第109話 紅角野牛の解体と、厚切りシャトーブリアン
メリディアの外壁が見えてきた頃には、背負っている冒険者の呼吸もすっかり落ち着いていた。
行きとは違い、もう紅角野牛に追われる心配はない。
周囲を警戒しながら歩いていた冒険者たちも、街が近づくにつれて少しずつ肩の力が抜けている。
「……改めて礼を言わせてくれ」
俺の横へ来たのは、救援した四人の中で指示を出していた男性だった。
「まだ名乗ってなかったな。俺はガルヴァン。Aランクで、このパーティーのまとめ役をやってる。今回は本当に助かった」
「フトシです。間に合ってよかったです」
「本当にな。あと少し遅かったら、怪我人を守りながらもう一戦するしかなかった」
ガルヴァンさんはそう言ってから、俺を改めて見る。
「ところで、あんたは何ランクなんだ?」
「Dです」
「……D?」
一瞬、足が止まった。
「はい」
何か言いかけたガルヴァンさんは、少し考えてから息を吐く。
「まあ、ランクが実力そのものじゃないのは知ってる。あれを見た後じゃ、カードの方が追いついてないと思うしかないな」
隣を歩いていた仲間も苦笑していた。
「それだけ戦えるなら、冒険者一本でやってるのか?」
「冒険者もやっていますけど、俺は料理の方が本業みたいなものです」
今度こそ、ガルヴァンさんがはっきり止まった。
「……料理?」
「はい」
「紅角野牛の突進を引きつけてた奴の本業が?」
「料理です」
後ろから声がした。
片腕を固定している男性が、何か思い出したように俺を見る。
「待てよ。フトシって……昨日、市場で陽冠鶏をパンに詰めた料理を売ってなかったか?」
「ピタサンドなら俺です」
「あれもあんたか!」
ガルヴァンさんが俺の身体を上から下まで見て、それから首を振った。
「世の中、見た目じゃ分からんな……」
それ以上は追及されなかった。
メリディアへ着くと、そのまま冒険者ギルドへ向かう。
まず負傷者を職員へ引き渡し、治療を受けてもらった。
全員が無事に戻ったことを確認すると、受付の奥からラウルさんが出てくる。
今日も鮮やかな花柄の開襟シャツに色眼鏡という格好だ。
けれど、俺たちとガルヴァンさんたちを見た時の表情は真面目だった。
「全員いるね」
一人ずつ確かめるように視線を向けてから、ラウルさんが大きく息を吐く。
「よかった。本当によかったよ」
「おかげさまでな」
ガルヴァンさんたちが、現地で起きたことを順番に説明していく。
紅角野牛との最初の交戦。
負傷者が出て撤退したこと。
岩場で動けなくなっていたところへ俺たちが到着したこと。
そして紅角野牛を討伐し、全員を連れて帰ってきたこと。
俺だけの報告ではないので、戦闘の状況もそのまま伝わった。
最後まで聞いたラウルさんは、少しの間黙っていた。
それから俺たちへ向き直る。
「フトシ君。それからベルちゃん、メイちゃん、シルクちゃんも。本当にありがとう」
いつもの軽い調子ではなく、きちんと頭を下げる。
色眼鏡越しの視線が、ウンディーネのいる場所にも向いた。
「もちろん、大精霊様にも」
『……うん』
ウンディーネが短く返した。
「本来なら、救援要請が入った時点ですぐ十分な戦力を送るべきだった。でも、動ける高ランク冒険者をすぐには揃えられなかったんだ」
ラウルさんが顔を上げる。
「そんな状況で、自分から行くと言ってくれた。しかも全員を連れて帰ってきて、紅角野牛まで討伐してくれた」
そこで少しだけ、いつもの笑みが戻った。
「今回はギルドの方が君たちに助けてもらったんだ。メリディア支部のギルドマスターとして、改めて礼を言わせてほしい」
「いえ。間に合ってよかったです」
本当にそれで十分だ。
ガルヴァンさんたちが全員生きて戻れたなら、行った意味はあった。
「規則上、参加許可そのものは今回限りの扱いになるけど、それと今日の働きは別だからね」
ラウルさんが肩をすくめる。
「救援を成功させたことも、紅角野牛を討伐したことも、ギルドの記録にはきちんと残すよ」
「ありがとうございます」
「こっちこそ」
そのあと現地で確保しておいた魔石と角の一部、それから指定された討伐証明を提出する。
確認が終わると、救援依頼の報酬も正式に受け取った。
残った紅角野牛は、討伐した俺たちへ帰属する。
