第112話 一週間の成長と、南国の休日
キリコの小さな魔力弾が、左右へ動く水球の少し後ろを通り抜けた。
「外れた」
『追いかけすぎ。動いてるところだけじゃなくて、次に来るところも見て』
「分かった」
ウンディーネの周囲を漂っていた水球が、今度は反対方向へ動き始める。
キリコはすぐには撃たず、少しだけ動きを見てから指先の魔力を放った。
今度は水球の前を通り過ぎる。
「……早かった」
『うん。でも、さっきより近いよ』
キリコが魔力の扱い方を教わり始めてから、こんな訓練が少しずつ続いている。
天候や予定に問題がなければ、朝食を終えたあとにメリディア郊外の丘陵へ向かい、午前中はウンディーネとキリコの修行だ。
俺とベル、メイ、シルクも毎回一緒に来ていた。
最初は止まっている石へ当てるだけだったが、二日目には動く水球が標的になった。
先を狙いすぎれば外れ、目で追ってから撃てば遅れる。
それでも回数を重ねるうちに、キリコは少しずつ相手の動きを見ながら狙えるようになっていった。
出力の使い分けも続けている。
『これは弱く』
ウンディーネが小さな水球を一つ作る。
キリコが放った魔力が触れると、水球だけがぱしゃっと弾けた。
『次は、あの岩』
今度は少し力を上げる。
魔力弾が岩へ当たり、表面だけを拳ほどの範囲で砕いた。
さらに人家や農地から十分に離れた方向では、紅角野牛のような大型魔物へ使うことを想定した高出力も試した。
そこまで上げれば、やはり威力は大きい。
けれど初日のように、本人の「少し」で大岩の中央を吹き飛ばすような出し方ではなくなっていた。
弱く。
中くらい。
強く。
まだ細かな調整にはばらつきがあるものの、その違いを自分で意識して切り替え始めている。
防御の方も、ただ盾を出して受けるだけではなくなった。
数日目、ウンディーネがいくつかの水球を浮かせた時だった。
キリコが正面へ魔力壁を作る。
『全部受けなくていいよ』
「受けないの?」
『避けられるなら避けて』
正面から飛んできた一つ目を、キリコは横へ動いて避けた。
次は斜めから。
こちらは身体を動かすより、盾をずらした方が早い。
キリコが小さな魔力壁を動かし、水球を受け止める。
『うん、それでいい』
ウンディーネはそう言うと、今度は右側へ水球を浮かせた。
キリコの視線がそちらへ向く。
けれど、水球は飛んでこなかった。
代わりに左から別の一つが飛ぶ。
「あっ」
慌てて盾を回すが間に合わず、キリコへ触れる前にウンディーネが止めた。
『魔力だけ見ないで』
ウンディーネが周囲を指す。
『前も横も後ろも。地面も、みんながいる場所も忘れないで』
「全部見るの?」
『一つずつずっと見なくていいよ。どこに何があるか分かってればいいの』
これは俺もセバスさんとの鍛錬で何度も教わった。
一つへ意識を向けすぎれば、その間に他が見えなくなる。
それからは、水球が浮いても必ずそこから飛んでくるとは限らなくなった。
右へ注意を引いて左から。
正面の一つを動かしながら、後ろから別の水球。
キリコは何度も引っかかったが、少しずつ視線を一か所へ固定しなくなっていった。
ウンディーネとキリコが訓練している間、俺も毎日ぼんやり見ているわけではない。
二人の様子と周囲の安全を確認しながら、アイテムボックスの中を整理することにした。
容量を気にする必要がないのをいいことに、旅を始めてから色々なものを入れ続けている。
(さすがに、一度整理した方がいいか)
肉や魚介。
野菜や山菜、キノコ。
果物。
香辛料と調味料。
出汁や仕込み中のもの、完成料理。
調理器具や屋台設備、魔物素材、旅用品。
細かく分けすぎない程度に収納場所をまとめ直していく。
意識を向けながら整理していると、随分前に手に入れたものが出てくることもあった。
「これ、まだ残ってたのか」
昔訪れた土地の食材を見つけると、その時に食べた料理や出会った人まで一緒に思い出す。
