第110話 軽口のギルドマスターと、大精霊の旅人
メリディア冒険者ギルドの執務室で、ラウル・セルヴァは一枚の報告書へ目を通していた。
机の上には、紅角野牛の緊急救援に関する書類が何枚も重なっている。
ガルヴァンたちから提出された報告。
受付職員の記録。
討伐証明と報酬処理の記録。
そして最後にまとめられた結果には、
緊急救援成功。
負傷者を含む全員生還。
紅角野牛討伐。
討伐者、フトシ。
冒険者ランク、D。
と記されていた。
「……改めて文字にすると、おかしいんだよなぁ」
ラウルは椅子の背へ身体を預け、報告書を少し持ち上げた。
紅角野牛はAランク級。
しかも今回現れた個体は、成獣の中でもかなり大きかった。
肩まででも三メートル近くあり、頭部まで含めればさらに高い。
全長は五メートルほど。
重量も数トンはあっただろう。
昨日、ギルドの大型解体場へ出された時には、普段から大型魔物を見慣れている職人たちでさえ、その大きさに目を向けていた。
それをフトシは自分で解体した。
皮や骨、魔石などを除いたとしても、肉や脂、食べられる内臓を合わせれば優に一トンを超える量になる。
解体場の職人が、
「これだけあれば、大人数へ一度や二度振る舞ったくらいじゃ減った気がしないぞ」
と笑っていたほどだ。
それを部位ごとに分け、ほとんど全部持ち帰ったらしい。
「しばらく肉には困らないだろうねぇ」
ラウルは報告書を机へ戻した。
だが、気になるのは肉の量ではない。
最初にフトシを見た時から、妙だった。
あの日、彼はごく普通に受付へ来た。
メリディア周辺で食材として評判のいい魔物や、珍しい食材に関係する依頼がないか。
聞いた内容も、それだけだった。
魔石カードはDランク。
見た目だけなら、かなり鍛え込まれた前衛冒険者だった。
大きな身体に厚い筋肉。
それだけなら珍しくない。
だが、立ち方が違った。
ただ立っているだけなのに重心が安定し、余計な力が入っていない。
視線も受付だけを見ているのではなく、自然に周囲まで捉えていた。
そして何より、魔力が静かだった。
かなりの量を内側へ持っている。
それなのに、ほとんど外へ漏れていない。
意識して押し込めている様子もない。
高ランク冒険者を長く見てきたラウルには、それだけでもカードのDという文字をそのまま信じる気にはなれなかった。
さらに、足元には黒い小犬。
頭の上には小さな白兎。
どちらも見た目だけなら可愛らしい。
だが、ラウルの感覚には少し引っかかるものがあった。
「普通の魔物じゃないよなぁ、あの子たちも」
そして小さな妖精。
ここまでなら、かなり珍しい仲間を連れた冒険者で済んだ。
問題は、その先だった。
フトシのすぐ近く。
誰もいないように見える場所に、あまりにも澄んだ気配があった。
水。
ただの水精霊ではない。
湖や川の一部どころではなく、水という存在そのものへ繋がっているような巨大な気配。
ラウルはエルフだ。
エルフは古くから森や水、風、大地、植物と共に暮らしてきた。
精霊は単なる魔法を使う存在でも、遠くから拝むだけの対象でもない。
生活の中に自然があり、その自然の中に精霊がいる。
だから種族としても、精霊の気配を感じ取る者は多い。
会話できるほど親和性の高い者もいる。
ラウル自身、その中でもかなり感覚が鋭い方だった。
だから分かってしまった。
あれは別格だ。
大精霊。
エルフにとっても、最大級の敬意を払う存在。
それも、水を司る大精霊。
「……いやいやいや」
昨日の自分を思い出し、ラウルは額へ手を当てた。
表向きは、いつも通りだったと思う。
軽く話し、笑い、フトシたちを見ていた。
けれど内心では、
(水の大精霊様だよな?)
(本当に?)
(なんで普通に冒険者ギルドへ来てるんだ?)
