第118話 南へ続く街道と、近づく足跡
ガルディアの冒険者ギルドを出たカオリとクロエは、そのまま南行きの乗合馬車が出る発着所へ向かった。
受付にはいくつもの行き先が書かれた札が並んでいる。
「アストラーレ方面へ行きたいんですが、南の国境まで一番早く行ける便を教えてください」
カオリが尋ねると、受付の獣人は手元の表を確認した。
「アストラーレまで一本で行く馬車はないぞ。まず国内の南部交易地まで定期便で行って、そこで国境方面の便へ乗り換えだ」
「途中の宿泊は?」
「明日の朝出れば、一日目は街道の宿場まで。次の日の夕方には南部の交易宿場へ着く」
カオリは旅の資料へ書き込んでいく。
出発時間。
途中の宿場。
次の便が出る時間。
料金。
国境を越えた後にどこで乗り換えるのか。
一つずつ確認した。
隣で聞いていたクロエが少し笑う。
「そういうところ、本当にしっかりしてるよね」
「途中で便がなくなったら困るから」
「着いてから聞けばいいのに」
「満席だったらどうするの?」
「……それは困るわね」
翌朝。
二人は頑丈な街道用の乗合馬車へ乗り込んだ。
カオリの荷物は少ない。
着替えや旅道具の大半は、自分で作った収納空間へ入れてある。
クロエも大きな荷物は背負っていたが、腰の片手剣と水筒、財布など、すぐ必要になる物だけは身体から離さない。
「剣までしまったら、何かあった時に困るからね」
クロエが腰の柄へ触れる。
「私も必要なものは手元に置いておきます」
馬車には二人のほかにも、冒険者や商人、獣人の家族が乗っていた。
豪華さはない。
太い車軸と大きな車輪を持つ、長距離移動のための丈夫な馬車だった。
港街を出た直後は、まだ潮の匂いが残っていた。
魚を積んだ荷車。
倉庫。
港へ向かう商人。
だが街から離れるにつれ、それらは少しずつ減っていく。
やがて海そのものが見えなくなった。
代わりに広い草地と柵が増える。
その向こうでは、大きな家畜が何頭も草を食べていた。
「この辺はずっと牧草地なんですね」
カオリが幌の隙間から外を見る。
「港で食べる肉も、こういうところから来るのかもね」
以前、一人で乗合馬車に乗っていた時は、景色を見る余裕などほとんどなかった。
道が合っているか。
王国兵はいないか。
誰かに見られていないか。
そればかり気にしていた。
今は隣にクロエがいる。
ただ流れていく景色について話せる。
昼前には、馬を休ませるため街道沿いの休憩所へ入った。
簡素な食堂と水場、小さな売店、それに馬小屋があるだけの場所だ。
二人もそこで昼食を取った。
硬めの黒パン。
表面を炙った肉。
茹でた野菜。
豆の入った温かいスープ。
「港より肉が多いね」
クロエが炙り肉を食べる。
「ガルディアに来てから、本当に肉料理が多いです」
「わたしは好きだけど」
「私も嫌いじゃないよ」
食事を終え、馬車へ戻る前にクロエが少し歩き始めた。
「カオリも動いた方がいいよ」
「どうして?」
「ずっと座ってると、午後がきついから」
言われてみれば、午前中だけでも腰や脚が少し重い。
カオリも一緒に歩き、肩を回した。
午後になると、その意味がよく分かった。
車輪が石を踏むたびに座席が揺れる。
同じ姿勢が長く続き、少しずつ身体のあちこちが疲れてくる。
反対方向から大きな商隊が来れば馬車を端へ寄せて待つこともあった。
夕方、ようやく一泊目の宿場へ着いた頃には、カオリも大きく伸びをした。
「まず明日の馬車を確認してきます」
「じゃあ、わたしは宿を見てくるね」
どちらからともなく役割が決まった。
カオリは翌朝の席を押さえ、クロエは馬車乗り場から近い宿に二人部屋を取る。
部屋へ入ると、カオリは収納空間から着替えと必要なものを出した。
クロエも剣を壁へ立てかけ、荷物を整理している。
特に何かを相談することもない。
翌日の準備を済ませ、二人で食堂へ降りた。
一緒に旅を始めてから、まだそれほど日が経っていない。