こうして並べ直してみると、随分いろいろな場所を歩いてきたものだ。
その中でも、やっぱり一番存在感があったのは紅角野牛だった。
専用の場所を作り、部位ごとにまとめ直していく。
タン、ロース、サーロイン、ヒレ、カルビ、モモ、肩、スネ、ネック、ハラミ、サガリ。
内臓にテール、骨、脂まである。
シャトーブリアンを一度みんなで食べたくらいでは、ほとんど減ったように見えない。
(……多いな)
一頭で数トンもあったのだから当然だが、改めて一か所へまとめると本当にすごい量だった。
せっかくなので、この一週間は空いた時間に仕込みも進めた。
宿へ戻って厨房を借りた日には、紅角野牛の骨の一部を取り出し、下処理をしてからじっくり煮出す。
浮いてくるものを丁寧に取りながら仕上げた牛骨出汁は、料理へ使いやすい量へ分けて収納した。
きれいな脂も一部をゆっくり溶かし、不純物を除いて牛脂へ。
端肉は筋や硬い部分を確認して挽肉用に整え、スネやネックは煮込みへすぐ使える大きさに小分けする。
塊肉も用途ごとに取り出しやすいようまとめ直した。
保存のためではない。
普通にアイテムボックスへ入れておけば状態は変わらないので、次に使う時の手間を減らしているだけだ。
【調理の超加速】も、大量の切り分けや挽肉の準備にはちょうどいい。
紅角野牛だけではなく、メリディアで買った陽冠鶏の残りも確認した。
使えるガラから出汁を取り、時間のある日は手持ちの食材で煮込みやスープを多めに作って、旅の途中ですぐ食べられるよう完成料理のまま収納しておく。
そうして午前を過ごしていても、昼になれば一度区切りだ。
『お昼にしよう』
ウンディーネが声をかけると、キリコも魔力を消してこちらへ戻ってくる。
ある日は、ストックしてあるファングウルフの芳醇赤ワインシチューとパン。
別の日には、以前作っておいたスープや煮込みを取り出した。
時間に余裕があれば俺が肉を焼いてパンへ挟み、メリディアの果物を切って添えることもある。
メイとシルクも、俺たちと同じ料理を体格に合わせた量や大きさで食べた。
訓練が終われば、キリコも普通に腹を空かせて戻ってくる。
ベルと一緒に料理へ手を伸ばし、メイやシルクのそばへ座って果物を食べる姿は、いつもの昼食と変わらなかった。
食事が終われば少し休んで、午後は宿へ戻る。
そんな日が続いた。
一週間目。
『フトシも入って』
「俺も?」
『うん。今日は一緒にいる時の練習』
俺はキリコから少し離れた位置へ立った。
ウンディーネがいくつかの水球を浮かべる。
『キリコは自分を守って。フトシも守って。それで、あれにも当ててね』
少し離れた場所で、標的用の水球がゆっくり動き始めた。
「うん」
キリコが周囲を見る。
最初の水球は正面から。
小さな魔力壁が現れ、受け止める。
次は俺の横から来た。
キリコ自身の盾を残したまま、俺の近くへもう一枚の魔力壁が出る。
水球がぶつかって弾けた。
その間にも標的は動いている。
キリコの指先へ魔力が集まり、小さな弾になって飛ぶ。
動いていた水球へ当たり、ぱしゃっと消した。
一週間前なら、一つへ集中しただけでもう一つが崩れていた。
今は短い時間なら、自分の盾と離れた場所の盾、それから攻撃まで同時に維持できている。
もちろん完璧ではない。
壁が薄くなりすぎる時もあるし、狙いが少し遅れることもある。
それでも、初日とは明らかに違った。
『次いくよ』
ウンディーネが新しい水球を動かす。
正面。
右。
標的。
キリコの目は、一つだけを追ってはいない。
次の瞬間、俺の背後で魔力が揺れた。
「ん?」
振り返るより先に、俺の後ろへ小さな魔力壁が差し込まれる。
直後、水球がそこへ当たって弾けた。
振り返ると、キリコがこちらを見ていた。
「ありがとう、キリコ」
「うん」
短い返事だったが、口元が少し緩んでいる。
ウンディーネも満足そうに頷いた。
