第116話 港町の共闘と、涙のたこ焼き
海洋国アクアリスへ入ってから、さらに数日。
乗合馬車を乗り継いできたカオリの前に、ようやく大きな海が広がった。
「……すごい」
思わず足が止まる。
青い海の上には何隻もの大型帆船が浮かび、その間を小さな漁船が行き交っている。
港には荷を運ぶ人たちの声が響き、少し先には魚市場らしい建物も見えた。
鼻へ届く潮の匂いも、ロドリス王国では感じたことがない。
ここが港町ポルト・ラーラ。
獣人帝国ガルディアへ渡る船が出ている、カオリの次の目的地だった。
一人で旅をすることには、最初より少し慣れた。
それでも知らない街へ足を踏み入れる時の緊張までは消えていない。
収納空間へ入れてある旅の資料を思い出しながら、まずは冒険者ギルドを探そうと歩き始める。
その途中だった。
「焼きたてのたこ焼きだよ! 今ならすぐ出せるよ!」
聞き慣れたはずのない言葉が耳へ飛び込んできた。
カオリは反射的に振り向く。
道の脇に屋台が出ていた。
火にかけられているのは、半球状の窪みがいくつも並んだ分厚い鉄板。
その上では、小さな丸い料理が次々と転がされている。
「……たこ焼き?」
日本にいた頃なら、何も不思議ではない。
けれど、ここは異世界だ。
ソースの香りも少し違う。
中に何が入っているのかも分からない。
それでも見た目も名前も、どう見てもたこ焼きだった。
(どうして……?)
胸の奥がざわつく。
ただ、ここで立ち止まっていても何も分からない。
カオリは屋台を何度か振り返りながら、先に冒険者ギルドへ向かった。
ポルト・ラーラの冒険者ギルドは、港からほど近い場所に建つ大きな石造りの建物だった。
中へ入ると、昼前ということもあって多くの冒険者が行き交っている。
ロドリス国内では使用を控えていた冒険者カードも、アクアリスへ入る際には身分証として問題なく使えた。
カオリは受付へ進み、カードを差し出した。
「お願いします」
受付職員が専用の魔導具へカードを置く。
「カオリ様、Cランクですね。ポルト・ラーラ支部は初めてのご利用で間違いありませんか?」
「はい」
問題なく読み取られたことに、少しだけ安心する。
カオリは続けて口を開いた。
「それと、人を探しているんです」
「人探しですか?」
「はい。フトシという――」
ゴォン! ゴォン! ゴォン!
突然、大きな鐘の音が街中へ響いた。
ギルド内の空気が一瞬で変わる。
座っていた冒険者たちが立ち上がり、受付職員も表情を引き締めた。
奥から別の職員が走ってくる。
「近海警戒船より緊急報告! 裂鰭鮫の群れが港へ接近中! 数十体規模です!」
周囲がざわめく。
「数十!?」
「漁船は戻ってるのか!」
「まだ複数が沖に残っています!」
受付職員がすぐに動いた。
「緊急招集依頼を発令します! 戦闘可能なCランク以上の冒険者は原則参加してください! 負傷中、別任務中など参加できない事情がある方は受付へ申告を!」
受付職員がカオリを見る。
「カオリ様もCランクですね。参加は可能でしょうか?」
「……」
知らない街。
初めて見る海棲魔物。
一人旅を始めてからは、危険を避けることを優先してきた。
一瞬、迷う。
だが、開いた扉の向こうでは港から離れる人々が見えた。
遠くでは、沖から戻ろうとする漁船もある。
冒険者たちはすでに武器を持ち、次々と外へ出ていた。
「……分かりました。参加します」
「ありがとうございます。こちらをお返しします」
受付職員が魔導具から冒険者カードを取り、カオリへ差し出す。
「東側の船着き場を担当する組へ入ってください」
「はい」
カードを受け取ってしまうと、すぐに簡単な配置が決められていった。
「あなたがカオリ?」
声をかけてきたのは、ショートヘアの女性だった。
動きやすそうな軽装に、腰には片手剣を下げている。
「はい」
「わたしはクロエ。Cランクよ。東側は一緒みたいね」
「カオリです。よろしくお願いします」
「よろしく。話は走りながらでいいわ」
クロエはそう言うと、すぐに港へ向かった。
カオリもその後を追う。
東側の船着き場では、すでに港湾兵やほかの冒険者たちが配置についていた。
