へ変わっていた滝。
あれを上からではなく、下から見たらどう見えるのだろう。
そんなことを考えながら眠りについた。
朝食を終え、荷物をまとめる。
俺の準備はすぐに終わった。
窓の外には、昨日渡ってきた南大橋とは反対側の街並みが広がっている。
「……谷の下って、普通に行けるのかな」
思わず口にすると、キリコがこちらを見る。
「昨日の谷?」
「うん。上から見てもすごかったけど、底から見たら全然違いそうだなと思って」
キリコも少し考えたあと、頷いた。
「わたしも見てみたい」
ベルが窓辺から振り返る。
「でも、あれだけ深いところへ勝手に降りるのは無理じゃない?」
「そうだと思う」
観光客が気軽に降りられる場所には見えなかった。
それなら、確認できる場所は一つだ。
「冒険者ギルドで聞いてみよう。正規の依頼があるなら、そのついでに見られるかもしれない」
出発を少し遅らせ、中央都市の冒険者ギルドへ向かうことにした。
中央都市のギルドは、今まで見てきた場所とは掲示板の内容が少し違った。
魔物の討伐や素材採取もあるが、それ以上に護衛や街道確認、各地から届いた報告への対応が目立つ。
橋の点検補助や、峡谷周辺の調査らしい依頼まであった。
受付へ行き、魔石カードを差し出す。
「すみません。大峡谷の谷底まで行ける依頼ってありますか?」
受付の女性が少し意外そうな顔をした。
「谷底ですか?」
「はい。昨日初めて大峡谷を見たんですけど、下からも見てみたくて」
「一般の方が観光で降りられる場所ではありませんが……冒険者向けでしたら、ちょうど一件ございます」
受付の女性が依頼書を取り出す。
【中央大峡谷・谷底定期調査】
依頼ランクはC。
俺のカードを確認した受付の女性が、端末へ何かを表示させた。
「フトシ様はDランクですが、Cランクまでの依頼受注権限が付与されていますね」
「はい」
「パーティー登録も確認できましたので、こちらは受注可能です」
依頼書へ目を通す。
指定された経路を歩き、前回調査からの変化を確認するのが主な仕事だった。
新しい崩落。
河川の流れや水量。
橋脚や崖壁周辺の異常。
魔物の種類や数に大きな変化がないか。
見慣れない洞穴、植物、鉱物などを見つけた場合も記録する。
そして最後に、少し強い調子で注意書きがあった。
『記録にない異常を発見した場合、無理な調査を行わず帰還し、速やかに報告すること』
「結構細かく調べるんですね」
「橋の安全にも関係しますから」
大峡谷の谷底自体は、未踏の場所ではないらしい。
昔から冒険者や王国の調査員が何度も入っている。
ただ、危険を冒して採りに行くほど珍しい鉱物や植物はほとんど見つかっておらず、狩る価値の高い魔物も少ない。
現在は主に地形や河川、橋梁周辺の変化を確認するため、定期的に調査されているそうだ。
「特に何もない場所なんですね」
「景色は凄いですが、冒険者からするとあまり稼げる場所ではありませんね」
それでも俺には十分だった。
「受けます」
手続きを済ませ、調査用の地図と記録板を受け取る。
谷底へ降りるための設備は、中央台地の外縁にあった。
橋梁点検員や調査冒険者が使う専用の魔導昇降機らしい。
大人数でも乗れそうな頑丈な籠状の足場が、太い索で上方の滑車と繋がっている。
索には大型魔物の素材も使われているらしく、魔導機構と合わせて重量を支えている。
係員へ依頼票を見せる。
「指定経路から外れすぎないようお願いします。帰りもこちらの昇降機をご利用ください」
「分かりました」
六人で乗り込む。
金属音のあと、足場がゆっくり動き始めた。
昨日は遥か下へ見下ろしていた大峡谷の中へ、今日は自分たちが降りていく。
最初は地面が少しずつ上へずれているように見えた。
だが降りるほど、頭上の空が遠くなる。
昨日はただの模様に見えていた岩壁の地層が、今は目の前を横切っていく。
白っぽい層。
赤茶色の層。
暗い灰色の岩。
長い年月を重ねたような色が、壁一面に続いていた。
「近いとすごく大きいね」
キリコが岩壁を見上げる。
少し離れたところでは、昨日細く見えていた滝が落ちている。
近くで見るとかなりの水量だった。
途中で岩へぶつかり、飛沫が風に乗ってこちらまで流れてくる。
ベルは飛ばず、俺たちと一緒に昇降台の手すりへ座っていた。
メイとシルクも周囲を見回している。
やがて、下に見えていた川の幅もどんどん広くなってきた。
(上からだと本当に小さく見えてたんだな)
長い下降の末、昇降台が谷底へ着く。
足場から降り、最初に上を見た。
「……下から見ると、また全然違うな」
首をかなり上へ向けないと崖の上まで見えない。
昨日自分たちが立っていた中央台地は遥か頭上だ。
左右には巨大な岩壁。
少し離れた場所では大河が轟々と流れている。
風も上とは違い、岩壁へぶつかって向きを変えるせいか、急に横から吹いたかと思えば弱くなる。
しばらく見ていたかったが、今日は仕事で降りてきている。
調査地図を開いた。
「まずこっちからだね」
指定された経路を歩き始める。
ベルが少し高い位置から先を見る。
俺たちは地図に付けられた目印を確認しながら進んだ。
最初の確認地点では、大きな変化はなし。
次の場所には新しいと思われる小さな崩落跡があったので、位置と範囲を記録する。
川沿いの地点では、ウンディーネが流れを見た。
『変な感じはしないよ』
水量も地図に記載された範囲から大きく外れていない。
遠くの岩場で魔物らしい影を見かけたが、こちらへ近づいてくる様子はなかった。
調査は順調だった。
しばらく歩いても、特に珍しいものはない。
植物自体が少なく、岩と砂利ばかりの場所も多い。
鉱石らしいものが見えても、地図にはすでに記録されている普通のものだった。
(確かに、冒険者がわざわざ降りて稼ぐ場所ではないか)
景色を見るために来た俺としては、それでも十分だった。
上から見た大峡谷とは、感じ方がまるで違う。
ただ、仕事としてはこのまま何事もなく終わりそうだ。
指定経路のかなり奥まで進み、最後の確認地点へ向かう。
地図を見る限り、ここを確認したら折り返していい。
俺は大きな岩壁の前を通り過ぎた。
そして数歩進んだところで、足が止まった。
「……ん?」
後ろを振り返る。
そこにあるのは、ただの岩壁だった。
穴もない。
大きな割れ目もない。
植物すらほとんど生えていない。
地図にも同じ場所が記されているが、書かれているのは岩壁だけだ。
「どうしたの?」
ベルが戻ってくる。
「分からない」
自分でも説明できなかった。
危険を感じた時の【直感】とは少し違う。
背筋が冷えるわけでもない。
何かが襲ってくる気配もない。
ただ、このまま通り過ぎるのが妙に気になった。
(……なんだ?)
