第115話 一人きりの旅路と、賢者の工夫
夜行乗合馬車の車輪が、暗い街道を一定の音で進んでいた。
カオリは小さな鞄を膝の上へ抱え、窓の外を流れていく闇を見ている。
王都の明かりは、もう見えない。
監視の兵にも気づかれず、宿を抜けることができた。
南へ向かう馬車にも乗れた。
そこまで考えれば、少しくらい安心してもいいはずだった。
それなのに、胸の奥はなかなか落ち着かなかった。
向かいの席では商人らしい男が壁へ頭を預けて眠っている。
少し離れたところには、荷物を抱えた旅人の親子。
御者席の方からは、時折馬を宥める声が聞こえてきた。
周りに人はいる。
それでもカオリは、一人だった。
(……本当に、一人なんだ)
これまでは、どこへ行ってもカイトたちがいた。
最後には考え方がまったく合わなくなった。
カイトが王国そのものを力で潰せばいいと言った時には、本気で怖いと思った。
トウマもそれに賛同し、リンもカイトについていった。
もう一緒にはいられない。
そう決めたことに迷いはない。
それでも、宿へ戻れば誰かの声がした。
食事をすれば、日本の話ができた。
何か分からないことがあっても、少なくとも同じ世界から来た人間が近くにいた。
「あんな人たちなのに……」
口から小さく漏れた。
自分でも嫌になる。
けれど、あの三人の考えを受け入れられないことと、急に一人になって寂しいことは別なのかもしれない。
カオリは膝の上の鞄を少し抱き直した。
これからは、自分で道を選ばなければならない。
そのことだけは、もう決まっていた。
夜が明け、馬車は街道沿いの宿場へ入った。
そこで一度降りると、急にやることが増えた。
次に乗る馬車を調べる。
いつ出るのか確認する。
泊まるなら宿を決める。
食事を買う。
水も必要だ。
それに、自分の荷物も全部自分で持たなければならない。
旅の経路を調べること自体は、今までもカオリがやっていた。
四人分の物資や移動手段まで確認してきたのだから、知識がないわけではない。
けれど、自分一人の判断へ自分の命が乗っていると思うと、同じことでも重く感じた。
(この馬車で本当に合ってるよね)
(宿はここで大丈夫かな)
(寝てる間にお金を取られたら……)
一つ確認すると、次の不安が出てくる。
そして実際の荷物も重かった。
宿を抜ける時は、目立たないことを優先して着替えと自分で稼いだ金を中心に持ち出した。
それでも旅を続けるなら、食料や水、細かな旅道具も必要になる。
買い足せば、その分だけ鞄が重くなる。
大きな荷物を背負って歩けば目立つ。
かといって、必要なものまで減らすわけにもいかない。
宿場の小さな部屋で荷物を前に座り込み、カオリはしばらく考えた。
カオリ自身には、アイテムボックスのような収納系のスキルはない。
けれど、彼女のユニークスキル【賢者】は、この世界のあらゆる魔法を高い精度で扱える力を持っている。
収納する能力がないのなら。
「……物を入れる場所を、魔法で作れないかな」
カオリは立ち上がり、部屋の鍵を確認した。
誰にも見られていない。
右手を前へ出し、空間へ意識を集中する。
空間を切り分け、その内側へ物を置く。
入口を閉じても、中に入れた物との繋がりを失わないようにする。
頭の中で一つずつ組み立てていく。
最初の試みでは、空中がわずかに歪んだだけで消えた。
二回目は拳ほどの黒い裂け目ができたが、数秒で形が崩れる。
「大きくする前に……まず入口を安定させないと」
魔力を増やすのではなく、形を崩さないことへ意識を向ける。
入口。
その向こうの空間。
出し入れするための繋がり。
一つずつ分けて考えた。
何度か失敗して、ようやく掌ほどの入口が消えずに残る。
カオリは小さな布袋を入れてみた。
手を離す。
入口を閉じる。
もう一度同じように魔力を通すと、空間が開いた。
中へ手を伸ばす。
布袋は、入れた場所にそのまま残っていた。
「……できた」
思わず声が出た。
そこから少しずつ広げていった。
一気に大きくすると空間が不安定になる。
ならば、旅に必要な分だけでいい。
魔力の流れを一定に保ち、入口と内部の広さを少しずつ調整する。
最終的には、小さな物置ほどの空間が安定した。
作った空間の中では、外と同じように時間が流れている。
入れた食料は普通に傷むし、容量も無限ではない。
開閉するたびに魔力も使う。
それでも、旅の荷物を入れるには十分だった。
衣類。
食料。
水。
旅道具。
金も全部を一か所へ置かず、必要分だけ手元へ残して一部を中へ入れた。
鞄が急に軽くなる。
カオリはそれを持ち上げ、少しだけ肩の力を抜いた。
「……一つずつやれば、大丈夫」