それでも同じ部屋で翌日の支度をすることは、もう不自然には感じなかった。
二日目。
さらに南へ向かう。
景色はまた少し変わった。
港近くの湿った空気はほとんどなくなり、広い草原と低い丘が続く。
遠くには山並みも見えた。
街道を行き交う荷車に積まれている物も違う。
魚ではなく、肉や皮。
穀物。
大きな木箱に入った商品。
土地が変われば、運ばれている物も変わっていく。
カオリは地図と外の景色を何度も見比べていた。
しばらくして、隣で眠りかけていたクロエが目を開ける。
「……まだ見てるの?」
「次の乗り換えを確認しておきたくて」
「昨日も確認してなかった?」
「確認はしてる。でも着いた時に次の便も聞いておきたいから」
クロエは欠伸を一つした。
「カオリに任せてるから大丈夫そうね」
それだけ言うと、また目を閉じた。
二日目の夕方には、これまでより大きな交易宿場へ到着した。
馬車の数も多い。
国境へ向かう商隊。
護衛の冒険者。
人族とは違う姿の商人も混じっている。
カオリは受付で、翌朝国境方面へ向かう乗合車が商隊と一緒に出ることを確認した。
「アストラーレ側までこのまま乗れるんですか?」
「国境を越えた先の交易宿場までだ。その後は向こうの国内便を探すといい」
また一つ、地図へ書き込む。
三日目の朝。
二人が乗ったのは、今までより大きな一団だった。
何台もの荷車。
乗合車。
前後を守る冒険者たち。
その中には獣人だけでなく、角や長い耳、独特な肌色を持つ魔族の商人もいた。
カオリは最初、無意識にその姿を目で追っていた。
魔族。
ロドリス王国にいた頃、その言葉には恐ろしい敵の姿がいつも結びついていた。
けれど目の前にいる男は、荷車の車輪を覗き込んで御者と話している。
別の魔族は昼の休憩でパンを食べながら商品の値段について商人と話していた。
笑っている者もいる。
疲れて欠伸をしている者もいる。
(……本当に、普通なんだ)
それだけだった。
王国で聞かされていた話と、自分の目の前にいる人たち。
その差を、カオリは黙って見ていた。
午後には国境へ着いた。
ガルディア側の確認を終え、その先にあるアストラーレ側の検問へ進む。
カオリとクロエは冒険者カードを出した。
「Cランク冒険者二名。目的は?」
「旅です。メリディア方面へ向かいます」
カオリが答える。
兵はカードと二人を確認し、特に変わった反応も見せなかった。
「問題ない。通っていい」
「ありがとうございます」
それだけだった。
国境を越えても、空が変わるわけではない。
道が突然危険になることもない。
荷車はそのまま進み、さっきまで一緒だった商人たちも普通に国境を越えていく。
ロドリスで教えられた魔王国の姿が、また一つ崩れた気がした。
その日の夕方は、アストラーレ側の交易宿場に泊まった。
食堂には獣人も人族も魔族もいた。
誰かが特別に注目されることもなく、同じ部屋で食事をしている。
「そんなに珍しい?」
クロエが聞く。
「……少し」
「交易地なら色んなところから人が来るし、こんなものじゃない?」
「そうなのかも」
夕食は香辛料の効いた肉と野菜の煮込みに、焼いたパンだった。
辛すぎるほどではないが、ガルディアで食べていたものより香りが複雑だ。
カオリはその味を確かめながら、明日の馬車についてクロエと話した。
四日目。
今度はアストラーレ国内の乗合馬車へ乗り換える。
街道は区間によってはガルディア側より広く、すれ違う馬車の数も多かった。
南へ進むほど気温が少しずつ上がっていく。
背の高い草。
鮮やかな花。
見慣れない葉を持つ木々。
果物を積んだ荷車も増え始めた。
カオリは上着の前を少し開ける。
「暖かくなってきたね」
クロエはすでに上着を脱いで膝の上へ置いていた。
「南へ来たって感じするわ」
四泊目の宿場では、さらに南方の商品が目立った。
赤や黄色の果物を詰めた箱。
乾燥させた香辛料。
香りの強い植物。
宿の前にも、メリディア方面から来たという商人の荷車が何台か停まっていた。