と何度考えたか分からない。
声が上擦らないようにするだけでも少し意識が必要だった。
それでも、態度を変えるつもりはなかった。
職員も冒険者も大勢いる場所で、ギルドマスターである自分が突然平伏でもすれば、それだけで大騒ぎになる。
何より、当のウンディーネ本人がフトシの横でごく自然にしていた。
フトシも、まるでいつもの仲間と一緒にいるだけという様子だった。
ならば、こちらが勝手に騒ぐ方が失礼だ。
ラウルの話し方は昔から軽い。
だが、相手への敬意まで軽いわけではない。
どこまで踏み込んでいいか。
どの言葉を選ぶか。
そこはきちんと見ているつもりだった。
そのうえ、フトシは王家の短剣まで取り出した。
「あれは、さすがにまだ出てくるのかと思ったけどねぇ」
だが、彼はそれを権力として使わなかった。
これを持っているから依頼を受けさせてほしい。
そう言うのではなく、
自分の実力に問題があるならセバスへ確認してほしい。
セバスが危険だと判断するなら、自分も諦める。
そう言った。
大精霊と行動し、王家から信頼され、本人にもDランクとは思えない力がある。
それでもギルドの決まりを無視しなかった。
ラウルにとっては、そこが一番大きかった。
強いから信用したのではない。
強さを持っていても、それを使って無理を通そうとしない。
だからこそ、緊急時の例外を悪用するような人物ではないと判断できた。
そして王城から返ってきたのが、セバスの保証だった。
紅角野牛一体であれば、フトシの実力に問題はない。
ベルや獣魔たちも同行するなら、戦力面の懸念はさらに少ない。
あのセバスがそこまで言い切った。
「そりゃあ、俺が心配する方がおかしいか」
ラウルは小さく笑った。
その日の午後。
ラウルは正式な事後報告書を持って、メリディア王城を訪れていた。
王家の短剣を持つ人物を、例外的にAランク級魔物の緊急救援へ参加させた。
結果に問題はなかったとはいえ、報告は必要だ。
案内された部屋で待っていると、ほどなくセバスが入ってきた。
「お待たせいたしました、ラウル殿」
「いやぁ、セバス。相変わらずとんでもない子と付き合ってるね」
セバスは少しだけ眉を上げる。
「私が連れてきたわけではございませんよ」
「それは知ってるけどさ」
昔から変わらないやり取りだ。
ラウルとセバスは、王城と冒険者ギルドの仕事を通して何度も顔を合わせてきた。
街道の魔物被害。
王族の移動に伴う護衛情報。
緊急時の冒険者手配。
元Sランク冒険者でもあるセバスとは、普通の役人相手より話が早い。
ラウルの軽い口調も、今さら気にする相手ではなかった。
それでも、まずは仕事だ。
ラウルは報告書を差し出した。
「紅角野牛は討伐。ガルヴァンたち四名は全員救出済み。負傷者も街まで戻って治療を受けてる。一般人への被害もなし」
「それは何よりでございます」
「フトシ君たちにも怪我はなし。参加を認めたことで新しく問題が起きたこともないよ」
セバスが静かに頷く。
「ご報告、ありがとうございます」
一通り必要な確認を終える。
ラウルはそこで背もたれへ軽く身体を預けた。
「それでさ、一つ聞いていい?」
「何でしょう」
「フトシ君って、何者なの?」
セバスは少し考えた。
「料理人でございます」
「いや、それは昨日知ったよ」
ラウルは思わず笑った。
「料理人なのは分かった。でもAランクの紅角野牛相手に、あそこまでやれる料理人は普通いないでしょ」
「それは、まあ……そうでしょうね」
セバスの口元にもわずかに笑みが浮かぶ。
「私がオリエンス滞在中、毎朝鍛錬のお相手をしておりました」
「やっぱりセバスが教えてたんだ」
「ええ。もっとも、最初から身体能力そのものは非常に高い方でした」
セバスは当時を思い返すように続ける。
「ただ、人間を相手とした戦闘経験は不足しておられました。フェイント、間合い、視線、重心の移動、受け流し。複数の情報を同時に見ることも含め、繰り返し鍛錬しております」
「なるほどね」
「フトシ様は、教えたことを素直に反復されます。分からぬところを誤魔化さず、できるまで繰り返される。そのため習得も早い」
さらに木の大精霊から加護を受けたことで、フトシ自身の身体能力も以前より高くなっている。
だが、セバスが評価しているのはそこだけではなかった。
「現在は、力を持っているだけではございません。その力をどのように使うべきかも、理解し始めておられます」
ラウルはガルヴァンから聞いた戦闘を思い返す。
紅角野牛の突進を真正面から止めなかった。
自分が前へ立って注意を引きつけ、攻撃を流す。
メイが足を止め、シルクが体勢を崩す。
そこへフトシが入る。
「だから、ああいう戦い方になったのか」
「どのような戦い方を?」
「自分一人で押し潰そうとしなかったんだよ。ちゃんと仲間が動けるように前へ立ってた」
「それは、フトシ様らしいですね」