海上には戻ってくる漁船。
そのさらに向こう。
水面へ何本もの背鰭が見える。
「来るわよ!」
誰かの声が飛んだ。
次の瞬間。
水面が弾ける。
大型の鮫に似た魔物が、勢いよく空中へ飛び出した。
普通の鮫とは違い、背や左右の鰭が硬質化し、刃のように鋭く伸びている。
一体がそのまま船着き場へ向かってくる。
「っ!」
カオリは初めて見る動きに、一瞬だけ反応が遅れた。
その前へクロエが飛び込む。
正面から受けるのではない。
身体を横へずらして軌道を外し、すれ違う瞬間に片手剣を走らせる。
刃が裂鰭鮫の脇を深く切り裂いた。
魔物が石の上へ落ちる。
「水の中だと狙いにくいわ! 跳んだところをお願い!」
「分かりました!」
次の一体が水面から出る。
今度は遅れない。
カオリは杖を向け、風を細くまとめた。
大きく吹き飛ばす必要はない。
空中で少し軌道をずらすだけでいい。
裂鰭鮫の身体が横へ流れる。
そこへクロエが踏み込んだ。
首元へ一閃。
「次!」
別の一体が飛ぶ。
カオリは水面付近の水を一瞬だけ持ち上げ、身体へ絡ませた。
勢いを失った裂鰭鮫が低い位置へ落ちる。
クロエの剣が通る。
最初は声を掛け合った。
「左!」
「はい!」
「二体来る!」
一体を風で逸らす。
もう一体は水で動きを鈍らせる。
クロエはその間を迷わず走り抜け、一体ずつ仕留めていった。
裂鰭鮫は単体ならDランク相当でも、数が多い。
しかも海の中にいる間は自由に動き回る。
大きな魔法を放てば何体かまとめて倒すことはできるだろう。
だが、すぐ近くには船がある。
港湾施設もある。
戻ろうとしている漁船まで巻き込むわけにはいかない。
だからカオリは威力を抑えた。
飛び上がった一体だけを狙う。
風で向きを変える。
水面近くの動きを一瞬止める。
クロエが剣を通しやすい場所へ追い込む。
それを繰り返す。
「後ろお願い!」
クロエがそう言って前へ出た。
カオリはその背中を見る。
迷いがない。
自分の後ろを任せることを、当然のように信じている。
一人で旅をしている間は違った。
前も。
後ろも。
横も。
荷物も。
道も。
全部自分で気にしていた。
今はクロエが前にいる。
カオリはその背中を守ればいい。
そして自分が危なくなれば、クロエが前へ出てくれる。
(……一人じゃないだけで、こんなに違うんだ)
次に飛び出した裂鰭鮫へ魔法を向ける。
クロエは何も言わなかった。
それでもカオリが水で軌道を止めると、その位置へすぐに剣が走った。
今度はクロエが一体を横へ避ける。
カオリはその先へ小さな風の塊を置き、別の冒険者がいる方向へ行かないよう押し戻した。
少しずつ、言葉が減っていく。
相手が何をしようとしているのか、動きを見れば分かるようになってきた。
(こういうのが……一緒に戦うってことなのかな)
カイトたちと戦っていた時とは違う。
クロエはカオリの魔法が使えて当然という顔をしない。
自分も危険な前へ出る。
必要な時には声を掛ける。
カオリも、それに魔法で応える。
それだけのことが、不思議なくらい気持ちを軽くした。
やがて沖に見えていた背鰭の数が減り始めた。
ほかの区画でも、冒険者や港湾兵が次々と裂鰭鮫を倒している。
最後まで港へ近づいていた群れも、何体かが沖へ逃げていった。
「追わなくていい! 港の安全確認を優先!」
指示が飛ぶ。
しばらくして、緊急警鐘とは違う短い鐘が鳴った。
戦闘終了を知らせるものらしい。
クロエが剣を軽く振って汚れを落とし、鞘へ戻す。
「ふぅ……終わったわね」
「はい」
「カオリ、すごい魔法使いね。初めて組んだのに、すごく動きやすかった」
突然褒められ、カオリは少し戸惑った。
「クロエさんが前にいてくれたからです」
謙遜だけではない。
本当にそう思っていた。
「わたし一人だったら、あんなに周りを気にしながら戦えなかったと思います」
「じゃあ、お互い様ね」
クロエが笑う。
それだけで、少し嬉しかった。
ギルドへ戻る途中。
クロエが隣を歩きながら尋ねてきた。
「そういえば、カオリはポルト・ラーラに何をしに来たの?」
「人を探しているんです」
「人?」
「はい。フトシという――」