手続きを終えたところで、受付の女性へ尋ねる。
「すみません。大型魔物用の解体場をお借りできますか?」
「紅角野牛を解体されるんですか?」
「はい」
「でしたら、こちらで解体職人を手配することもできますよ」
ありがたい申し出だ。
けれど今回は、自分でやりたい。
「ありがとうございます。でも、肉の状態を見ながら自分で部位ごとに取りたいので、俺にやらせてもらえますか?」
「もちろん構いません」
後ろで聞いていたガルヴァンさんが呟く。
「……本当に料理人なんだな」
ギルド裏手にある大型魔物用の解体場を借りた。
広い石床には巨大な作業台が並び、水場や排水路も整っている。
一番大きな台を借り、アイテムボックスから紅角野牛を取り出した。
巨大な赤褐色の身体が作業台へ横たわる。
現地で血抜きは済ませてある。
俺はミスリル打ち込み特注解体ナイフを取り出した。
ガルドさんから解体を教わって以降、旅の中でも色々な魔物を捌いてきた。
鳥型や獣型をはじめ、一般的な魔物なら血抜きから皮剥ぎ、内臓処理、骨外し、部位分けまで一通り自分でできる。
解体そのものには、もう不安はない。
ただ、紅角野牛ほど巨大な牛型魔物を丸ごと扱うのは初めてだ。
地球の牛に似ているからといって、完全に同じ構造だと決めつけるつもりもない。
まず身体へ手を当て、骨の位置を確かめる。
肩、肋骨、背骨、骨盤、関節。
筋肉の流れと、脂の付き方も見る。
大まかな構造は牛にかなり近い。
細かな違いまで把握したところで、ナイフを握り直した。
「よし」
皮を傷つけすぎないよう刃を入れ、少しずつ剥がしていく。
頭部と四肢も関節から外し、角や皮は素材として使えるよう、なるべくきれいな状態で残した。
腹を開く時は内臓を傷つけないよう慎重に刃を進める。
ここまでは速さより確認を優先した。
紅角野牛の構造が頭へ入ったところで、【調理の超加速】を使う。
手の動きが一段速くなった。
それでも、解体をスキルへ任せているわけではない。
関節の隙間を探し、骨際へ刃を沿わせる。
筋膜の境目を追い、肉と脂を必要なところで分ける。
自分で身につけた技術を、いつもより速く、正確に繰り返していく。
骨へ刃をぶつけず、肉もほとんど残さない。
近くで作業していた解体職人が、途中から手を止めてこちらを見ていた。
「……その速さで、骨際に肉が残らないのか」
聞こえたが、今は目の前の肉へ集中する。
まず頭部から舌を根元まで丁寧に外した。
紅角野牛だけあって、タン一本でもかなり大きい。
先端は締まり、根元へ近づくほど厚みが増して脂も乗っている。
(タン元だけでも随分取れるな)
皮付きのまま収納する。
肋骨周辺には、赤身と脂が重なる肉がたっぷり付いていた。
骨付きで残す部分と、骨際から肉だけ外す部分へ分ける。
カルビに近い部位だ。
横隔膜周辺からは、濃い赤色をした太い繊維の肉を丁寧に外した。
ハラミとサガリに近い。
内臓と一緒にまとめず、それぞれ別に分けておく。
背中側へ進むと、大きな肉塊の断面へ細かな脂が網目のように入っているのが見えた。
リブロースに近い部分。
さらに腰側にはサーロイン。
指で軽く押すと、赤身の弾力の中へ白い脂が細く走っている。
(いい和牛みたいだな……)
紅角野牛が高級食材として扱われる理由が、切ってみるとよく分かる。
そして腰の内側。
骨へ沿わせて慎重に刃を進め、周囲の筋膜を剥がすようにして長いヒレを外した。
巨大な紅角野牛だけあって、一本のヒレそのものがかなり大きい。
その中央。
厚みがあり、形もきれいに整った部分へ目が止まる。
「……おお」
深い赤色の肉に、細かな脂が控えめに入っている。
余計な筋もほとんどない。
シャトーブリアンに当たる部分だ。
(これが何食分も取れるのか)
さすがに少し心が躍った。
今夜はこれにしよう。
もちろん、いい部位だけ取って終わりにはしない。
モモは大きな筋肉ごとに分け、肩も筋の流れを見ながら切り分ける。
スネとネックも骨からきれいに外した。
焼くのに向く肉。
煮込んだ方がいい肉。
挽肉に使いやすい肉。
同じ一頭でも、それぞれに向いている料理が違う。
それを自分の手で分けていくのが楽しい。
次は内臓だ。
レバーは傷を付けないよう両手で支えながら外した。