セバスは穏やかに答えた。
ラウルは少し考えてから、もう一つ気になっていたことを聞く。
「で、なんでDなの?」
「ご本人が、ランクを上げることを目的としておられませんので」
「そういう問題かなぁ」
「旅と料理のために必要な範囲で冒険者として活動できれば、それでよいとお考えなのでしょう」
確かに、本人を見ていれば納得できる。
高いランクを自慢したいような様子はまったくなかった。
ラウルはそこで少しだけ声を落とした。
「あと……一応、確認したいんだけど」
「はい」
「あの方、本当に水の大精霊ウンディーネ様なんだよね?」
「ええ。間違いございません」
あまりにも迷いのない即答だった。
(やっぱりかぁ……)
分かっていた。
分かっていたが、改めて本人を知るセバスから聞くと重みが違う。
「いやぁ、昨日は本当に参ったよ」
「何がでございますか?」
「エルフの俺に、大精霊様を目の前にして平然としてろって方が無茶でしょ」
セバスが一瞬黙った。
それから、珍しく少しだけ困ったように笑う。
「お気持ちは、よく分かります」
その一言だけで十分だった。
どうやらセバスにも何かあったらしい。
「その割には、普段と変わらぬご様子だったと伺っておりますが」
「仕事中だからね」
ラウルは肩をすくめる。
「それに、ウンディーネ様ご本人がああして普通にしてるのに、俺が勝手に大騒ぎする方が失礼だろ?」
セバスは少し目を細めた。
「ラウル殿らしいご判断です」
「褒めても何も出ないよ」
軽く返したあと、ラウルはもう一つ思い出した。
「そうだ。フトシ君から感じた、あの強い樹木系の精霊の気配。あれも大精霊由来?」
「お気づきでしたか」
「一応エルフだからね」
セバスが頷く。
「オリエンスの大聖樹に宿る木の大精霊様から、フトシ様ご本人が直接加護を授かっております」
ラウルは黙った。
水の大精霊と旅をしている。
木の大精霊から直接加護を受けている。
王家の短剣を持っている。
Aランク級魔物を討伐できる。
正式な冒険者ランクはD。
本業は料理人。
しばらく整理してから、口を開く。
「……情報、多くない?」
「否定はいたしません」
セバスの返事も早かった。
ただ、セバスがフトシを大切にしている理由は、その規格外な力だけではないらしい。
「フトシ様は、必要以上にご自身の力を誇示されません。依頼や約束を軽んじることもなく、相手の立場を考えて行動されます」
ラウルは王家の短剣を出した時のことを思い出す。
「それは分かるよ」
「料理についても同じです。珍しい食材や技術には強く興味を持たれますが、それ以上に、ご自身の料理を誰かが喜んで食べることを素直に喜ばれる方です」
「なるほどねぇ」
強さも立場もある。
それでも、それを前へ出さない。
ラウルが実際に見たフトシともよく重なる。
ふと昨日の解体場を思い出した。
「そういや、昨日の紅角野牛ね」
「はい」
「全部持って帰ったよ、あの子」
「そうでしょうね」
セバスは迷わなかった。
「即答なんだ?」
「フトシ様ですので」
それで説明になっているような気がしてしまうのが少し悔しい。
「あの個体、かなり大きかったよ。解体職人が、一度大人数へ振る舞ったくらいじゃ使い切れないって言ってた」
ラウルは昨日の光景を思い返す。
巨大な肉塊が次々と切り分けられていく。
ロース。
ヒレ。
バラ。
モモ。
タン。
内臓。
骨。
脂。
使えるものはほとんど全部。
それぞれきれいに処理され、フトシのアイテムボックスへ収納されていった。
「しばらく肉には困らないだろうね」
「フトシ様であれば、いずれすべて美味しく召し上がるのでしょう」
「しかも解体まで自分でやるんだよ。職人も驚いてた」
「旅の初期に、解体職人から本格的に学ばれたと聞いております」
「料理人ってそこまでやるもの?」
セバスは少し考える。
「フトシ様の場合、食材を知ることも料理の一部なのでしょう」
「……ああ、それなら納得できる気がする」
報告書をまとめ、ラウルは席を立った。
王城を出る頃には、メリディアの陽射しが石畳を明るく照らしていた。
街ではいつも通り、人が行き交っている。
市場の方からは果物の甘い香りと、乾いた香辛料の匂いが風に乗って流れてきた。
ラウルは色眼鏡を掛け直し、ゆっくり歩き出す。
最初は、妙に強そうなDランク冒険者だと思った。
次には、大精霊を連れた正体のよく分からない少年。
今は少し違う。
強さも、珍しい加護も、王家との繋がりも持っている。
それでも本人は、それを振りかざすことなく、自分のやりたい旅と料理を続けている。
「面白い子だよねぇ」
どこかで今頃も、フトシたちは普通にメリディアの街を歩いているのだろう。
昨日までの騒ぎを思い返しながら、ラウルは少し笑った。
あの少年がこの街を出るまでに、あと何を見つけて、何をするのか。
警戒ではなく、純粋にそれが少し楽しみになっていた。