クロエの足が止まった。
「フトシ君?」
カオリも止まる。
「……知ってるんですか?」
「もちろん!」
あまりにも普通に返ってきた答えだった。
カオリは一瞬、言葉が出なかった。
「マルタで初めて会ったの。すごく美味しいタコスを作っててね。そのあと、ここでもまた会ったわ」
「ここに……来てたんですか?」
「来てたどころか、かなり有名だったわよ。屋台もやってたし、父と一緒に料理の依頼もしたし」
胸が早くなる。
「フトシ君……元気でしたか?」
最初に出たのは、それだった。
クロエは少し不思議そうにしながらも、すぐに頷く。
「元気だったわよ」
その一言だけで、胸の奥にずっと残っていた重いものが少し落ちた。
生きている。
少なくとも、この街へ来た時には元気だった。
「白いウサギも一緒だったし、この街に来てからは黒い子犬みたいな子も連れてたわ」
「ウサギと……子犬?」
カオリの知らない話だった。
フトシは一人ではなかった。
この世界で誰かと出会い、相棒までできていた。
クロエが少し考える。
「父もフトシ君には随分世話になってるの。会っていく?」
「お父さんも?」
「ええ。この街の領主なの」
「……え?」
カオリが固まる。
クロエは楽しそうに笑った。
「冒険者してる時は、普通にクロエでいいわよ」
その後、カオリはクロエに連れられて、港を見下ろす高台の領主邸へ向かった。
そこで改めて、クロエがポルト・ラーラ辺境伯の令嬢、クロエ・ポルト・ラーラであることを知った。
通された応接室では、父であるレオン・エル・ポルト・ラーラが二人を迎えた。
「お父様、この子がカオリ。さっき港で一緒に戦ったの。それで、フトシ君と同じ故郷から来たんだって」
「ほう。フトシ殿と同じ故郷の者とな」
「はい」
カオリは緊張しながら頭を下げる。
「カオリと申します」
「そう畏まらなくてよい。フトシ殿には、この街が随分世話になった」
その言葉から、フトシの話が始まった。
マルタでクロエと出会ったこと。
ポルト・ラーラへ来て、屋台で料理を売っていたこと。
それまで雑魚として扱われていた魚を美味しい料理へ変えたこと。
そして、漁師たちが捨てていたデビルオクトパスを料理してほしいと、レオンが直接依頼したこと。
「最初は、あれを食べるなど誰も考えなかったのだ」
レオンが笑う。
「ところがフトシ殿は、柔らかく煮て、揚げて、あっという間に料理へ変えてしまった」
「それから、たこ焼きを作ったのよ」
クロエが続ける。
「専用の鉄板まで作ってもらってね。最初に食べた時は、本当に驚いたわ」
「……たこ焼き」
街で見た屋台を思い出す。
やはり、偶然ではなかった。
「今では街の名物の一つだ。フトシ殿が残した味をもとに、料理人たちがそれぞれ工夫を続けている」
カオリは黙って聞いていた。
召喚された時、フトシの職業は【探求者】だった。
けれどロドリス王国は、その能力を理解できなかった。
勇者や賢者のように、すぐに強さが分かる職業ではなかった。
だから一般人同然のハズレ枠。
役に立たない。
そう判断された。
そして追放された。
カオリ自身も、その場にいた。
何も言えなかった。
あの時、たった一人で王城から出されたフトシが。
ここまで旅をして。
料理を作り。
人と知り合い。
街の名物まで残していた。
「……そうだったんですね」
謝りたいと思っていた。
その気持ちは、話を聞くほど強くなった。
クロエがカオリの顔を見てから、少し表情を和らげる。
「せっかくだから、食べてみる?」
「え?」
「たこ焼き。フトシ君がこの街に残した料理よ」
カオリは街へ着いた時に見かけた屋台を思い出した。
「……来る途中で、屋台を見ました」
「じゃあ、ちょうどいいわ。食べてみて」
少しして、領主邸の料理人が皿を運んできた。
丸く焼かれたたこ焼きが六つ。
上には黒褐色のソースがかかっている。
「これはフトシ君が作ったソースそのものじゃないわ」
クロエが説明する。
「フトシ君が残していった味を参考にして、この街の料理人たちが何度も作って今の形になったの」
カオリは一つ取る。
熱い。
少し息を吹きかけてから、口へ入れた。