濃い赤褐色で、表面には艶と張りがある。
状態はかなりいい。
(この状態で取っておけるのはありがたい)
生で食べるつもりはないが、鮮度が良ければ加熱料理でも選択肢は増える。
ハツも大きい。
表面の余分な脂と太い血管を取り、開いて内部の血を流した。
指で押すと、筋肉らしい強い弾力が返ってくる。
そして胃や腸。
ここからは肉を切り分けるのとは違う手間がかかる。
内臓処理用の場所へ移し、まず内容物をすべて除いた。
腸は必要なものを裏返し、大きな汚れや余分な脂を先に手で落とす。
胃も開き、ひだの奥まで確認した。
一度流水で洗ったが、当然これだけでは足りない。
何しろ紅角野牛一頭分だ。
量もかなりある。
(……洗濯機みたいに回せないか)
解体場にあった大きな桶を借り、清水をたっぷり張る。
そこへ下処理した腸を入れ、『料理魔導の適性』で水を循環させた。
桶の中を大きな水流が回る。
内臓を底や壁へ強く叩きつけない程度に調整し、ゆっくり持ち上げては沈める。
しばらく回したところで、今度は流れを逆方向へ変えた。
汚れた水は下から少しずつ排出し、その分だけ新しい清水を上から足していく。
(うん。これならかなり洗える)
俺の記憶にある洗濯機に少し似ていた。
ただし全部を同じ強さでは回さない。
傷みやすい腸は弱め。
厚く丈夫な胃は少し強め。
水流そのものを部位ごとに調整する。
一度取り出し、内側や折り目を指で確認する。
残っている部分は赤塩を使って揉み洗いし、ぬめりの強いところには小麦粉を馴染ませてから洗い流した。
それから、もう一度桶へ戻す。
水を回す。
入れ替える。
取り出して確認する。
それを何度か繰り返すうち、排水の濁りはほとんどなくなった。
さらに『料理魔導の適性』で細い水流を作り、胃のひだや腸の折れ目へ直接通す。
最後は必ず自分の指で触れて確認する。
脂も全部落とすわけではない。
食べた時に旨味になる柔らかな脂は適度に残し、硬い部分や臭いの原因になるものだけを除いた。
「……よし」
洗い終えた内臓は、それぞれ本来の色と質感がはっきり見える。
気になる臭いもほとんど残っていない。
(焼いてもいいし、煮込みも良さそうだ)
もつ鍋も一瞬浮かんだが、今夜は違う。
水気をしっかり切り、胃や腸も種類ごとに分けて収納した。
尾は関節ごとに切り分けてテールへ。
肉を外した骨も捨てない。
髄の多い部分と、出汁を取るのに使いやすい骨へ分ける。
脂もきれいな部分をまとめておく。
精製すれば牛脂として使える。
気がつけば、あれほど巨大だった紅角野牛が、作業台の上からほとんど姿を消していた。
代わりにアイテムボックスの中には、部位ごとに分けた大量の食材が並んでいる。
タン。
ロース。
サーロイン。
ヒレ。
カルビ。
モモ。
肩。
スネとネック。
ハラミとサガリ。
レバーやハツ。
胃や腸。
テール。
骨と脂。
一頭丸ごと見れば、本当に食べられる場所が多い。
「……これは、しばらく楽しめそうだ」
ナイフを丁寧に洗い、刃の水気を拭いて鞘へ戻す。
片付けを終える頃には、午後もかなり進んでいた。
宿へ戻り、少し休んでから厨房を借りる。
今夜は手の込んだ料理を作るつもりはない。
紅角野牛を初めて食べるなら、まずは肉そのものを一番分かりやすい形で味わいたい。
取り出したのは、先ほど切り分けたシャトーブリアンだ。
大きな肉塊をまな板へ置く。
周囲の筋膜と銀皮を剥ぎ、硬い脂や形を崩す部分だけを丁寧に除いていく。
肉を磨く。
元からいい肉を、食べる時に邪魔になるものだけ取り除いて整える作業だ。
切り落とした食用部分も別に収納する。
整った肉を、一人分ずつ厚く切った。
かなり分厚い円柱状になる。
切断面は深い赤色で、その中へ細かな脂が控えめに入っていた。
サーロインのように脂が多いわけではない。
ヒレらしい赤身のきれいさがありながら、白い脂が細かく散っている。
表面の水分を丁寧に拭き、赤塩を薄く振る。
香辛料もほんの少しだけにした。
今日は肉が主役だ。
ミスリル配合の黒剛鉄フライパンを十分に温め、油を薄く馴染ませる。
そこへ分厚いシャトーブリアンを置いた。
ジュウッ、と重い音が立つ。
すぐには動かさない。
フライパンへ触れている面が赤から褐色へ変わり、縁にも濃い焼き色が見えてくる。
