第111話 魔人の力と、攻防の基礎
『キリコ、今日はやろうか』
朝食を終えて部屋へ戻ったところで、ウンディーネがキリコへ声をかけた。
キリコは何のことかすぐに分かったらしく、迷わず頷く。
「うん」
紅角野牛との戦いを見たあと、キリコは自分にもできることを増やしたいと言った。
その時、ウンディーネが魔力の扱い方を教えると約束している。
「どこでやる?」
『街の外。ここでやったら危ないから』
それはそうだ。
キリコがどれほどの力を持っているのか、俺にもまだ分からない。
人の多い街中や果樹園で試すわけにはいかなかった。
俺たちは宿を出て、メリディアの郊外へ向かう。
ベル、メイ、シルクも一緒だが、今日は基本的に見学だ。
果樹園が続く地区を抜け、人家や農地からさらに離れていくと、低い草と乾いた土に覆われた丘陵へ出た。
大小の岩が転がっているだけで、周囲に建物も畑も見えない。
『ここならいいかな』
ウンディーネが足元から薄く水を広げる。
水は地面を滑るように岩の間を抜け、丘の向こうまで伸びてから戻ってきた。
『人はいないよ。大きい生き物も近くにいない』
「じゃあ、ここにしよう」
俺たちは念のため少し離れ、ウンディーネだけがキリコの近くに残った。
何かあれば、すぐに水の結界で止められるようにするためだろう。
『最初に言っておくね』
「うん」
『今日は強くする練習じゃないよ』
キリコが首を傾げる。
『キリコはもう力いっぱいあるから。今日は、どれくらい使ったらどうなるのか覚えるの』
「分かった」
ウンディーネは少し離れた大岩を指した。
俺よりも大きく、半分ほど地面に埋まっている。
『まず、あれに魔力を当ててみて』
「魔法?」
『ううん。そのままでいいよ』
キリコは右手を大岩へ向けた。
詠唱も魔法名もない。
掌の前へ淡い光のようなものが集まり、小さな塊になる。
火や水の気配は感じない。
キリコ自身の魔力を、そのまま集めているようだった。
その動きにはほとんど迷いがない。
「これくらい?」
『うん。撃ってみて』
キリコが手を前へ押し出す。
直後、魔力の塊が真っ直ぐ飛んだ。
ドンッ!
大岩の中央が弾けた。
表面へ傷が付く程度ではない。
岩の中央が大きく砕け、拳より大きな破片まで周囲へ飛び散る。
俺が動くより早く、ウンディーネが水の壁を立てた。
飛んできた石が次々と水へ入り、そのまま勢いを失って地面へ落ちる。
ベルが目を丸くし、メイの耳も立った。
頭の上ではシルクの長い耳が前へ傾いている。
一番平然としているのは、撃った本人だった。
キリコは砕けた岩を見たあと、自分の右手を見る。
「……強かった?」
「今ので、どれくらい出した?」
俺が聞くと、キリコは少し考えた。
「少し」
「……少しか」
思わず砕けた岩を見る。
あれがキリコにとっての少しらしい。
ウンディーネは岩とキリコを見比べ、ゆっくり頷いた。
『この前の大きい牛にも、ちゃんと効くよ』
「紅角野牛に?」
『うん。ちゃんと当たれば』
Aランク相当の紅角野牛にも通じる。
少なくとも純粋な火力だけなら、キリコはすでにそれだけのものを持っているようだ。
けれどウンディーネは、そのまま続けた。
『でも、今のままじゃ戦っちゃだめ』
「どうして?」
『強すぎるから』
ウンディーネが砕けた岩を指す。
『当てたところより、いっぱい壊れてるでしょう? 石も飛んだし、狙いも大きい』
キリコが地面へ散った破片を見る。
『相手が動いたら当たるか分からないし、近くにフトシたちがいたら今のは撃てないよ』
「……うん」
『それに、撃つ時に前しか見てなかった』
ウンディーネがキリコの横を指した。