表面は香ばしく焼けている。
中は熱く、柔らかい。
生地の中には、弾力のあるデビルオクトパス。
甘辛いソースの味も、日本で知っていたものとは少し違う。
それでも。
「……たこ焼きだ」
小さな声が漏れた。
間違いなく知っている料理だった。
その瞬間。
ぽたり、と涙が皿へ落ちた。
「え?」
カオリ自身が驚く。
慌てて目元へ手をやる。
けれど、次の涙も落ちた。
「カオリ?」
クロエが声を少し落とす。
「す、すみません……」
止めようとするほど、涙が出てくる。
フトシが生きていた。
一人で追放されたあとも、ちゃんと生きていた。
人と出会っていた。
料理を作っていた。
この街で笑って過ごした時間があった。
その安心と一緒に、王都を出てからずっと張りつめていたものまで緩んでいく。
一人で乗った夜行馬車。
知らない宿。
検問。
夜の物音。
自分だけで決めなければならなかった道。
一人で食べた食事。
魔法でどうにかできることは多かった。
それでも、ずっと怖かった。
「安心したら……」
カオリは目元を押さえたまま、少し言葉を探す。
「一人で、ちょっと……つらかったみたいです」
クロエはしばらく何も言わなかった。
やがて近くにあった布と水をカオリへ差し出す。
「そっか」
それだけだった。
どうして一人だったのか。
何があったのか。
無理に聞こうとはしない。
レオンも黙って見守っていた。
少しして、涙がようやく落ち着いてくる。
カオリが顔を上げると、クロエは何か考えるようにこちらを見ていた。
「それで、フトシ君は今どこにいるんでしょうか」
レオンが答える。
「この街を出た後は、海を渡った」
「海を?」
「獣人帝国ガルディアだ」
カオリはすぐに顔を上げた。
「私も行きます」
迷いはなかった。
フトシがそこにまだいるとは限らない。
それでも、足跡を追うなら次はガルディアだ。
「じゃあ、わたしも行くわ」
クロエが言った。
「……え?」
カオリが振り向く。
レオンも同じように娘を見る。
「クロエ?」
「ガルディアには前から一度行ってみたかったの。それに、今日一緒に戦って、カオリとはうまくやれそうだと思ったし」
クロエはそこで少し笑った。
「もちろん、またフトシ君の料理を食べられるなら嬉しいけどね」
カオリは迷った。
「でも、クロエさんは辺境伯家の方ですよね。私の都合でそんな……」
「カオリの都合だけじゃないわ。わたしが行きたいの」
クロエが腰の剣へ軽く触れる。
「それに、わたしはCランク冒険者でもあるのよ。今日だって一緒に戦ったでしょ?」
「それは……そうですけど」
レオンはしばらく娘を見ていた。
「クロエ。遊びではないぞ」
クロエも今度は笑わなかった。
「分かってる」
「海を渡れば他国だ。危険な魔物もいる」
「それも分かってる。冒険者として行くわ」
レオンは眉間へ手を当て、小さく息を吐いた。
「……お前は昔から、一度決めると聞かんな」
それから少し考え、カオリにも視線を向ける。
「ひとまずガルディアまでだ」
クロエの表情が明るくなる。
「ありがとう、お父様」
「勝手をするな。船の手配はこちらで確認する」
「分かった」
話が決まっていく。
カオリはまだ少し戸惑っていた。
自分一人で行くものだと思っていた。
王都を出てから、ずっとそうしてきた。
けれど今日、クロエと一緒に戦った時のことを思い出す。
前を任せられる相手がいた。
自分もその人を守れた。
一人ではないというだけで、あれほど心が軽かった。
「……よろしくお願いします」
カオリが頭を下げる。
クロエはすぐに笑った。
「よろしく!」
皿には、まだたこ焼きが残っている。
カオリはもう一つ取った。
さっきは涙が止まらなくなって、味を最後まで確かめる余裕がなかった。
今度はゆっくり口へ運ぶ。
熱い生地。
デビルオクトパスの弾力。
甘辛いソース。
日本で食べたものとは違う。
それでも、懐かしい。
「ガルディアでも、フトシ君ならまた見たことのない料理を作ってそうよね」
隣でクロエが楽しそうに言う。
カオリは少しだけ笑った。
もう一口、ゆっくり噛む。
今度は涙は落ちなかった。
「……美味しいです」