少しずつ、焼けた牛肉の香りが厨房へ立ち始めた。
片面へしっかり色が付いたところで返す。
反対側。
さらに肉を立て、側面も順番に焼いていく。
全周へ香ばしい焼き目を付けたところで火加減を落とした。
ノース・グラン産の発酵バターと香草を加える。
溶けたバターが細かな泡を作り、焼けた肉の香りへ発酵バターの濃い香りが重なった。
フライパンを少し傾け、溜まったバターをスプーンですくう。
それを肉へ何度もかける。
表面の色。
押した時の弾力。
肉の厚み。
そこを自分で見ながら、【絶対温度領域】でフライパンと周囲の熱を細かく整えていく。
分厚い肉を強火だけで中心まで焼こうとはしない。
外側の焼き目を残しながら、中心へゆっくり熱を入れる。
頃合いを見てフライパンから出した。
すぐには切らない。
温かい場所で肉を休ませる。
その間に、ジャイアント・マッシュと黄金色の芋を少量焼いた。
付け合わせはこのくらいでいい。
肉を焼いたフライパンには、肉汁と発酵バターが残っている。
余分な脂を少し除き、赤ワインを加えた。
鍋肌に残った旨味を木べらで溶かしながら軽く煮詰め、最後に発酵バターを少しだけ溶かしてまとめる。
ソースは別添えにした。
最初の一口には使わない。
休ませたシャトーブリアンへナイフを入れる。
ほとんど力を入れなくても刃が進んだ。
外側には濃い褐色の焼き目。
中心へ向かうほど色は淡くなり、中央にはしっとりした赤みが残っている。
断面には溶けた細かな脂が薄く艶を作っていた。
肉汁も皿へ大量に流れ出さず、肉の中へしっかり残っている。
「できた」
人数分を皿へ盛る。
ベルも、キリコも、ウンディーネも同じシャトーブリアンステーキ。
メイとシルクにも同じ味付けで、食べやすい大きさと厚み、温度だけ調整した。
俺も席につく。
最初は何も付けない。
一切れ切り、そのまま口へ運んだ。
「……っ」
まず表面の香ばしさが来る。
しっかり焼いた赤身と、発酵バターの香り。
歯を入れる。
分厚いのに、驚くほど素直に肉が切れた。
ただ柔らかいだけではない。
最初にほんの少し弾力があり、噛むと赤身の繊維がゆっくりほどけていく。
そこから濃い旨味が広がった。
牛肉らしい、深く力強い味だ。
噛むほど赤身の旨味が増し、その合間から細かな脂が溶ける。
脂にはほのかな甘味がある。
それでもヒレなので、舌を脂が重く覆い続ける感じはない。
飲み込んだ後には、焼けた肉の香りが静かに残った。
「……美味い」
すぐに二切れ目を切る。
今度は赤塩をほんの少しだけ付けた。
口へ入れて噛む。
「……これは反則だろ」
塩だけで肉の旨味がさらに前へ出る。
赤身の濃さも、脂の甘味も分かりやすくなった。
表面の香ばしさまで、一段はっきり感じる。
「なにこれ、すごくやわらかい!」
ベルが肉を見ながら目を丸くしている。
キリコもゆっくり噛み、皿の肉と俺を見比べた。
「これ、あの紅角野牛?」
「そうだよ」
「同じなのに、もう全然違う」
昼間まで丘を走り回っていた巨体が、今は皿の上にある。
キリコは解体場でも、俺が肉だけではなく内臓や骨まで分けているところを見ていた。
「食べられるところ、いっぱいあったね」
「うん。せっかくなら、なるべく無駄にしたくないからね」
キリコは頷き、また一切れ口へ運ぶ。
メイは肉を噛むたび尻尾を小さく振り、シルクも皿からほとんど顔を上げない。
ウンディーネは静かに食べ終え、こちらを見た。
『……もう一枚ある?』
「あるよ」
少し笑いながら追加を焼くことにした。
三口目は、赤ワインのソースをほんの少し。
赤ワインの酸味と肉汁の旨味、発酵バターのコクが加わる。
これはこれでよく合う。
けれど、やっぱり肉だけでも十分すぎる味だった。
俺は次の一切れを、もう一度何も付けずに口へ運ぶ。
今日、自分の手で一頭丸ごと捌いた紅角野牛。
骨の位置も、脂の付き方も、どの部位がどんな肉なのかも全部見た。
その中から切り出したヒレの中央が、今こうして皿の上にある。
アイテムボックスには、まだ大量の紅角野牛が残っている。
けれど今は、その先の料理を考えるより、目の前の一皿を味わいたい。
俺は厚切りのシャトーブリアンをもう一切れ切り、焼き目の香りと赤身の濃い旨味をゆっくり噛み締めた。