大丈夫だと言い切れるほど、自信がついたわけではない。
ただ、さっきよりは少しだけそう思えた。
それからの旅でも、【賢者】の力は役に立った。
水が足りなくなれば、水魔法で補う。
衣服が汚れれば、水と風を使って汚れを落とす。
雨に降られた時には、身体の周囲へ薄い防護を作った。
どうしても宿へ辿り着けない日は、人目の少ない場所で小さな結界を張って休む。
夜には灯りも作れる。
魔法を戦うためだけに使わなければ、一人で旅を続けるために困ることの多くは解決できた。
けれど、魔法でもどうにもならないことがあった。
宿の食堂で、一人で食べる夕食。
窓の向こうに綺麗な景色が見えても、それを話す相手はいない。
分かれ道へ来た時、地図を確認しても不安になる。
夜中に廊下から足音が聞こえれば、結界を張れると分かっていても目が覚めた。
強い魔法が使えることと、心細くないことは別だった。
ある夜。
安い宿の小さな部屋で、カオリはベッドに座っていた。
外から人の話し声が聞こえてくる。
以前なら、同じ部屋のどこかでリンが喋っていた。
トウマが何か返して、カイトが大きな声を出す。
そんな時間が当たり前だった。
今は静かだ。
「……」
少しだけ寂しい。
けれど、その寂しさでカイトの言葉が正しくなるわけではなかった。
王国を潰しても構わないと笑った顔は、今でも覚えている。
あの考え方へ合わせることはできない。
それに、フトシが追放された時に何も言えなかった自分のことも、忘れたくなかった。
カオリは枕元に置いた旅の資料へ目を向けた。
あの時は、周りに合わせて何も言えなかった。
だから今度は、自分で考えて選びたかった。
資料を手に取り、次に乗る馬車と宿場の位置をもう一度確認する。
不安なら、確認すればいい。
分からないなら、調べればいい。
今の自分にできるのは、それくらいだった。
この時、カイトたち三人が北方で捕らえられ、すでに王都へ連れ戻されていることをカオリは知らなかった。
南へ進むほど、別の心配も大きくなった。
冒険者カードだ。
カイト、トウマ、リン、カオリの四人は、ロドリス王国の特例でCランク冒険者として登録されている。
身分証明として使えるため、旅では非常に便利なものだった。
だが今のカオリには、簡単に使えるものではない。
冒険者カードそのものに、持ち主の現在地をどこかへ送り続けるような機能はない。
ただしカードには、どの街でどんな魔物の素材を売却し、どんな討伐証明を提出したかといった活動の履歴が記録されている。
各支部では専用の魔導具を使い、その情報を読み取ることができる。
今の自分は、ロドリス王国が特例で登録させたCランク冒険者だ。
(王国がギルドにも探すように言っていたら……)
どこまで手が回っているのかは分からない。
支部でカードを使っただけで、すぐ王国へ伝わるとは限らない。
それでも、わざわざ足取りを残すようなことはしたくなかった。
「ロドリスを出るまでは、使わない方がいい」
カオリは冒険者カードを収納空間の奥へしまった。
実際、ロドリス王国もカオリを一般の犯罪者として公に指名手配してはいなかった。
異世界から召喚した【賢者】が逃げたと大々的に知らせることは、王国にとっても都合が悪い。
国内の主要施設や一部の冒険者ギルドへ、見かけた場合には内密に知らせるよう照会が回されているだけだった。
国外へ向けた正式な手配もされていない。
しかし、そんな事情をカオリが知るはずもない。
だからこそ、できるだけ王国に繋がる痕跡を残さず進むことを選んだ。
数日後。
次の宿場へ向かう乗合馬車を降りたところで、カオリの足が止まった。
少し先の街道に兵がいる。
簡易の柵が置かれ、通る旅人や荷馬車を一つずつ確認していた。
(検問……)
自分を探しているのか。
普通の街道検査なのか。
ここからでは分からない。
近づいて確かめるのも怖かった。
なら、見つからない方法を使う。
カオリは道を外れ、人目のない林の陰へ入った。
呼吸を整える。
「……光よ、私の輪郭を透過し、音よ、私の足跡を奪いなさい」
魔力を組み上げる。
光を屈折させ、姿を周囲へ溶かす。
同時に気配と足音を絶つ。
王都の宿から抜け出した時と同じ複合魔法だ。
自分の手が見えなくなったことを確認し、カオリは街道へ戻った。
ゆっくり歩く。
「次。荷台を確認する」
兵士の声がすぐ近くから聞こえた。
数歩先。
槍を持った兵が立っている。
カオリは息を止めそうになり、慌てて浅く呼吸を続けた。
魔法は安定している。
足音も出ていない。
分かっている。
それでも心臓だけは、兵士に聞こえてしまうのではないかと思うほど大きく鳴っていた。