『これなら、一緒に戦っても大丈夫そう』
キリコの表情が明るくなる。
けれど、ウンディーネはそのまま続けた。
『でも本当の戦いは、今の水球みたいにはいかないよ。もっと速いし、怖いから、最初はフトシたちから離れないでね』
「分かった」
火力だけなら、最初からAランク級にも通じるものを持っていた。
そこへ出力調整と狙い、防御、周囲を見る余裕が少しずつ加わった。
実戦経験はないし、一人で強い魔物を任せられる段階でもない。
それでも俺たちと一緒なら、キリコも戦いの中で役割を持てるところまで来た。
その日の訓練を終えて宿へ戻る頃には、俺の方の整理と仕込みもだいぶ片付いていた。
キリコの修行も一区切り。
アイテムボックスの整理も一区切りだ。
最近は宿と郊外、それから厨房を行き来する日が続いていた。
メリディアの暖かな街並みを歩きながら、ふと思う。
(せっかく来てるんだし、少しくらいゆっくりしてもいいか)
翌朝、朝食を終えてからみんなへ声をかけた。
「今日はみんなでゆっくりしに行かない?」
「行く!」
ベルはすぐに答えた。
キリコもこちらを見る。
「どこ?」
「郊外に保養施設があるらしいんだ。温かい湯に入ったり、のんびりできるみたいだよ」
『いいよ』
ウンディーネにも異論はなさそうだ。
メイが尻尾を振り、シルクの耳も元気に立った。
今日は訓練も仕込みも休みにする。
向かった保養施設は、メリディアの街から少し離れた果樹園の中にあった。
白い石造りの低い建物を、背の高い南方植物や鮮やかな花が囲んでいる。
奥には湯気の立つ開放的な浴場があり、その先には果樹園まで見渡せる風通しのいいテラスが広がっていた。
日帰り客向けの貸切休憩区画もあり、大きなクッションや寝椅子がいくつも置かれている。
海はない。
それでも、暖かな空気と果樹園から漂う甘い香り、ゆったりした建物の造りは十分にメリディアらしかった。
午前中は、本当に何も決めずに過ごした。
俺は広い湯へ浸かり、肩まで身体を沈める。
少し熱めの湯へ浸かった身体に、外から入ってくる風が気持ちいい。
キリコもゆっくり湯浴みを楽しんだらしく、休憩場所へ戻ってきた時には頬が少し赤くなっていた。
ベルは庭の花を見に行き、ウンディーネは寝椅子へ身体を預けている。
メイとシルクも俺たちの近くでのんびりしていた。
昼は施設の食堂へ向かう。
今日は俺も作らない。
頼んだのは、陽冠鶏の腿肉を炭火で焼いた料理と、厚く切った料理用月房果、それに南方野菜の焼き物だ。
大皿には何種類もの果物が盛られ、飲み物にはよく冷やした椰香果の透明な果汁が出てきた。
陽冠鶏の皮には香ばしい焼き目が付き、中はしっとりしている。
料理用月房果も、ほくっとした食感が肉の脂によく合った。
「美味しい」
キリコが陽冠鶏を食べながら言う。
「うん」
自分で作るのも好きだが、人に作ってもらった料理をのんびり食べるのもいい。
今日は細かく作り方を考えず、出されたものをそのまま楽しむことにした。
ベルは果物へ手を伸ばし、メイとシルクも俺たちと同じ料理を、それぞれ食べやすい大きさで食べている。
食後は施設の売店を覗いた。
南方植物を使った香りもの。
湯で温めて使う柔らかな布。
身体を洗うためのふわふわしたミットに、毛並みを整える何種類かのブラシ。
肌や足を保護する天然素材の蝋まで並んでいる。
「こういうのもあるのか」
いくつか買い、貸切の休憩室へ戻った。
香りものはメイやシルクへ直接付けず、蒸した布へほんの少し香りを移す。
部屋に淡い植物の香りが広がった。
そのまましばらく全員でだらだらと過ごす。
ふと、買ってきたミットとブラシが目に入った。
すぐ近くでは、メイが床へ伏せ、シルクがクッションの上で丸くなっている。
「せっかくだし、綺麗にする?」
メイが顔を上げた。
シルクの耳もこちらへ向く。
嫌そうな様子はない。
