正親町天皇
方仁親王は父の後奈良天皇の死を受けて践祚(正親町天皇)する。だが依然として朝廷の財政は逼迫しており、すぐには即位の礼を行えなかった。
朝廷は有力な戦国武将と結びつき、権威と財政を取り戻そうと考える。関白の近衛前嗣(後に前久と改名)は自ら京を出て、(俗っぽい言い方だが)営業回りの旅に出た。
践祚から約2年たって毛利元就らから資金援助を受け、天皇は即位の礼を行うことができた。この資金援助の返礼としてそれぞれの武将に相応の官位を与えた。
数年後、京で征夷大将軍の足利義輝が三好氏に殺害され、彼らの擁立する足利義栄が新たな将軍になった。かと思えばその数ヶ月後には織田信長が足利義昭を擁立し三好氏を京から追い払った。
めまぐるしく状況が変わるが天皇は武将たちと対立せず、官位と権力を与えることを条件に各国の平定と、戦乱のどさくさで奪われた朝廷や公家の領地を復活させることを命じた。
朝廷としては大切な行事を行うためのお金が欲しい。武将たちは天皇の権威が欲しい。そんなギブアンドテイクのバランスを作り上げていったのは近衛前久の努力のお陰と言える。
中でも天皇が頼ったのは織田信長で、皇子である誠仁親王の元服にかかる費用を負担したのも信長だった。これで誠仁親王は事実上の皇太子となり、しばらくすると天皇の政務の補佐的なこともするようになった。天皇はかつてのように院政を敷く体制に意欲を見せ、信長も自分の屋敷を誠仁親王に献上するなど譲位に乗り気だったはずなのだが、なんやかんやで先延ばしにされ(この辺の事情はよくわからない)ているうちに信長は家臣の明智光秀の謀反で命を落とす。だが、その光秀はただちにライバルの家臣・羽柴秀吉によって討ち取られ、秀吉は光秀の領地を奪って財力アップした。
秀吉はそれから朝廷に対して信長同様に領地の回復などの働きを行い、朝廷から与えられる官位をありがたく受け取った。公家でも武家ですらもない秀吉は近衛前久の養子となり、藤原氏(後に豊臣氏の姓を天皇から与えられる)となって関白に任じられた。秀吉は信長のやりかけていた天皇から誠仁親王への譲位の準備を進めるが、その途中で誠仁親王は突然亡くなってしまう。そのため天皇は誠仁親王の子、和仁親王に譲位することに決めた。誠仁親王には、和仁親王の即位後に陽光院の号が贈られた。