岩壁を見る。
何度見ても普通だ。
「ウンディーネ、何か分かる?」
ウンディーネも岩壁へ視線を向けた。
しばらく黙っていたが、首を横へ振る。
『水も、魔力も……変じゃないよ』
「ベルは?」
「何も感じない」
キリコも岩壁の前まで来る。
「普通の壁に見える」
メイとシルクも周囲を気にしているが、何かへ強く反応している様子はない。
俺だけだ。
「俺の勘違いかもしれないけど、少しだけ確認してみる」
金剛棒へ手を掛けるほどではない。
それでも周囲へ注意しながら、岩壁へ近づいた。
一歩。
何もない。
もう一歩。
まだ変化はない。
さらに進んだ瞬間。
目の前の空間へ、細い光の線が走った。
「止まって!」
ベルの声と同時に、俺も足を止める。
縦に一本。
続いて横へ。
光が何もない岩壁の表面を走り、四角い輪郭を描いていく。
誰も動かなかった。
岩が崩れる音はない。
扉が開く音もしない。
ただ淡い光が一度強くなり、すっと消えた。
その後に残っていたものを見て、言葉を失う。
「……入口?」
さっきまで何もなかった岩壁に、巨大な入口がある。
古い扉が隠れていたようには見えない。
岩の割れ目が開いたわけでもない。
本当に、そこへ突然現れた。
調査地図を開く。
当然、何も書かれていない。
「さっきまでなかったよね?」
キリコが入口を見上げる。
『なかった』
ウンディーネがはっきり答えた。
大精霊のウンディーネにも、直前まで何も感じられなかったらしい。
気になる。
ものすごく気になる。
この奥に何があるのか。
どうして俺が近づいた時だけ現れたのか。
だが、依頼書に書かれていた内容は覚えている。
記録にない異常を発見した場合、無理な調査はせず帰還する。
「戻ろう」
ベルが俺を見る。
「入らないの?」
「これは俺たちだけで入るものじゃない。ギルドへ報告してからだ」
好奇心だけで依頼の指示を無視するつもりはない。
何があるか分からない以上、仲間を危険へ連れていく理由もない。
キリコも頷いた。
俺たちは入口へ背を向けた。
その瞬間。
ゴォン……。
低い音が背後から響いた。
全員が振り返る。
入口の奥で、淡い光が灯っている。
「離れて!」
ベルが飛び上がる。
同時に、足元へ複雑な紋様が浮かび上がった。
淡い線が俺たち六人を囲むように一気に広がる。
『……守る』
ウンディーネが即座に手を上げた。
水が立ち上がり、俺たちを包むように結界を作る。
だが、何かがぶつかってくる様子はない。
熱も衝撃もない。
代わりに、周囲の景色そのものが薄くなった。
「これ、攻撃じゃない……?」
ベルの声が聞こえる。
岩壁。
川。
空。
全部が光の向こうへ遠ざかっていく。
ウンディーネの結界は残っている。
それでも変化は止まらない。
空間そのものが切り替わっている。
そうとしか思えなかった。
「みんな、近くに!」
咄嗟に周囲を見る。
ベル。
メイ。
シルク。
ウンディーネ。
キリコ。
全員いる。
次の瞬間、視界が真っ白になった。
足元の感触が消える。
身体が落ちたわけではない。
浮いたわけでもない。
ただ、一瞬だけ何にも触れていないような感覚があった。
そして光が消えた。
「……全員いる?」
最初に確認する。
「いるわ」
「うん」
『大丈夫』
メイもシルクもすぐ近くにいる。
怪我をしている者はいない。
それを確認してから、ようやく周囲を見る。
さっきまでいた大峡谷ではない。
岩壁はある。
だが色も形も違う。
空気の匂いも違う。
川の音も、吹き抜けていた風もない。
周囲に漂う魔力の感じまで変わっていた。
後ろを振り返る。
「……ない」
入口が消えている。
戻るための扉も、光の輪郭もない。
ただ岩壁があるだけだ。
キリコが俺の近くへ寄る。
「ここ、どこ?」
「分からない」
まず帰る方法を探す必要がある。
そう思って周囲を見渡した時、少し離れた場所に淡い光が見えた。
石碑のようなものが立っている。
その表面へ、短い文字だけが浮かんでいた。
【第一階層】
「第一……階層?」
意味を考えても、今は何も分からない。
俺は文字から視線を外し、知らない空間の奥へ目を向けた。