『その時にこっちから来たら、守れない』
キリコは今度は少し長く考え、それから頷いた。
紅角野牛へ傷を付けられる力があることと、紅角野牛と戦えることは別だ。
俺も実際に戦ったからよく分かる。
あの巨体は突進するだけではなく、途中で狙いを変え、角も振ってきた。
一発の威力だけでは足りない。
『だから、まず弱くしよう』
「弱くする?」
『うん』
ウンディーネは人の頭ほどの岩を指した。
『今度は壊さないで、少しだけ跡を付けて』
キリコが岩へ向き直る。
さっきよりかなり小さな魔力を掌へ集め、放った。
パキッ、と乾いた音がして岩の端が大きく欠ける。
「壊れた」
『まだ強いね。もっと小さく』
二回目。
今度は小さな欠片が飛んだ。
『もう少し』
三回目。
魔力が岩へ当たり、表面だけが浅く削れる。
ウンディーネが頷いた。
『うん。今のはいいよ』
キリコの表情が少し明るくなる。
そこからの修正は早かった。
『もっと小さく』
『途中で広げないで』
『当たるまで同じ大きさ』
ウンディーネから短く言われるたび、キリコの魔力が変わっていく。
掌ほどだった塊は少しずつ縮まり、最後には指先ほどの大きさになった。
小さくしても途中で散らず、形を保ったまま飛んでいく。
一度できた形なら、次もかなり近い大きさで作れていた。
(やっぱり、魔力を扱う才能はとんでもなく高いんだな)
ただし、毎回同じようにできるわけではない。
たまに途中で膨らんだり、当たる直前に形が崩れたりする。
理解するのが早くても、まだ身体に染みついているわけではなさそうだ。
ウンディーネは平たい小石をいくつか拾い、少し離れた場所へ並べた。
『次は、一番右だけ』
キリコが指先へ魔力を集めて飛ばす。
最初は石の横を削った。
「外れた」
『もう一回』
今度は当たる。
真ん中。
左。
狙いを変えながら繰り返していくうちに、命中する回数も増えてきた。
『じゃあ、次は当てないよ』
「当てない?」
『石の前で止めるの』
キリコが少し眉を寄せる。
これは紅角野牛を倒した帰りに、ウンディーネが見せていたものと同じだ。
撃った後も、自分の力を最後まで制御する。
キリコが魔力を飛ばした。
一回目は、そのまま石へ当たる。
二回目は速度が落ちたが、止まり切れない。
三回目。
石へ届く直前で魔力が揺れ、その場で消えた。
「消えた」
『でも当たらなかったよ』
ウンディーネの表情が少し柔らかくなる。
『次は消さないで止めよう』
何度か繰り返す。
やがて指先ほどの魔力が、石の少し手前で止まった。
ほんの一瞬だけだったが、確かにそこへ浮かんでいる。
すぐに形が崩れて消えた。
「できた」
「キリコ、さっきよりすごく小さくできてるよ!」
ベルが嬉しそうに声をかける。
キリコはベルを見上げ、少し笑った。
『撃つ方は今日はこれくらい』
「もう終わり?」
『攻撃はね。次は守る方』
俺もそちらはしっかり覚えてほしい。
「攻撃より、こっちもちゃんと覚えておいて」
「うん」
ウンディーネが自分の前へ薄い水の膜を作る。
いつもの大きな結界ではない。
自分一人を正面から守れる程度の小さな盾だった。
『こういう感じ』
キリコも両手を前へ出す。
魔力が一気に広がった。
出来上がったのは、キリコだけでなく周囲まで隠れそうな分厚い壁だった。
『強すぎ』
「これも?」
『うん。そんなにいらないよ』
ウンディーネが自分の水の盾を指先で軽く叩く。
『前から来るなら、前だけ守ればいいの。必要なところだけ』
キリコは自分の壁を見ながら、少しずつ縮めていく。
幅が狭くなり、厚みも減った。
最後にはキリコ一人を隠せる程度になる。