それでも、この日は特別な情報を探すことはしなかった。
夕食を食べ、次の便を確認し、早めに休む。
旅はまだ続く。
五日目。
昼の休憩所で、クロエが同じ馬車に乗っていた商人へ声を掛けた。
「メリディアって、どんな街なの?」
「初めてか?」
「うん」
商人は水を飲みながら答える。
「暖かいぞ。一年中果物が多い。香辛料も集まるし、市場も大きい」
「食べ物も多そうね」
クロエが少し嬉しそうになる。
商人が笑った。
「まあな。そういや、少し前には妙な人族の料理人もいたぞ」
カオリとクロエが同時に顔を向けた。
「人族の料理人?」
クロエが聞き返す。
「ああ。市場の外で屋台を出してた」
商人は思い出すように続ける。
「地元の陽冠鶏を香辛料で焼いて、丸い平たいパンへ野菜と一緒に詰めて売ってた。冷たい果物のソースまでかけてな」
「それ、いつ頃ですか?」
カオリの声が少し早くなる。
「つい最近だよ。昼過ぎには売り切れてたな」
胸が強く鳴った。
これまで聞いてきたのは、フトシが昔そこにいたという話ばかりだった。
だが今回は違う。
「その人……どんな人でした?」
「背の高い人族の男だった」
商人が答える。
「白いウサギと、黒い犬みたいな魔物も一緒だったな」
カオリとクロエが目を合わせる。
「それと、小さな羽の生えた女の子もいた。あと、黒い髪の小柄な子だったか」
商人は少し考える。
「水色の髪の女が一緒だったって話も聞いたが、俺は見てないな」
クロエがカオリを見る。
「それ、絶対フトシ君じゃない?」
カオリも否定できなかった。
白いウサギ。
黒い犬のような相棒。
料理。
今まで聞いてきた特徴と重なる。
しかも今回は、かなり最近の話だ。
「……はい」
返事が少し遅れた。
会える。
本当に会えるかもしれない。
そう思った途端、胸の奥に別の緊張が広がった。
今まではずっと、会ったら謝ると考えていた。
けれど実際に数日の距離まで近づくと、何を最初に言えばいいのか分からなくなる。
クロエが横からカオリを見る。
「……緊張してる?」
「少し」
正直に答えた。
「そっか」
クロエはそれ以上、無理に励まさなかった。
少ししてから、普通の声で続ける。
「でも、一緒に行くって決めたから」
「……うん」
それだけで十分だった。
五泊目。
メリディアまであと一日ほどの宿場で、二人は最後の夜を過ごした。
カオリはいつもより何度も地図を確認した。
明日の便。
荷物。
冒険者カード。
必要な金。
収納空間の中身。
クロエは何も言わず、自分の剣を手入れしている。
「明日の朝、早いよ」
「分かってる」
「起きられる?」
「それはカオリより自信ある」
いつも通りのやり取りだった。
そのことがありがたかった。
六日目。
最後の乗合馬車が、暖かな街道を進んでいく。
道の両側には果樹園が増えていた。
赤と黄金色が混じった大きな果実。
房になって垂れる黄色い果物。
見たことのない実をつけた木も多い。
甘い香りが風に混じって流れてくる。
「これ全部、果樹園なんだ」
クロエが外を見る。
「すごいね……」
カオリも窓の外へ目を向けた。
太陽は明るい。
風も暖かい。
街道沿いには色の濃い花が咲き、遠くには白や淡い黄色の建物が少しずつ見え始めている。
同じ馬車に乗っていた男が、前方を指した。
「あれがメリディアだ」
カオリはその先を見る。
ここまで来た。
ロドリス王都を一人で抜けた。
アクアリスへ入り。
ポルト・ラーラでクロエと出会い。
海を渡ってガルディアへ行った。
そして六日かけて、今はフトシがつい最近いたという街を目の前にしている。
隣にはクロエがいた。
もう、一人ではない。
馬車は果樹園の間を進んでいく。
メリディアの街並みが少しずつ大きくなった。
「まず着いたら宿ね」
クロエが前を見ながら言う。
「それから探そう」
カオリは街から目を逸らさなかった。
「うん」
遠くに見えていた門が、ゆっくりと近づいてきていた。