「問題なし。通っていいぞ」
「ありがとうございます」
旅人の横を抜ける。
兵のすぐ後ろを通る。
誰も振り向かない。
そのまま柵を越え、街道を進む。
十分に離れてから道の脇へ入り、ようやく魔法を解除した。
姿が戻った瞬間、カオリは木へ背中を預けた。
「……怖かった」
膝から少し力が抜ける。
王都を抜けた時は、逃げることだけで精一杯だった。
今回は、自分で状況を見て、自分で方法を選んだ。
怖さは変わらない。
それでも、さっきの検問を越えられたことが少しだけ自信になった。
そこからも乗合馬車を使える場所では普通に料金を払い、旅人に混じって移動した。
王国兵が多い場所や、身元を細かく確認されそうなところだけを避ける。
何日も姿を消したまま歩くようなことはしない。
目立たず、急ぎすぎず、少しずつ南へ進んだ。
途中、交易都市マルタへ寄れば情報を集めやすいとも考えた。
大きな街なら、アクアリスや魔王国について知る者もいるだろう。
フトシの手掛かりだって見つかるかもしれない。
けれど、まだロドリス国内だ。
人が集まる場所ほど王国の目がある可能性も高い。
(今は、まずアクアリスへ出よう)
フトシを探すのは、ロドリスを離れてからでも遅くない。
カオリはマルタへは向かわず、アクアリスとの国境へ続く道を選んだ。
旅を始めた頃よりは、少しだけ慣れてきた。
宿へ入る前に出入口を確認する。
必要な金だけを手元へ出しておく。
馬車へ乗る時には、降りる場所と次の便も一緒に聞く。
収納空間のおかげで荷物に振り回されることもない。
一人が平気になったわけではない。
ただ、自分で決めて動くことには少しずつ慣れていた。
そして、王都を離れてからさらに幾日か。
カオリは乗合馬車を何度も乗り継ぎ、ロドリス王国を南へ進み続けていた。
やがて、街道の先に海洋国アクアリスとの国境検問所が見えた。
カオリは少し離れたところで足を止めた。
これまでなら、兵の姿を見ただけで別の道を探すか、不可視の魔法を使うところだった。
けれど、ここを越えればロドリス王国の外だ。
それに、正規の入口をわざわざ隠れて通れば、見つかった時には余計に怪しまれる。
カオリはしばらく検問所を見つめてから、収納空間を開いた。
奥へしまっていた冒険者カードを取り出す。
(……身分証として見せるだけなら)
カードそのものが、自分の現在地を王国へ知らせるわけではない。
依頼を受けるわけでも、素材を売るわけでもなかった。
それでも不安が消えたわけではない。
カオリはカードを握り、旅人たちが並ぶ列の最後尾へ向かった。
順番が近づくにつれて、胸の鼓動が少しずつ速くなる。
前では荷馬車の荷物が確認され、旅人たちが身分証を見せている。
やがてカオリの番になった。
「身分証を」
「はい」
カオリは冒険者カードを差し出した。
兵士が受け取り、カードへ目を落とす。
ほんの数秒のはずなのに、随分と長く感じた。
「Cランク冒険者か」
「はい」
「アクアリスへ来た目的は?」
「旅です。ポルト・ラーラへ向かうつもりです」
兵士はもう一度カードを確認したあと、カオリへ返した。
「分かった。通っていいぞ」
「ありがとうございます」
受け取ったカードを大切にしまい、カオリは検問所を通り抜ける。
呼び止められない。
誰かが慌てて動き出す様子もない。
そのまま他の旅人たちと一緒に街道を進んだ。
しばらく歩いて検問所が遠くなったところで、ようやく小さく息を吐く。
目指していた海洋国アクアリスへ、ようやく入ることができた。
カオリは一度だけ振り返った。
遠くに国境の施設が見える。
すぐに安心しきることはできない。
追ってくるかもしれない。
アクアリスが本当に安全な国なのかも、まだ分からない。
それでも、肩に入っていた力がほんの少し抜けた。
アクアリス側の街道には、ロドリスとは違う服装の旅人や商人が行き交っている。
聞こえてくる話し方も、運ばれている荷物も少し違った。
カオリはその中で立ち止まり、収納空間を開いた。
旅の資料を取り出す。
何度も確認した南への経路。
次に目指す場所は決めていた。
港町ポルト・ラーラ。
獣人帝国ガルディア方面へ海を渡る船が出ており、国外を旅する人々の情報も集まりやすい港町だ。
そこなら、フトシの手掛かりも何か見つかるかもしれない。
生きているのか。
どこへ行ったのか。
まだ何も分からない。
それでも王都の宿からここまでは、自分で来た。
道を調べた。
必要な魔法を工夫した。
怖くても、一つずつ先へ進んだ。
カオリは資料を閉じ、再び街道へ目を向けた。
「……行こう」
寂しさも不安も残ったまま、カオリはポルト・ラーラを目指して歩き出した。