まずはメイからにした。
前足を手の上へ乗せてもらい、ぬるい湯を含ませた柔らかなミットで足裏を拭いていく。
「ワフ?」
いつもと違う感触が不思議なのか、メイが首を傾げる。
肉球の間や爪の周りを丁寧に洗い、足裏の毛も汚れが残らないよう整えた。
最後に肉球を指の腹で軽く揉んでみる。
最初は足先が少し動いたが、しばらくすると大人しくなった。
目も少しずつ細くなってくる。
片方が終わったので、ミットを洗おうと手を離した。
するとメイが、反対側の前足を俺の手のひらへ乗せる。
「そっちも?」
「ワフ」
思わず笑った。
「はいはい」
ベルが近くのクッションからその様子を見ている。
キリコもメイの顔を覗き込み、少し笑っていた。
両方の前足を終えたら、天然の蝋を肉球へごく薄く伸ばして馴染ませる。
次は耳だ。
温かな柔らかい布で、耳の表面と内側の見える範囲だけを優しく拭く。
奥へは何も入れない。
耳の付け根まできれいにしたところで、指先で軽く揉んでみる。
ぴくっ、と耳が動いた。
もう一度、ゆっくり揉む。
最初は何度か反応していた耳も、次第に力が抜けていった。
メイの目はもうほとんど閉じている。
「気持ちいい?」
尻尾が床を一度だけ叩いた。
どうやら悪くないらしい。
次はシルクだ。
シルクはメイのような肉球はなく、足の裏まで柔らかな白い毛に覆われている。
まず俺がブラシを取り、背中からゆっくり梳いていった。
首から胸元へ。
身体の横から足まで、毛を引っ張らないよう少しずつ整える。
元から柔らかな白い毛が揃い、さらにふわっと広がっていく。
それを見ていたキリコが近づいてきた。
「わたしもやっていい?」
「いいよ。優しくね」
ブラシを渡す。
キリコはシルクの背中へそっと当て、慎重に動かした。
少し力が入りそうになると自分で止め、また軽く梳く。
シルクは逃げる様子もなく、クッションの上でじっとしている。
しばらくしてキリコが手を止めた。
するとシルクが鼻先を伸ばし、ブラシを持っているキリコの手を軽く押した。
「キュ」
キリコが目を瞬く。
「まだ?」
シルクの耳が一度動いた。
キリコは少し笑い、またブラシを動かし始める。
一週間、真剣な顔で魔力を扱っていた時とは違い、今はただシルクの毛を梳くのを楽しんでいるようだった。
最後はシルクを俺の膝へ乗せた。
長い耳を片方ずつ手のひらへ乗せ、温かな布で表面を拭いていく。
内側も見える範囲だけ。
根元まで整えたところで、そのまま指で軽く揉んだ。
シルクの耳が少し揺れる。
もう一度。
ゆっくりと続けているうちに、身体から少しずつ力が抜けていった。
長い耳も左右へだらんと落ちる。
「キュゥ……」
小さく声を漏らしたあと、シルクは俺の膝へ身体を預けた。
そのまま目を閉じる。
「寝ちゃった」
キリコが小声で言った。
「みたいだね」
ベルがシルクの背中へ降り、整った毛へそっと触れる。
「すごい、ふわふわ」
キリコは隣へ座り、今度はメイの背中を撫でていた。
きれいに整った黒い毛へ光が当たり、艶が出ている。
寝椅子へ横になったまま、ウンディーネがこちらを見た。
『ふわふわだね』
それだけ言うと、また目を閉じる。
しばらくすると、本当に眠ってしまったようだった。
午後のテラスには、果樹園から暖かな風が入ってきていた。
室内には蒸し布へ移した南方植物の淡い香りが残っている。
テーブルには冷たい果実飲料。
ベルは大きなクッションへ身体を預け、キリコも寝椅子へ深く座っていた。
ウンディーネはすでに眠っている。
メイは俺のすぐ横で丸くなり、膝の上ではシルクが長い耳を垂らしたまま動かない。
俺も背もたれへ身体を預けた。
戦う必要もない。
料理する必要もない。
何かを探す必要もない。
ただ仲間たちと同じ場所で、暖かな午後を過ごしている。
それもいいなと思いながら、俺は膝の上の柔らかな毛へ手を置き、ゆっくり目を閉じた。