『そのくらい』
ウンディーネの前へ、小さな水球が浮かんだ。
『当てるね』
「うん」
水球が正面から飛ぶ。
魔力の壁へ当たり、ぱしゃっと弾けた。
盾は少し揺れたが残っている。
次は右斜め。
キリコが盾の向きを変えて受け止める。
左からも飛んだ。
今度はさっきより早く動かせた。
『次、後ろからも来るよ』
「分かった」
ウンディーネの周囲へ四つの水球が浮かぶ。
正面。
右。
左。
順番に飛んでくる。
キリコはそのたびに盾を動かし、受け止めていった。
最後は後ろ。
振り向きながら盾を回すが、少し遅い。
水球はキリコの背中へ触れる直前でぴたりと止まった。
「……間に合わなかった」
『うん』
ウンディーネは責める様子もなく頷いた。
それから自分の身体を包むように、薄い水の膜を丸く広げる。
『どこから来るか分からなくなったら、こうしてもいいよ』
全方向を覆う小さな結界だ。
『こっちはいっぱい力使うけど、何もしないよりいいから』
「やってみる」
キリコも自分の周囲へ魔力を広げた。
全周を覆う形そのものは、すぐに出来上がる。
ただし、やっぱり分厚い。
『そこまでいらない』
「また強い?」
『うん。キリコの少しは、普通より大きいからね』
最初の岩を思い出せば納得できる。
キリコは魔力が足りなくて困るのではなく、何をするにも必要以上に使ってしまう方が問題らしい。
だからウンディーネも、強くする前に小さくすることを教えている。
全周の壁も何度か作り直し、少しずつ薄くなっていった。
『最後に二つやろうか』
ウンディーネがキリコの前を指す。
『盾、そのまま』
キリコが正面へ小さな魔力壁を作った。
『そのまま、反対の手で撃って』
左手で盾を維持し、右手の指先へ魔力を集める。
ところが撃とうとした瞬間、盾が大きく揺れた。
「あ」
そのまま崩れる。
『もう一回』
今度は盾へ意識を向けすぎて、指先の魔力が散った。
何度か繰り返す。
一つに集中すると、もう一つが崩れる。
ウンディーネは急かさず見ていた。
『攻撃する時も、守るの忘れないで』
「……うん」
キリコが一度息を整える。
左手の前には薄い盾。
右手の指先には小さな魔力の塊。
今度は両方とも残っている。
キリコが右手を動かした。
小さな魔力が飛び、狙った石の表面へ浅い跡を付ける。
左手の盾は少し揺れた。
それでも消えなかった。
ウンディーネが頷く。
『うん。今のはいいよ』
キリコが自分の両手を見る。
「できた」
「初日でそこまでできたなら十分だよ」
本当に覚えるのが早い。
その一方で、最初から実戦へ出さなくてよかったとも思った。
紅角野牛との戦いで、力があるから一度撃ってみようなんて考えていたら、敵だけではなく俺たちまで危険だったかもしれない。
ウンディーネに任せて正解だった。
『今日はここまで』
「まだできるよ」
キリコがすぐに答える。
『できるけど、いっぱいやればいいわけじゃないよ。今日の感じをちゃんと覚えてから』
「……分かった」
「初日なんだから十分だよ」
俺が言うと、キリコも素直に頷いた。
訓練を終え、少し離れた岩陰へ移動する。
ちょうど昼を過ぎたくらいだ。
朝から魔力を使い続けたキリコも腹が減ったのか、座った途端にこちらを見た。
「お腹すいた」
「俺もだよ。何か食べようか」
今日はここで料理を始めるつもりはない。
こういう時のために、アイテムボックスには今まで作ってきた料理もいくつか残してある。
何にするか少し考えてから、一つの鍋を取り出した。
「今日はこれにしよう」
中に入っているのは、ポルト・ラーラで大量に仕込んでおいたファングウルフの芳醇赤ワインシチューだ。
時間の止まった収納から出した鍋は、仕込んだ時の状態をそのまま保っている。
蓋を開けると、赤ワインと香味野菜の深い香りがふわりと広がった。
ベルがすぐに近くまで飛んでくる。
「この匂い、前にも食べたことある?」
「ああ。ベルと会った頃に出したハンバーグのソースにも、これを少し使ってたんだよ」
ベルが少し考え、すぐに顔を上げた。
「あっ、あれ!」
「今日はソースじゃなくて、シチューそのものを食べよう」
ファングウルフの肉は長く煮込んであるので、すでにほろほろに柔らかい。
以前は上にフレッシュチーズを乗せて炙ったこともあるが、今日は訓練の休憩なので新しく手を加えず、そのまま器へよそう。
一緒に、まだストックのある天然酵母と発酵バターを使った特製食パンも取り出した。
厚めに切って全員へ分ける。
最後に陽蜜果も切り分け、食後用に置いておいた。
メイとシルクにも同じシチューとパンを、食べやすい量と大きさにして渡す。
二匹は以前にも食べたことがあるからか、器を置くとすぐに食べ始めた。
「いただきます」
キリコがスプーンですくったシチューを口へ運ぶ。
しばらく噛んでから、少し目を細めた。
「お肉、すごくやわらかい」
「ファングウルフはそのままだとかなり硬いんだけど、長く煮るとこうなるんだ」
赤ワインの酸味は煮込みで丸くなり、香味野菜の甘味と肉の旨味が濃く溶け込んでいる。
訓練のあとに食べる温かい煮込みは、身体の力がゆっくり抜けていく感じがした。
パンをシチューへ少し浸す。
染み込んだソースごと食べると、発酵バターの香りが加わってまた美味い。
ベルも小さなパンをシチューへ浸しながら食べている。
「この味だったのね。前はお肉にかかってたから、ちょっと違って感じる」
「今回はこれが料理の本体だからね」
ウンディーネも静かに食べていたが、いつの間にか器の中身はかなり減っている。
『これ、好き』
「まだあるよ」
『うん』
その返事だけで十分らしい。
食事の途中、キリコが自分の指先を見る。
「最初より、小さくできた」
「うん。かなり変わってたよ」
最初に大岩を砕いた一撃と比べれば、最後には石の表面へ小さな跡を付けるところまで抑えられていた。
キリコは少し嬉しそうに笑う。
けれど、すぐに別のことを思い出した。
「でも、後ろから来たのは間に合わなかった」
「それはこれからだね」
「次はできるようになりたい」
ウンディーネがパンをちぎりながら頷いた。
『じゃあ、またやろう』
「うん」
食後に陽蜜果を食べてから、俺たちは少しだけ休んだ。
暖かな風が丘を抜けていく。
急ぐ必要はない。
今日だけでも、キリコは自分がどれほど大きな力を持っているのか知った。
そのうえで、小さくすること。
狙うこと。
止めること。
自分を守ること。
そして、攻撃しながら防御を残すことまで始めている。
宿へ戻った頃には、外は夕方になっていた。
部屋で休んでいると、視界の端に小さな光が浮かぶ。
キリコが椅子に座り、右手の指先へ小さな魔力の塊を作っていた。
反対の左手の前には、顔ほどの大きさの薄い盾がある。
どちらも少し揺れている。
それでも消えない。
近くではウンディーネが静かに見守っていた。
『力、入れすぎないでね』
「うん」
キリコは短く答え、二つの魔力を保つ。
少し前までは、戦いを見ることしかできなかった。
今はまだ実戦へ出せる段階ではない。
それでも、自分にできることを一つずつ増やし始めている。
しばらくして、魔力の塊と盾がほとんど同時に消えた。
キリコは自分の両手を見てから、少し嬉しそうに笑った。




